あなたに効く痛み止めがあるといいのに


帰宅中のゲリラ雷雨に傘は無効。
大勢の人たちが慌てて交通機関で帰ろうとしていて、バスには大勢が並び、タクシーの取り合いが勃発。私は濡れたまま帰宅難民になった。

ー …ぅう、さむい。

滝のような大雨。傘は折れて使えない。ホテルに泊まれるほどの金もない。服が重くて靴からは気持ち悪いほどどぷどぷと水音がしてる。
仕方なく歩いて帰ろうとしたけど、強い風も吹いていて雨風吹き荒れる道を歩く勇気はない。

ー ひ、ひどい。

力なく空を見上げれば、ポケベルがなる。とうに雨に濡れて壊れてたと思っていたけど生きていたらしい。手で雨から守りながら見れば立華さんからの連絡だった。

ー 大丈夫ですか?

と。先程ビルで別れた立華さんが心配してくれたらしい。だめです、と返すと、職場に戻ってこられますか?ときた。私は来た道をなんとか戻ってビルの玄関に立ち尽くしていたらビルの中から立華さんが出てきた。私のずぶ濡れの姿を見て目を丸くしてから、すぐに口を開く。

「随分と濡れてしまいましたね。この天候の中で帰宅は無理でしょう。今夜は会社内の空き部屋に泊まってください。服も用意させます。あなたは早くシャワーを。」
「あ…す、すみません…。助かります…。でも、私が歩くと廊下濡れますし…。」
「何を気にしているんですか。あなたの体調の方が大事です。さぁ。」

ーー
会社といってもさすが立華不動産。五つ星のホテルなんじゃないかと思うほど、空き部屋が立派だった。大理石のタイルの上に立って金の蛇口を捻ってお湯を浴びているのは不思議な感じだった。
シャワーを止め、浴びる前に渡されたバスローブに着替えて広い部屋に戻ると、なんと窓の前に社長が立っていた。
部屋に彼がいると思っていなかったので声が出た。もちろんバスローブは身に付けているけれど、今の私は下着をつけていないから焦る。

「す…すみません。女性が使っている部屋に勝手に入ってしまって。ただ、あなたが心配でつい来てしまいました。」
「だ、大丈夫ですっ。」
「服はクリーニングさせています。すぐに出来上がりますからご安心ください。私は隣の社長室にいるので何かあれば気軽に声をかけてください。」
「は、はい、助かりますっ。」
「そうだ。夕食はまだ済んでいませんよね?よかったら服が来た後で一緒に食べませんか?後30分ほどで出来上がると思います。」
「いいんですか?」
「ええ。こんな時間まであなたに仕事を頼んだのは私ですし、せめてもの詫びとして。食事はあなたの口に合うといいのですが。」

私から目を逸らしながら話すのは社長なりの配慮か。夕食までの流れを話すと彼は部屋を後にした。

ーー

「口に合いませんでしたか?」

夕食、なんて気軽なものじゃない。これは、これがあの、キャビア?というやつなの?感動していると、社長は不安な顔で見てきた。私は固まっていた訳を話すと彼は安心する。

「そう言えば、あなたとこうして食事をするのは初めてですね。尾田さんとあなたはよく店で食べていると聞いていましたから、やっとあなたに近づけた気がします。」
「ふふ、尾田さんとは昼休憩の時に適当な店で食べてるだけですよ。」
「そうであっても、気軽に外で食べられない私としては羨ましい。」

社長は片手で器用に食事をとりながら前の席の私を見つめていた。あまりにじっと見つめてくるものだから、私は口に運んでいた肉を口に入れるのをやめて見つめ返してしまう。

「…ん?どうしました?」
「尾田さんはよくこうやってあなたを見ているんでしょうね。一緒に食事をしたり、隣を歩いたり、あなたを助手席に乗せたり。…そんな尾田さんが羨ましいと思いまして。」
「あはは、私は尾田さんの部下ですから…一緒にいるのも仕事のうちですし。何も羨ましがることなんてないですよ。」

社長がどんな意味を込めて羨ましいといっているのかわからない。いや、寧ろ分かったら怖いのかもしれない。知らない方が、気づかない方がいい相手の感情もある。
その後私は他愛のない話を社長として食事を終えると席を立つ。

「社長、ごちそうさまでした。私はもう休みます。」

社長が嫌いな訳じゃない。歳もあまり変わらないのにこんなに大きな不動産屋を営める彼はレベルが違いすぎて尊敬する。自分とは全く違う人間だから、だからこそ、どう関わればいいのかわからない。
それに、単刀直入にいって、嫉妬する。

「あなたは、本当に意地悪ですね。」

部屋を出ようとするとしれっと冷たい声がかかる。振り向くと、目を伏せた無表情の彼が立っていた。

「私の気持ちはおそらく伝わっているでしょう。嫌なら仰ってください。もうあなたを想う事はやめますから。」

私の目をしっかり見て聞く社長は真剣だった。私は彼に惚れたくはない。なんでも一人でできる男の隣にいる私に、なんの価値があるんだろうと思ってしまう。私は自分に価値があると感じたい。だから、この立華不動産で働いている。出来る自分、平凡とは違う人間だと自己満足を得るために。

「嫌ではないですが、でも、応えられません。」
「…、分かりました。今までのことは忘れてください。私も忘れます。」

機械的で事務的なやり取りで互いの複雑な想いがここで途切れた。

ーーー
あれから一月。私は尾田さんと働いたり、自分一人で他の部下を従えて働いていた。やり方は酷くても、このやり方だからみんなが私たちを怖がるし一目おくし信頼する。
立華不動産の人間だからできる手段で金を粗く稼いでいる自分は、何者にも捕まえられない隠れた犯罪者のようなスリルを味わっていた。

今日もまた立退を成功させて心の中で笑いながら会社に帰り、廊下を歩いていると窓の外に厚い雲が覆っている空に気づいた。…ああ、まさか。と思った途端にいつの日かのような大雨が降り出す。
街の人たちは慌てて近くの建物に逃げ込んでいく。
私はその空を見上げながらあの夜のことを思い出した。あの日から社長とはほぼ顔を合わせていない。指示は尾田さんから伝わるし、社長は社長室にこもっている。

我ながら、すごい人に惚れられたものだと思った。もしあの時受け入れていたら、今日までに何が起きたんだろう?彼の隣にいたら私は変なプライドを捨てて愛に溺れたのか。それとも、くだらない嫉妬や自己嫌悪で暗い顔をしてしまい彼に醜さがバレたのか…。
本当に自分のめんどくささに嫌気がさす。出来ない自分を感じるのが嫌で仕方ない人間だなんて。

「…また帰宅難民ですか。」

窓の外を見つめていたら、懐かしい声がした。そっと目を向けると社長が私を見ている。片手に書類の入ったバックがあり、靴が濡れていたことから外から帰ってきたらしい。

「帰りたいので、作戦を立てたところです。」
「この雨は夜明けまで降りますし、タクシーも捕まりませんよ。どうぞ、使いたければあのお部屋を使ってください。」

それだけ言うと彼は立ち去る。
優しくて紳士的な物言いだけれど、前よりも素っ気なくて機械的な言い方だった。想いを忘れると口にした彼はもう完璧にそれが出来ており、私は小さく笑ってしまった。その笑い声に彼は振り返る。

「何でしょうか?」
「あ、いえ。社長は完璧で器用な方だなって。」
「…そう見せているだけですよ。」

一瞬困ったように目を逸らす彼は少しだけ迷ってから付け加える。

「感情を顔に出すのは面倒なのでやめました。腕の痛みと同じです。」

もうない腕がこんな天気の中で痛むことをずっと前に聞いたことがある。もしかしたら今日もあの時も痛んでいたのかもしれない。それと同じく、私を忘れる時に感じる気持ちも顔に出さずに消化しているらしい。

「社長に効く痛み止めが、あるといいですね。」
「あなたのことに関してはないでしょうね。」

社長の目を見ると悲しそうな目をしていた。でもそれは私を見たらすぐに逸らされて、彼は歩き続ける。

彼は、そうやって痛みを抱えながら生きている。完全に黙らずに、少しだけ匂わせて気づかせる。そんなところがいつもの彼に似合わずに幼く、可愛く、唯一の弱みのようにも見えて、愛らしいと感じた。

「あなたがもっと欠点まみれだったら好きになったのに。」

彼がエレベーターに乗って見えなくなった時に、私はそう呟いた。


end

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