求められる3倍返し


2月14日の退勤直前のこと。事務室のドアを開けたら社長が立っていた。驚いて叫んだら落ち着いた声で詫びられたけど、私の前から退く気はないらしい。姿勢正しく立っていた彼から、静かに差し出されたものは高級感のある黒の箱。ワインレッドのリボンで結ばれたそれは贈り物にピッタリだ。そう、例えば…今日で例えるならバレンタインのチョコレートというように。

ー 私の気持ちです。受け取ってもらえますか?

その時の彼は普段とほとんど変わりなく、甘い雰囲気なんてかけらも無かった。だから、気持ちと言われて思いついたものは、部下に対する労りとか、そう言う日だから贈るという言わば義理チョコだと思って受け取った。
それなのに、彼はちょっと意地悪な声で

ー ホワイトデーは3倍返し…ですよ?

と釘を刺すようにいうのだった。
彼は、とてもわかりにくい。表面的な言い方だし、感情よりも知性で訴えるのでだいたい淡々としている。
だけど、この時ばかりは彼の贈ったチョコレートには熱い思いが込められている気がしてならなかった。

ー なら、好きって言いなよ。

と1人になった事務室で愚痴を言ったけど、立ち去った彼の手にはスーツケースが握られており、不動産の前には尾田さんが乗った車がとめられている。多忙な彼は隙間時間に私にチョコレートを届けてくれたのだった。

そして、それから1ヶ月間、私はその3倍返しをどうしたものかと悩むことになった。

◆ ◆
3月14日。手にしていたものはチョコレートとネクタイピン。彼の好みがわからなかったので、とりあえず無難で人気でビジネス向けのものをお店の人に頼んでいた。…三倍返し…なかなか高い、いや、かなり高い。財布が軽くなったけど、先手を打つようにバレンタインを贈られたがために腹を括って購入した。

(…いいんだ。日頃の感謝も込めないと。ここの給料いいんだし。)

大事に白い紙袋にしまうと出勤してロッカーに入れておく。社長のスケジュールがわからないので、とりあえず昼休憩に社長室に向かうことにしたけど、残念ながら不在だった。夕方に行ってみたけどもまだ不在で、本当にダメなら机の上に置いて帰ろうと思っていた。

退勤時間の6時半。そろそろ帰ろうと思い、その前に社長室に行こうとして立ち上がりかけるとポケベルが鳴った。社長からで、今ここにいるかという質問。いると答えると会いたいと言われて、ドキドキする。
社長室で待ってて欲しいと言われて待つとすぐに彼がやって来る。その目的はもうわかってる。

「今日が何の日かご存知ですか?」
「ホワイトデーですね。」
「3倍返し、覚えていますか?」
「勿論。何度もここにきたんですよ?いらっしゃらなかったけど。」
「失礼しました。夜までに済まさなければならないことがありまして。」
「お疲れ様です。これ、よかったら…。」

カバンにいれていた紙袋を差し出すと彼は片手で受け取る。そして、開けてもらえますか?と頼まれた。私は、ああ!と慌てて箱を開ける。彼が片手であることを忘れていて申し訳ないことをした。
取り出したネクタイピンを見た彼は私からそれを受け取って今つけていたものとすぐに取り替える。

「素敵なセンスですね。大事にします。」

柔和な笑みを向けられたら、値段なんて吹き飛ぶ。彼が笑うなんて滅多にないから。嬉しくなって頷くと、次はチョコレートの箱を開けるように頼まれる。言われた通りに開けると、彼はハート型のホワイトチョコをつまんで口にした。

「美味しいです。手作りではないんですね?」
「私がこんな美味しいもの作れません。」
「そうでしょうか?」
「手作りが良かったんですか?」
「このチョコレートも美味しいですが…欲を言えばそうです。でも、これは流石にワガママですね。」

綺麗な声で自嘲気味に笑う。甘えられている気持ちになり、くすぐったい。彼は硬派に見えて意外と女を弄ぶ男なのか?甘い言葉に引っかかりそうになって気を引き締めた。だって私は肝心なことをは言われてない。好きだとか付き合ってとか…そんなこと言われてないし、ホワイトデーだって流れで手渡してるだけ。…深い意味なんて、ないんだから。

「…じ、じゃあ、これで。」
「ダメですよ。」

急に強い声で言われて驚く。彼に片手を取れた。

「ホワイトデーと称してあなたに近づきたかったのです。この度は無理なお願いをしてしまいました。その詫びとして今夜夕食でもいかがです?」

彼は私から手を離すとその指はネクタイピンをなぞる。その感触を楽しみながら興味深そうに付け加えた。

「ネクタイピンなどの首回りに身に付けるものを贈る意味を知っていますか?」
「え?い、いえ?」
「相手を束縛したいということです。」
「な!?えっ!?!」
「ですから、少し驚きました。随分積極的なのだなと「ちがっ、違います!え、知りませんでした、あの、ごめんなさい、返してもらいます!他のプレゼント選び直します!」
「それはお断りします。」

彼は私を揶揄うように数歩離れた。もうそのネクタイピンは自分のものだというように、贈り主の私からも奪われまいと逃げるのだから私の顔はどんどん赤らんでいくばかり。無知が災いした私は言い返せなくて目をそむける。

「さて、夕食に向かいましょう。」
「あ…は、はい。……あの、その、束縛なんて意味は本当にないですからねっ!」
「なら、束縛したくなるような男にならないといけませんね。」
「?!」

今日の彼は機嫌が良く、積極的に口を開いて私の心を掻き乱していくから、目の前の彼は別人なのでは?と疑った。でも、彼の視線や言葉に染み込む熱は心地よく、彼という男に興味を持ち始めてしまったことに気づいてしまった。


end

もし来年もこの熱が消えなかったら、彼よりも早く2月にチョコレートを渡さなくてはならないと思った。

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