薄氷


人を利用して生きていた私が、自分を利用させたのは貴女くらいでした。

「朝、早いんですね。何かありましたか?」
「起きちゃって。たいして寝てないのに頭はスッキリしてるの。」

朝日と言うほど光のない時間に窓際でコーヒーを飲んでいた●はもう眠る気はないらしい。立華はベッドから彼女を見つめてから、誰もいない自分の隣に目をやる。もっとそばにいてくれてもいいのに、と言う本音は出さずに自分も起きて洗面所に向かった。

冴えない顔の自分が鏡に映る。彼女に対してできることは全部して、彼女も自分の隣にいるようになった。
でも彼女は気まぐれの猫のように自分の元に来ては知らぬ間にいなくなる。固まらない2人の関係から、彼女はこれ以上固める気がないのかもしれない。

顔を洗ってから、タオルに顔を埋めて考える。何をしたらもっと彼女を引き止められるのか。どうしたら自分が望む関係になるのか。いくら肌を重ねても朝には離れる関係なんて。

「●さん。今度の休みに食事でもいきませんか?」
「そうしようか。」

こちらの熱い思いを感じていないのか、彼女は新聞を見ながらサラリと返事をする。立華は彼女の背中を見つめながら、半ば諦めを感じていた。でも、ここで自分から離れるのは悔しい。近づいてキスをする。驚いた●を包み込んでもっとキスをすると、ふふと笑いながら彼女は避ける。

「なぁに?朝から。」
「…愛してるんです。」
「しってるよ。」

頭を撫でながら笑う彼女は肝心な言葉をくれない。立華は彼女を抱きしめながら、ずっと耐えながらこの関係を続けようと断念した。

◆ ◆
「虫が良すぎるんじゃないですか?」

立華を兄貴として心酔する男が●に文句を言った。尾田にしてみれば、たかだが1人の女にいいように扱われる立華をこれ以上見てられなかった。●は彼の丁寧だが心の底では罵っている言い方に流し目を向ける。尾田は●のその透かした態度が気に入らない。

「社長を財布がわりにして、気分ですり寄っては離れて、あんたどこまで自分勝手なんだ。社長の弱みでも握ってんのか?」
「あぁ尾田さん怖い。…怖いから、もう鉄には近づかないことにするね。」
「…?」

尾田のひと睨みであっさりその場から立ち去る●に尾田は拍子抜けをする。呼び止めることもなく、彼女が見えなくなるまで佇んだ後、立華と会うために不動産屋に戻った。

「お疲れ様です、社長。立退の件、終えてきました。」
「ご苦労様です。…?」
「どうしました?」
「●さんと逢いましたか?香水の匂いがします。」
「ああ、さっきたまたま会いまして。少し立ち話をしたんです。」
「●さんが?どこにいましたか?」
「映画館前に。もう30分前ですかね。」

嘘をついて誤魔化すと立華はそっと窓に目をやる。この街のどこかにいる●を探すような目線は寂しそうだった。

「こんなことを聞くのもなんですが、社長はどうして彼女がいいんですか?」
「何故でしょうね。自分でもわかりません。」
「社長のこと、本気で考えてるんねすかね、彼女は。」
「望みは薄そうですね。」

苦い言葉を吐く立華に尾田は続ける。

「俺は見てられないです。ここのところ社長はずっと寂しそうですし、社長は忙しいってのに向こうから大した用もないのに呼び出されて…。」
「私はね、尾田さん。自分でもうまくやれていないことは承知しています。でも、彼女から声をかけられることが何よりも嬉しいんです。彼女にこれから先、利用されても構いません。」

はっきりと言う立華に尾田はやるせない顔になる。

「彼女が離れたら?」
「私は…追います。」

この声は敵を威嚇する時の低い声だ。トーンが下がり、挑戦的な一声になった立華に、先程あっさり立ち去っていった●の姿が脳裏によぎった。
"尾田さんが怖い"から社長から離れると言った●。
自分が2人の関係をさいたことがバレたら…と墓穴を掘ったことを後悔した。

◆ ◆
その夜、立華が●に電話をかけても出なかった。ポケベルも返事がなく、家に行ったが鍵がかかったまま。行きつけの店にもいくが、来ていないとのこと。

何処に行った?

胸騒ぎがして白い息を吐きながら街を彷徨う。小雪が降っていたが、傘を持たない立華は気にせずに彼女の姿を探した。

どうして、貴女は…私の前からこんなに簡単に消えるんでしょうね。

透析を受けなければならない体調になる。探したいのに探せない。ふわふわした意識の中で、ただ気力で立っていた立華は靴の上に堕ちた柔らかな雪が静かに消えていくのを見つめた。

貴女しかいないんです。

透明なのに心まで見えない不思議な女。手を伸ばせば抱きしめさせてくれるし、キスも温かいのに、強く出れば薄い氷が割れるように関係にヒビが入る。だから、壊さないように必死だった。壊れるくらいなら、自分が傷ついた方がいい。

フラつきながら、橋の手すりにつかまって体を支える。こんな体でなければ…。体が気持ちに追いつかないもどかしさの中で何とか歩き出そうとした立華だったが、ついに意識を失った。

寒い空の下で、金持ちの身なりをした男が崩れ落ちるのをホームレスは見つめていた。

◆ ◆
ー 社長!!

大きな声が近づいてくる。目を開けると病院だった。いつもかかっている闇医者の病室ではなく、清潔で白い病室。

「おださん…ここは?」
「橋の上で倒れたんです。周りの人が救急車を呼んで運ばれました。俺は前に金で雇ったホームレスから社長が運ばれたことを聞いたんです。」
「…●さんが、何処にいるか知ってますか?」
「え?」
「…いないんです、どこにも。」
「まさか、探してて倒れたんですか?」
「ええ…、何処にもいないんですよ。」
「……、なら、俺が探します。だから、」

まだぼんやりとした意識の中で心配し続ける立華を見て尾田は感情に任せて彼女を拒む気にはなれなかった。むしろ、立華が大事なら彼女こそ大事にしなければならない。
尾田は立ち上がって●のアパートに張り込みを始めた。

◆ ◆
朝6時。寒い車の中で待った甲斐があり、やっと●の姿が薄暗がりの中でみえてきた。彼女は何処かに泊まっていたらしく、眠そうな顔でゆっくり歩いてくる。尾田は車から出て彼女の行手を阻むと、彼女は彼は疎ましそうに軽く睨んだ。

「今まで何処にいたんですか?」
「あなたに関係ないです。」
「俺、あんたに詫びなきゃいけないことがあるんだ。」

誰もいない狭い道。うっすら雪が積もった白い道に尾田は手をつき、膝をついた。何?と戸惑う●を気にせずに土下座をすると尾田は目を閉じて立華のことを話し、昼間の無礼を詫びた。

「立華さんにはあんたが必要なんだ。頼む、金なら出すからあの人から離れないでくれ!演技でもいいから、あの人のこと愛してくれ!」

そうしなきゃ、彼は体を顧みず無茶をしてしまう。自分でも馬鹿なことを頼んでいるのはわかってるし、立華の本来の力を知ってる尾田にしてみたら、立華はそんなに安い男じゃない。でも、今の立華は明らかに恋という毒にかかってしまった。あまりに脆く、儚げで、健康を損なってから頼りだった精神力さえ弱って見える。

「立華さんやあなたとって私は命綱なの?…ここまで重い恋愛ってしたことはなかった。」

彼女は土下座をする尾田から目を逸らして呆れたように朝日を見つめる。彼女は立華を好きであっても愛してはいない。何故かと言われても、それが説明できないのが恋愛であって、直せと言われても直せるわけもない。

「薄い愛ならあげられる。それでいいよね?」
「立華さんが傷つかないようにしてくれ。」
「金で人の感情を買えると思ってるの?」
「…風俗でもないあんたを金で買って済まないと思ってる。でも、俺たちが用意できる金は他の額とは違う。あんただって悪くないはずだ。…立華さんに新しい女ができるまで。」

尾田は顔を上げて微かに腹の中を見せた。本当は●は嫌いだということを、やはり隠す気はなれなくて最後に少し噛み付く。●はフンっと笑うと、わかったと答えた。

◆ ◆

尾田の両膝と前髪が濡れていたのをみて、立華は想像する。自分のために何かしたんだと。その時自分は病院のベットで伸びていて、不甲斐ない思いを強めた。

…でも、この腕の中に戻ってきた●を見て安心した。もう離したくないと強く抱きしめて、何度もキスをした。●もキスを返して、彼の瞳をみて少しだけ微笑む。

ー 尾田さん。この度は私事ではありますが、迷惑をかけてしまいました。
ー でも、お願いがあります。
ー どうか、…私たちの関係にヒビを入れないで下さい。

そう頼んだ立華は恐怖から声が揺れていた。威厳なんてものはない。女のために震える男を兄貴と思わなくてもいい。自分は過大評価して心酔していたんだと目を覚ましてくれても構わない。
立華はプライドを捨てて、尾田に頭を下げた。
その時の尾田はショックを受けた顔を向けたが、何にショックを感じていたのか分からなかった。

熱はこれ以上上がらない。
そして、渡り歩くには注意しなくてはならない。そんな薄い氷の上にいるようなこの関係をなんと名付ければいいんだろうか。


end

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