危険な底なし沼


ー 俺、これでもだいぶ我慢してるんだよなぁ。

あの時、司さんは口元を緩めているのにひどく冷たい目をして言った。

ー 本当はさぁ、俺から離れるんだったらもう殺してやろうかって思ってたんだよ。まぁ、お前はカタギの女だからそんなことしちゃいけねぇんだけどよ?完全犯罪なんてお手の物だから出来ねぇこともねぇのよ。俺の言いたいこと分かるか?

彼の凶暴な部分が私に向けられた。なんの力もないカタギの私は身を硬くして死神の視線に耐えるしかなかった。彼は決して脅しを言ってるわけじゃない。本当に私に対して恨みと殺意を感じていた。

ー でもまぁ我慢するよ。俺の頭の中ではお前は死んだことにしといてやるよ。そしたら、殺す気も少しは消えるだろうからさ。だから、俺の前から早く消えな。

付き合ってから見えた彼の冷たさと残虐さは日に日に増していき、私は耐えられなくなった。怖いからと別れを切り出したら、最初は、お前には優しくしてるじゃねぇか?なぁ?と半笑いで説得してきたけれど、私が本当にすくんでいると知ると首を振って別れを飲んだ。ただし、あの脅し付き。もう二度と現れるなと。
やっぱり裏社会の男に優しさなんて期待しちゃダメだと思い知った。

それから、4ヶ月が経った。あれから佐川司という男と会うことはなかった。彼が雲隠れしたみたいにいなくなった。互いにこの狭い神室町で生きているはずなのに、魔法で消されたみたいに。姿が見えるけれど避けている方が、まだよかった気がする。あの怖い人は実はすぐそこにいるんじゃないかって、恐ろしい方へ考えてしまうから。

ーー
厚い雲が街を覆って雨を降らしていた日のこと。傘をさしながら仕事から帰宅したら、アパートの階段付近に傘をさした男が立っていた。
階段を使いたいので彼を避けようとしたら、声がかかる。

「久しぶりだな。」
「えっ、つ、司さん…っ?」
「へぇ、まだ下の名前で呼んでくれんの?」
「…っ。」
「俺さぁ、お前のこと忘れられないよ。」

びっくりして彼の顔を見る。

「あれからさ、お前はもう死んだって思いながら生きてみたんだけど、どうもうまくいかなくってよ。最近じゃ忘れるどころかお前との昔のことばかり思い出しちまう。…でよ、どうしたらいいのかわからなくなってここまできちまったんだよ。どうだ?笑えるだろ。」

穏やかな顔で私を無理やり笑いに誘う。私は苦笑いをしながら彼を見つめた。すると彼も私を見つめ返す。

「参っちまうよ。お前と付き合ってたのはたったの4ヶ月だ。でも、妙に居心地が良くってよ。俺に笑いかけるお前や風邪で寝込んでる時の弱ってるお前やデートの時に気合を入れてるお前なんかを思い出すと、可愛いかったなぁって思い出すんだよ。」
「私も司さんとの時間は、大事でした。司さんが未熟な私の面倒見てくれたり、励ましてくれたり、庇ってくれたり…、すごく頼ってました。」
「なら、なんで俺に別れを切り出したんだよ。」

その顔だよ、と心の中で返事をする。その、穏やかで、でも何も色を映していないようなその黒い瞳。柔和そうな顔してその心は暴力と支配欲に塗れてる。怖いに決まってるじゃない。

「嘘は言うなよ?お前の嘘なんて分かるからさ。」
「…怖いからです。」
「ヤクザなんてみんなこんなモンだ。」

そうだけど、そうじゃない。あなた独特の恐ろしさがある。彼の中でコントロールできないと殺そうとしたり、手懐けようと脅したり…、彼の中で愛よりも怒りや権力がすぐに顔を出すから怖い。

「俺が泣いて縋れば俺を拾うか?」
「司さん…。」
「なぁ、教えてくれよ。お前とやり直す方法をさ。」

傘を畳んで私の傘の中に入ってくる。顔が迫ってきて、腰を抱き寄せられる。この圧迫感。苦しい。

「まぁ、こんな所じゃなんだ。お前のアパートに上がらせてくれよ。それで少し話し合おうじゃないか。」
「…アパートはちょっと。」
「ならホテルか?」
「あ、いや…。」

違うこれは脅迫だ。話し合いなんて優しさはない。体を締め上げて私を狭い部屋の中で従わせるために彼はここにいる。

「…怖い、司さん。」
「何言ってんだよ。俺はただお前とより戻すために話し合いたいだけじゃねぇか?何も取って食おうなんて思っちゃいないぜ。こうしてお前の近くにいるのも、ほら、互いが傘さしたままじゃ話にくいからだよ。分かるよなぁ?」

彼は軽く息が上がっていた。女を抱く時みたいな興奮に似ているその息づかい。

「今度は優しくしてやるから、なぁ?いいだろ?なぁ?」
「いやっ…司さんが嘘ついたってわかるんだからっ!」
「おお、可愛い抵抗しやがって。俺を止めたきゃ俺を殺すんだな。お前に殺されるのは本望だからよ。」

傘の中で私は唇を貪られる。唇に歯が立てられ、血が出た。ヒッと体を跳ねるとドスっと首に痛みが襲いかかる。クラッとして彼の胸に落ちた体はもう言うことを聞かなかった。

「俺も殺されないように必死で足掻くぜ、●。」


end
ALICE+