彼のやり方


ー 俺の教育は厳しいよ?…●ちゃん。

教育係の尾田さんに最初にそう言われたけど、本当にそうだった。甘さゼロ。ダメなことはその場で指摘。といっても大声で怒鳴られるとか執拗にネチネチ言われるわけじゃない。ただ、明らかに呆れ口調だったり、ねっとりとした口調で指摘される。反面、うまくこなせた時は、感心したよ、と素直に褒められる。

尾田さんはかなりマナーに厳しくて、新人であれ立華社長の顔に泥を塗るようなことは絶対に許さないという姿勢だった。だから、尾田さんと毎日顔を合わせるのが辛かった。指導期間の最初の頃は、表情が読めない彼に常にマナーチェックされてると思うと、一日中緊張してしまい、たまに頭が真っ白になったりしてた。カレンダーを見ては、あと残り何日で指導期間が終わる!と一日一日カレンダーをチェックして斜線を引いて指導期間が終わる日を待っていた。

そんな日々が終わりを告げるのは明日。明日で彼の指導期間が終わる。…長かった。

ーー

「お疲れ様でした。お先に失礼します!」
「ああ、御苦労さん。」

深々と頭を下げて尾田さんと別れる。彼の視界に入ってる内は、お疲れ様でした、と言った後も気を抜かない。私が曲がり角を曲がって彼の視界から完全に外れてから、やっと脱力できる。

「はーーっ、つかれたぁー。」

それはもうぐったりと前のめりになって一息つく。どっと疲れた。
腕時計を見ればもう21時過ぎ。お腹減ったけど、作る気もない。店で食べて真っ直ぐ帰ろうと思いながら街を歩いた。
明日で尾田さんの指導が終わりだから、きっちりと終わらせたい。そして、乗り切った自分を褒めたいし、甘やかしたい。そのためにも…今日はちゃんと栄養つけてすぐに寝るんだ。

「腹、減ったね。…●、ちゃん?」
「ヒッ!?」
「やだな、何でそんなにビビるの?いつも聞いてる声でしょ?」

電流が走ったみたいに飛び上がると背後に尾田さんが立っていた。何で!?別れたはずなのに!?

「今から飯、食うんでしょ?遅くなったし俺も飯食おうと思っててさ、なんなら一緒にどう?いつも頑張ってるし奢るよ。」
「な、いや、いやいや、そんなそんな、とんでもないです!」
「なぁに硬いこと言ってんの。それとも、俺と飯は嫌だってこと?」
「あ、いえいえ、そんなことはー…、」
「なら行こう。」

尾田さんが私に奢る?
尾田さんって何かしら裏があって相手に親切にすることがある。そんな姿勢を暫く見ていた私は、これは危険だぞ、と察していたけれど、私より一歩先を歩く尾田さんに断りをいれる勇気はない。
そんなこんなで少しお洒落なバーに連れていかれた。尾田さんは窓辺のボックス席を選ぶ。
私は癖で下座と上座を考えたり、奢りというわけだから安い料理を探したり、姿勢をちゃんとして受け答えも言葉に気をつけて過ごしたら、

「あー、いいのいいの、今はオフだよ。今は仕事とか関係ないから、いつもの●ちゃんでいてよ。それにほら、こんな安い酒飲んでも仕方ないでしょ?パーっと2人で飲もうよ。」
「あ、は、はい。」
「ほら、何食べたいの?」

メニューを渡されて料理を読むけど、何て書いてんのかわからない。フランス語?何語?はて?と戸惑いながら、わからない問題集をひたすらみつめる残念な学生と化している私を尾田さんは笑う。

「適当に頼んで、何がくるのか楽しみにしてるのもいいんじゃない?」
「尾田さん、これ、分かりますか?」
「まあ、よく食うものならね。何がいいの?パスタ?ピザ?ハンバーグ?」
「パスタがいいです。」
「なら、このトマトクリームかカルボナーラがオススメかな。」
「……。」
「値段なんて今はいいから。俺に奢らせてよ。」

尾田さんは手を伸ばして私の顎を緩く掴んで持ちあげる。スッと見つめられて、呆気に取られた。キラリと輝いた彼のピアスが、何だかこのバーによくマッチしていて、不思議な気持ちになった。

あれから料理が運ばれてきてアルコールも飲んだけど、それがどれだけ高い味を出していても目の前の人から意識を外せない。それは、どう見ても怪しいからというのと、いつもと雰囲気が違いすぎて別人と話している気がしてならないから。

「明日で終わりだね。俺の指導、厳しいけどよく耐えたよ。俺はてっきり1週間も持たないと思ってた。」
「自分でもびっくりです。」
「ま、辞めても良かったんだけどね?」
「後一日ですからね…辞めませんよ。」
「へぇ、酒が飲むと強気になるの?」
「あ、いえ、そうじゃなくて…ただ、後一日で指導期間も終わるので、そんな手前でやめませんってことです…ただの、意気込みです。」

言い直すと彼はククっと笑った。もうカラになったシャンパンに気付いて、店員に目配せしてもう一本頼む。

「え、飲み過ぎですよ!?明日も仕事ですよね?もう10時ですよ?」
「別にいいだろ。●ちゃん、まだ飲めるでしょ?見たところ、酒強そうじゃない。まだ潰れないし。」
「潰したいんですか…もしかして、やっぱりこれも、テスト? 」
「テスト?」
「明日のこと考えて人付き合いをしろっていうことですか?」
「ははっ!それは流石に考えすぎ。俺はただ飲みたいだけ。って、ほんとに疑い深いよねぇ…特に俺には。ほんと、全然信用されないんだ。ま、そう教え込んだようなものだけどさ。」
「……。」
「本当にただ飲みたいんだよ。はい、カンパイ。」

店員が黙って注いだシャンパン。グラスを傾けて音もなく乾杯をする尾田さんは、本当に読めない。
というか、読もうとしても、だんだん酔いのせいで頭が働かなくなってくる。ボーっとしたり、ふわふわしてきて、なんだか良くない。
他愛のないことを話している間に時間の感覚も分からないほど、深酒をしてしまった。

「…はぁ、私もう無理です。あとは飲んでください…。」
「流石に潰れちゃったか。1人で帰れる?」
「ええ、勿論!」
「そこんところ、即答なんだ。参るよ。」
「尾田さん、明日は8時…によろしく、お願いします。」
「だーかーら、仕事はいいんだって。ま、そんな真面目なところもいいんだけどね。…ほら、立って。送るよ。」

よたよたと立ち上がる私は彼に支えられながら狭いエレベーターに乗った。

「明日、来れるの?二日酔いで欠勤なんて言ったらどうしようかなぁ。」
「…っ、やっぱりっ。」
「さぁて、何がやっぱりなんだか?」

チーンとエレベーターのドアが開いてフラフラと店の外に出た。
眠らない街という名前その通りで、23時になるというのにまだ人の笑い声が響き渡る。ネオンは眩しいし、街を梯子をする酔っぱらいがあちらこちらにいた。そして、私も立派にその1人になっていた。

「アパートこっちでしょ?」
「何で知ってるんですか?」
「履歴書に書いてあるからさ。」
「な…、あの、待って。」
「何?トイレ?」

私は立ち止まって尾田さんの体から身を離そうとする。ただ、彼の腕は私の肩を抱き続けて離れない。彼を見上げれば少し緩く笑みを作っていた。

「た、タクシーで帰ります。」
「俺のこと警戒してるのは知ってるけど、酔ってもそこは譲らないんだ。なんか悲しくなってきたな。…でもほら、そんなに傾いちゃってたら、もう一人で歩けないんじゃないの?」

シャンパンが回る。飲んだシャンパンが体の中でシュワシュワと泡をたてながら、私の頭を軽くしていく。そして、私の瞼は勝手に落ちた。
クタっと地面に腰を抜かすと、尾田さんに結局は身を任せて眠りに落ちた。

ーー
翌朝。
私はスーツのまま布団の中に入っていた。目覚まし時計の音が鳴って目を覚ます。頭が痛いけれど、今日は乗り切らねば、と体を動かして時計を見ると…

「って、…え!?10時!はぁあ!?」

心底驚くと、頭にズーンっと痛みがひびく。でも構ってられない。

「何で6時にセットしてる時計が10時になるの?」

慌てて止めて起き上がって悪態をつく。
尾田さんのところに行かねばならない。とは言え、致命的な遅刻だ。なんて言われるんだろう?シャワーはしてないし、髪もボサボサだ。最終日に何してんだろ自分?

情けなさと今までの努力や忍耐がパーになったことから、ジワっと涙が浮かぶ。でも小走りで玄関に向かい、ドアを開けるとそこには尾田さんが立っていた。

「おはよう。っていうにはかなり遅いけどさ。…今日は遅刻だったね。」
「…っ、ああ…も、申し訳あり、」
「2時間の遅刻かぁ。ああ、こういうのは感心しないね。」

態とらしく腕時計を見て確認する彼は笑ってる。
…ひ、酷い。やっぱりわざと誘ったんだ。
やっぱり親切心なんかで私を誘うわけがない。でも、こんなやり方酷すぎる。というか、なんでこんなにも試されなきゃいけないのか全くわからない。
悔しさと苛立ちが込み上げて、ぐっと下を俯く。

「どう?辞めたくなった?」
「……辞めさせたいんでしょう?」
「そうかもねぇ?」
「……、なら、辞めますよ…っ。」

こんな訳の分からない上司なんてたくさんだ。
もっといい職場なんていくらでもある。怒って開け掛けのドアを閉めて部屋に入ろうとしたら、彼の手がドアを止めた。

「辞めるならまず辞職願を出さないとねぇ。これもマナーだよ?」
「…っ。」

嫌がらせに似たそれを無視してドアを閉めようとすると、ドアが開け放たれる。無理矢理玄関に入ってきた尾田さんに驚いて数歩後ずさった。

「な、何ですかっ…勝手に入らないでください!」
「まぁまぁ、俺の話は最後まで聞こうよ。君だって俺がどうして君を辞めさせたいの、理由を知りたくない?」
「…それは、何故?」
「こうでもしなきゃ、お前は落ちないだろう?」

スッと鋭い瞳で言われたことに身の危険を感じる。

「わざと遅刻させて指導期間を伸ばす作戦と、辞めたお前を落とす作戦と。迷ったんだけど、部下に手を出してるところを社長に見られちゃ敵わないからさ、辞めてもらおうと思ってね。そしたらさ、もう俺の好きにできるでしょ?」
「好きにって…まって、なに言ってるのさっきから、」

近づいてくる彼から逃げるために部屋の奥に靴のまま上がって逃げるけど、それに合わせて彼も入ってくる。部屋の出口に立って私を部屋から出さないように立ち塞がっている彼は余裕たっぷりに言う。

「2週間も我慢してたけど、俺、お前のこと欲しかったんだよ。ずっと。ま、そんな風に色気付いてたら社長の顔に泥塗るようなものだから出来ないし、お前から俺が誘ってくるなんて社長に漏らしても困るし、本心を隠すためにスパルタ上司を演じてたんだけどね。」
「…お、尾田さんのこと、こんなことする人のこと、好きになれないから。」
「ええ〜?…好きにさせちゃうよ?…指導は任せてよ。」
「はっ?気持ち悪いっ!警察呼ぶから!」
「ははっ、警察…ねぇ。警察の中にもお友達多いんだよなぁ、社長は。警察だって真っ当な生き方してる奴はあんまりいないもんだよ。」
「!?」

彼を睨むと彼の携帯電話が鳴った。それは部下からの連絡らしく、彼は低い声で手短に答える。

「あーあ、邪魔が入っちゃった。俺は行かなきゃ。」
「……。」
「ああ、そうそう。言っとくけど立華不動産の力は知ってるよね?お前が転職しようとしても俺たちが周りの企業に吹き込めばお前の働き場所なんてすぐに無くなる。分かるでしょ?俺らのこと敵に回したくないんだよ。ここの連中は。」
「…脅し?」
「そういうこと。…あとー、逃げようったって無駄だよ。俺の部下がずっと見張ってるから。優秀な部下がね。」

この人たちに狙われたら、逃げられるはずない。彼らはどんな手を使ってでも目的を果たすから。法の目をかいくぐって欲しいものを手に入れるのだから。彼らの手荒なやり方を垣間見ていた私は、今度は被害者になる番だった。

スッと笑う尾田は踵を返してアパートの廊下へ出ていく。
ガチャンと閉まったドア。耳をすませば廊下を歩いていく足音からは逃げられないのだと思うと、強烈な焦燥感に襲われた。


end less

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