好いてはならぬ男


ー こんな所で寝てたら危ないぜ?

聞いたことのない声がする。うっと顔を顰めて起き上がると、まだ頭は酒に酔っていてくらくらした。バーのカウンターから体を起こすと、隣に茶色いスーツを着たおじさんがウイスキーを飲んでこちらを見ていた。ふらふらの頭で見ているからか彼が二重にみえる。ア、ハイ…とカタコトの言葉で返事をすると、

「マスター、この子に水やってよ。」

と、彼が気を回して水を頼んだ。
マスターから水を差し出されて飲むとおじさんがタバコを吸いながら話しかけてくる。

「そんなに腐った顔してると別嬪が台無しだぜ。」
「…たまに、腐りたくなりませんか?」
「俺か?腐ってる暇はねぇからな。それに嬢ちゃんと違って慰めてくれる存在もいないからよ。」
「…私だってもういません、そんな人。」
「俺が話聞くぜ?」

彼は丸い目で私を見つめると少しだけ口角を上げた。温和というほどあたたかい顔はしていないけれど、落ち着いていて頼りがいがあった。ナンパというより軽くなくて、いい加減な受け答えもしなくて…。
孤独を感じていた私は知らないうちに自分のことを話していた。

その夜は彼にタクシー代を手渡された。タクシー代と言っても万札が何枚も。そこで、ああこの人って裏の人なんだって気付いて、彼の顔をもう一度見ようと振り向いたら彼は背を向けて歩いていた。

ーー
あの人に礼が言いたいと思った。
でも、探して出てくるような人じゃない。あの夜にだけ出会えた特別な人なんだと思って諦めかけたのは、最後に彼と会ってから20日ほど過ぎた時のこと。
公園のベンチでぼんやり空を見上げていたら、彼の声がした。

「嬢ちゃん、今度はどうしたんだよ。」
「あっ!」

彼の声を聞いて立ち上がり、振り向く。あのおじさんがおでん屋の近くに立って私を見ていた。

「ん?なんだ。俺に会いたかったみたいな可愛い顔しちゃってよ。」
「会いたかったんです!」
「俺に?何でだよ。」
「お礼が言いたくて!」

素顔に気持ちを伝えると彼は一瞬目を丸くしてから、口角を上げた。

「律儀な女だね、嬢ちゃんは。…なぁ、腹減ってないか?今からおでん食うんだけど食うか?ここのおでん美味いんだよなぁ。」

彼は気を良くしているみたい。私は頭を下げてご一緒する。狭い席に座ってグツグツ湯立つおでんを見つめていればお腹が減ってくる。
彼…佐川さんと一緒におでんとお酒を飲みながら話をしていたら、彼は面白そうに言う。

「潰れた嬢ちゃんしか見なかったから新鮮だな。前は舌の回らない酔っ払いだったなぁ?」
「ぅ…これが、ふつうの私です。」
「で、あれから仕事はどうなんだよ?仕事辞めるかどうか悩んでるって話だったろ?」
「え、よく覚えてますね!そうなんですが、もう少しだけ頑張ることにしました。…自分なりに頑張って続けて、それでも成果が出なかったら諦めます。」
「そうか。ま、応援してるぜ。」

静かにお猪口を傾ける佐川さんは年上の余裕を漂わせてる。同い年で愚痴を言い合えばヒートアップしたり、職場の悪口の言い合いになったり、話が脱線していくけれど、この人に話すと心が落ち着く。
諭したり、背中を押してくれる佐川さんとの時間はあっという間で、少し話しすぎた気もした。

おでんを食べた後、彼はまたタクシー代をくれたけど、アパートはすぐそこだからと断る。なら、送ってやるよ。と、いってくれたので彼と一緒にアパートへ向かった。

隣を歩いて思ったけど、彼は風格が違う。
私なんかが隣を歩いていいものなのか。彼はこの街が自分の庭のように堂々と街を歩いていた。この街に飽きているというように、この街の裏も表も知り尽くした達観した目をしている。

「佐川さんの隣にいると落ち着きます。」
「そんなこと言われたのは初めてだな。俺と話してりゃ緊張する奴ばかりだ。まぁ悪くないな。」

面白いとばかりに笑う彼。小さく笑い返すと彼はニッと笑みを浮かべて目線を前に移した。その目線の逸らし方が寂しくて、やっぱり私なんかは相手にされるわけないか、と思った。
しゅんとしながら私は足を止めると、彼も合わせて足を止めた。アパートに着いたと話すと彼はアパートを見上げながら口を開く。

「仕事頑張れよ。陰ながら応援してるぜ。」
「はい。ありがとうございました。おでん、美味しかったです。」
「そうか。なら、 また食いたくなったら奢ってやるよ。」
「え?いいんですか?」
「ああ。声かけてやるよ。じゃあな。」

彼は背を向けて去っていった。声をかけてやる、とはどう言うことなんだろ?互いに連絡先を知らないからたまたま見かけたら話しかけると言う意味なんだろうか。
その時の私は彼の不思議な一言を気に留めながら、今度はいつ会えるのか微かに楽しみにしながら待っていた。

でも、結局は彼と出会うことがないまま2週間。
あの時の私は嬉しくて信じて待ってたけど、別れ際に気が良くなるような言葉をくれただけなのかも。年的にも相手がいるかもしれないし。そんな言葉を素直に受けた私はがっかりしたし、自分の単純さに笑った。

ー まぁ、そりゃそうよね。私は彼にとって子供だし。色気もないし。惹かれる女じゃないか。

橋に寄りかかって星空を見つめながら冷静になった。男と道を歩くホステスの声が耳に届くたびに、あんな女なら少しは興味を持ってくれたのかなと思う。

ー 何でこんなに直ぐに好きになったんだろ?たった2回しか会ったことない人を…こんな風に求めたり信じるなんて初めて。しかも、かなり年上なのに。

物思いに耽っていたらコトッと橋の欄干に缶ビールが置かれた。酔っ払いがそばにきたのかと思って顔を向けると同時に声がした。

「今日は何黄昏てんだよ。嬢ちゃんはいつも耽ってるよなぁ。」
「佐川さんっ!?」
「ははっ、お前って本当に俺と会うと喜んだ声出すよな〜。気のせいか?」

佐川さんは缶ビールをもう一貫だして私に差し出すと、欄干に両腕を乗せる。缶ビールを受け取って佐川さんを見つめる。

「何でいるの?って顔だな。」
「いきなり現れるんですね、佐川さんって。」
「言ったろ?声かけてやるって。」
「もう会えないかと思ってました。」
「まさか俺に会えなくて黄昏てたわけじゃねぇよな?」

半笑いで尋ねる佐川さんに図星をつかれた私はさっと目を背ける。わかりやすい私に察した佐川さんは黙って川を見つめると缶ビールを傾ける。

「俺なんかに興味持つなんて変わった嬢ちゃんだな。」
「自分でもびっくりですよ。…でも、こうして話していると安心するんです。」
「年上が好きなのか?」
「かもしれません。…でも、佐川さんのその話し方とか声が好きなのかも。」
「こんなに若い嬢ちゃんに好かれるなんて、俺はツイてるなぁ。」

嫌がることはなく、ハハっと楽しそうに笑うと缶ビールをあおる。

「最近な、面倒ごとがつづいてたんだ。そんな時に癒してくれるもんが欲しくてよ?フラついてたら嬢ちゃんがいたんだよ。ってことで、暇なら付き合えよ。これ飲んでから。」
「は、はいっ!ぜひ!」
「はは、ぜひ、か。店の女としか歩いたことはねぇから、そういう反応は新鮮だな。」

缶ビールを傾ける佐川さん。その言い方だと奥さんはいないのかもしれない。あと、遊び人なのかもしれない。それでも、私は今夜自分が選ばれたことに喜んで急いで缶ビールを飲み干した。
いい飲みっぷりじゃねぇか、と褒められて嬉しかった。

ーー
彼とピアノを聴きながらお酒を飲む夜はロマンチックだった。ジャズバーに初めて入った私は音楽家の生演奏をゆったり聴きながらボックス席で彼と時間を忘れて話していた。

彼は甘い言葉を言うわけではなく、ソファーの背に腕を下ろしながら足を組み、私と他愛のないことを話していた。私はお酒を飲みながら適度に話を深めて彼と一緒に過ごせる時間を楽しむ。ただ、窓ガラスに映る私たちはどう見ても恋人ではなく、寧ろパパ活なんていうワードが浮かんでしまって何とかしたかった。

「よし、こんな時間だ。もう帰るか。」
「はい。楽しかったです。」
「今日も送ってやるよ。酔い覚ましに歩こうぜ。」
「はい。夜の散歩、楽しいですよね。」
「あ?女の一人歩きはあぶねぇから気をつけなよ。」

少し呆れながら心配してくれた。高い金額がレジに打ち出されてヒヤッとしたけれど、訳もなく払った佐川さんは堂々としてる。一体ポケットにいくら入れてるんだろ。

その夜の帰路は夢見心地だった。隣を歩いていたら、何も言わずに彼に肩を抱かれて引き寄せられた。彼の顔は決して酔ってはいない。女の肩を抱くのなんて彼にとっては特別な意味はないのかもしれない。
でも私には嬉しい出来事で目を細めて彼を見上げた。

「そんな可愛い顔で男を見つめちゃあぶないぜ?」

彼はやんわりと忠告をしたので、そっと顔を下ろした。そのまま、彼の体温を感じながら、半分抱かれるような姿勢でアパートに着く。
今度はいつで会えるんだろ?まだあってくれるかな?そんな好奇心と不安が言葉に出せないまま体は離れた。

「おやすみなさい、佐川さん。」
「また声かけるぜ。」
「はい!」
「…だから、そんな顔しちゃダメだって言ったろ?俺は表で生きる男じゃねぇんだからよ。」
「…でも、」
「ん?引き摺り込まれたいのか?」

顎を持ち上げられて彼の顔が近づく。
逃げないでいたら、そっとキスをされた。タバコの匂いと味がする。

「じゃあ、またな。」

彼はそっと私から背中を向けるとたばこを口元に運びながらさっていった。

ーーー
あの夜から3日後。

「よぉ、おつかれさん。」

職場から出た私を彼が待っていた。職場なんて知らないはずなのに、どうやって調べたんだろう?電柱の陰でタバコを吸っていた彼はタバコを地面に踏み消してこちらに向かってくる。

「え、どうしてここだとわかったんですか?」
「その気になればお前のことなんて簡単に調べられるんだよ。…なぁ、夕飯食いに行かないか?お前に食わせてやりたい店があるんだよ。肉好きか?」

私は喜んでついて行った。感情が顔に出る私を見め彼はにっと笑って肩を抱く。仕事の疲れが吹き飛ぶような喜びに、ああこの人が好きなんだなって自覚せずにはいられない。

好きも愛してるも肝心な言葉はないものの私たちはそれからよく夕食を食べに行く仲になった。佐川さんはあまり態度は変わらないけれど、私と過ごす中で私の好みを知ったり嫌いなものを知ったり、休日の過ごし方を知ったりと、私について質問をしたり、言ってないことまで言い当てるようになった。

「お前さ、転職でも考えてるの?」
「え、何で分かったんですか?」
「求人の掲示板見てただろ。たまたま見かけたんだよ。」
「声かけてくれたらいいのに。」
「そん時仕事してたからよ。…いい仕事でも紹介してやろうか?つっても、俺が紹介できるのはキャバクラやホステスだけどさ。」
「き、…キャバクラ…?」
「ああ。男に酒ついだり話聞いてるだけで何万も稼げるぞ。」
「あ、…あはは、私はそう言うのはちょっと。」
「だよな。男と話すのは苦手そうだもんな。まぁ、職と金に困った時はいつでも声掛けろよ。」
「あぁ、…はい。」

そう言われて悲しかった。キャバクラって男に愛想振り撒く仕事な気がして…佐川さんは私が他の男と楽しんでてもいいんだ…って思ってしまった。

そんな時に店の窓を見つめては、やっぱり私たちは恋人にはみえない気がしてがっかりする。

その時、私の中で絶えず燃えていたものが揺らいで、静かに衰えを見せた。
それまでの私は夢見る女で肩を抱かれただけで喜んで、一緒に夕食をとるだけで楽しめたのに、ふっと熱い未来を吹き消されたみたいに思えて、こんなに浮かれていたのが馬鹿みたいに思えた。

ー 私が他の男と話していてもいいんだろうな。
ー そうだよね。互いに生き方も歳も違いすぎるし。
ー やっぱり、思っていたゴールには行けないよね。
ー 何だか馬鹿みたい。つくづく。

切ない気持ちの方が強くなっていく。佐川さんと言う人は、軽くはないし女に飢えてもない。
私がどれだけわかりやすく熱を見せても、深まらず。虚しく。夢ばかり見ている気がする。
次第に私の勢いもだんだん失速して行った。

ー 効いたなぁ…。好きな人からのキャバクラの紹介なんて。

ーー
翌日。
早めに仕事を終えて職場に出ると今日は彼はいない。少しの期待が浮かんだけれど、振り切るように早々に歩いて帰宅した。そして、ベッドに寝転んでは思い詰めていた。

「もうやめなきゃ。」

呟いた瞬間、電話が鳴った。驚きながら出ると、なんと佐川さんだった。思わず、え!?と声が出る。

「何で電話番号知ってるんですかっ?」
「ん?俺にかかれば何でもわかるんだよ。それより、今夜空いてるか?」

嬉しいのと辛いのが混ざり合いながら、ハイと返事をする。彼からの電話を静かに切ると、少しだけ佐川さんと言う男が嫌になった。
指定された場所に行くと佐川さんが先に待っていた。

「会ってくれないかと思ったよ。」
「何故ですか?」
「この前のお前は沈んでたからよ。まぁ、俺がキャバクラなんて気軽に紹介したのも悪いんだけどな。」
「佐川さんは私のために紹介してくれたことだから、いいんです!気にしないでください。」
「つってもな。俺のこと気に入ってる女を傷つけるのは良くねぇよ。詫びとして欲しいもんでも買ってやるよ。何がいい?」
「…ああ、いえ…それは、気持ちだけで…。」
「別にものじゃなくてもいいさ。…俺にしてほしいことを叶えてやる。」
「……。」
「どうした?今日はやけに消極的じゃねぇの。いつものお前なら笑顔で喜びそうなのによ。」

佐川さんが真面目な顔で一歩ずつ近づいてくる。目の前の佐川さんが男の目をしていてドキドキした。でも、私は心の底からその誘いを喜ぶことはできない。

「いざとなると足がすくむか?いつも俺のこと見つめてたのはどこの誰だっけなぁ?」

いつも見て見ぬ振りなのにこんな時に私の心に揺さぶりをかけてくる。何で?と狡さに軽く睨むと、彼はおもしろそうに笑った。

「煮え切らねぇなら、俺が押し売りするよ?」
「や、やめてください。」

いきなり顔を近づけてきた彼を反射的に押し返した。自分でも驚いたし、佐川さんは片眉を釣り上げて、へぇ?と低い声を出してスーツの皺を伸ばして、

「女ってのはわからねぇもんだ。少し前までは惚れられてたってのによ、一度でも気を悪くさせたら突き放すなんて、手厳しいじゃねぇか。まぁ、俺を押し返すなんて見直したぜ。●。いい女じゃねぇか。」

いつもと違う饒舌な彼に挑発されている気がする。私は困りながら後退する。

「俺は別にお前に興味がなかったわけじゃねぇよ?ただ、お前はカタギの女だから下手に手を出すわけにもいかねぇだろ?だから、キャバクラの女にして客として気軽にお前と会おうとしたんだよ。」
「……。」
「なぁ?俺だってちゃんも考えてただろ?だが、それがお前には地雷だったみてぇだ。詫びてもお前はもう俺を警戒して、迫りゃ押し返される。あーあ、困ったもんだね。」

怒っているのに笑ってる佐川さんがこわい。やっぱり、優しくはなかった。自分の中で描いていた彼は都合の良い幻でしかなかった。早く立ち去りたいけれど、肉食動物に背中を見せては簡単に襲われるだけ。

「で?もう俺のこと好きじゃないの?」
「怖くて…安心できません…っ。」
「そりゃ悪かったなぁ?今から優しくしてやるよ。ほら、俺に肩を抱かれるの好きだっただろ?」

迫って無理やり肩を抱いてくる。急な威圧がただこわかった。

「ごめんなさい佐川さんっ、私、もう怖いし会いたくないですっ。」
「会いたくないって言われると余計に会いたくなるんだよなぁ。お前の家も職場も電話番号も知ってる。観念しな。俺は惚れた女は徹底的に可愛がりたくなる男だからよ。」
「やめて…っ。」
「自分で蒔いた種じゃねぇか。俺、忠告したよねぇ?」

佐川さんは私の肩を無理矢理抱いて歩き出す。嫌がる私の前に1台の黒い車が目の前に止まり、彼に背中を押されて車の中に押し込められた。叫ぼうとしたら口に手を当てられて、首に腕が回るとグッと締め付けられて意識を手放した。

ーー
最近の佐川は上機嫌であり、早めに仕事を終えて帰宅することが多かった。

「オジキ!今夜一杯如何ですか?」
「ああ悪いな。早く帰らねぇといけねえんだよ。車出してくれ。」
「はい!…最近早く帰られますね。」
「ああ、ちょっとな?ペット飼ったんだよ。」
「へぇ、鈴虫も飼われていましたし、生き物がお好きなんですか?」
「まぁな。大事に世話したり、飼い方知るために調べたりすんのはいいよ?懐くと可愛いしな。」

部下と駐車場に向かいながら話す佐川は楽しそうだ。程々に話を合わせながら車に乗る部下はエンジンをかけながら聞く。

「何を飼われてるんですか?犬?猫?」
「いや、人間の女だよ。」
「…へ?」
「ハハッ!どうだ?羨ましいだろ?お前には飼えねぇだろうな。」
「あ、あははは!流石ですね、オジキ!」

部下は笑いながらアクセルを踏む。
後部座席に乗る佐川はルームミラーに向けて小さく笑いながら、だろ?と答えた。


end

ALICE+