白旗を上げる準備を 前編


 放課後。部活動で賑わうグラウンドを教室の窓から見下ろす。汗を流してグラウンドを駆けるサッカー部に陸上部、校門から外周に出て行った男子バスケ部ーーすぐ隣の教室から聞こえるトランペットの音も、遠くから聞こえてくるチア部の掛け声も、どれも皆、帰宅部の私には縁のないものだ。

 高校生活ももう二年目の冬を迎えて、私は何も得られないままここでぼーっと外を眺めている。
 白紙のまま提出した進路希望調査用紙のせいで生徒指導室に呼び出されたのはつい昨日の話だ。真剣に考えろとか、夢はないのかとか、そんなこと言われても生まれて此の方「なんとなく」で生きてきた私にはさっぱり。ため息を吐く担任を見てため息を吐きたくなったのは記憶に新しい。


「終わったー!」

 開放感に溢れた声に振り向くと由梨が大きく伸びをしていた。どうやらようやく日誌を書き終えたらしい。

「もー、早川タイミング悪すぎ!今日いきなり委員会の会議入るとか!」
「タイミング悪いのは早川くんじゃなくて美化委員会じゃない?」
「たしかに!美化委員会め……!」

 たった日誌ひとつで恨めしそうに拳を握る由梨。今日も元気だなあ。

「ほらほら。はやく提出してカフェ行こう」
「そうだった!カフェカフェ〜」

 カフェの一言ですっかり機嫌を取り直した由梨は素早く筆記用具をリュックに詰め込んで立ち上がった。これだから由梨は一緒にいて飽きないんだよなぁ。

「……あ。これから職員室行くなら急がないとバス行っちゃうんじゃない?」
「やばいやばい!先バス停行ってて!私ダッシュで日誌出して来る!」
「はーい」

 慌てて廊下に飛び出した由梨を見送ってから、私もぺちゃんこのリュックを背負って教室を出た。




「さむ……」

 ローファーを履いて外に出ると短いスカートのせいで外気に晒された脚に冷たい風が刺さる。
 さっき窓から見下ろしていた運動部員たちはよくもこんな気温と風の中で汗を流せるものだ。私だったらまず、寒すぎて走ることすらままならないだろう。

「あれ、みょうじ?」
「ん?……あ、御幸だ」

 寒さに震えながらちまちまと校門に向かって歩いていると呼ばれた名前。声の主は御幸だった。

 御幸とは一年次、二年次と同じクラスで、なんの因果か席替えのたびにお隣さんやら前後やらの席になるので割と仲がいいクラスメイトだと思う。
 割と仲がいい。なんて控えめに称したのには理由があって、私はまだしも彼の方は野球部(特に倉持くん)としか話している姿をなかなか見ないから、席が近いという縁で会話はするものの実際のところ彼が私を友人認定しているかどうか定かではないからだ。

「みょうじがこの時間まで学校いんのめずらしー。いつも真っ先に帰るのに」
「帰宅部は帰宅部なりに忙しいの」
「いつも帰ってなにしてんの?」
「んー……犬と遊んでる」
「なにそれカワイー」

 ニッと笑う御幸。色恋にはあまり関心がないほうだと自負している私だけれど、さすがイケ捕。悪戯っぽいその笑顔にちょっぴりドキッとしてしまったじゃないか。
 少し速くなった鼓動を誤魔化すみたいに、御幸の汗ばんだ姿を見て慌てて口を開いた。

「御幸、汗すごいね」
「あ、ごめん。くさかった?」
「ちがうちがう。すごいなぁって。さっきも教室からサッカー部とか見てて、こんなに寒いのによく汗かくまで動けるなあって思ってたの」
「みょうじはさっきからぷるぷる震えてるもんな」
「逆に御幸はなんで半袖で平気なの」
「今さっきまで走ってたからなー」

 少し前まで着ていたのであろうジャージを左手に持ってケラケラと笑う御幸は私とは反対に暑いらしく、半袖を肩まで捲り上げた。巷じゃ全国区の天才捕手だとか言われてるらしい御幸の腕にはしっかりと筋肉がついていて、目のやり場に困った私は足元に視線を落とした。

「あれ?マフラーは?去年ぐるぐるまきにしてた赤いチェックの」
「よく覚えてるね。でも、あのマフラーは犬に噛まれてしまいました」
「ありゃま」
「今日寒いからお母さんのマフラー借りたんだけど、朝急いでて玄関に置いてきちゃったみたい」
「おっちょこちょいか」
「数学で当てられて慌ててリチウムって答えちゃう倉持くんよりはマシ」
「うはー、確かに」

 今日の三限の数学を思い出して二人で笑う。居眠りしてた倉持くんは恥をかいたが教室は笑いに包まれた。
 倉持くんとは二年生になってから御幸繋がりで話すようになった。見た目はちょっぴり怖いけど、話してみたら優しいし、部活の話を聞く限り御幸よりもよっぽど面倒見が良さそうだ。

「っくしゅん!」
「はっはっは、早く帰んなきゃ風邪ひくぞー」
「引き留めたのは御幸でしょ」
「あは、そうだった。ごめりんこ」

 まったく悪びれた様子のない御幸に呆れながら、このまま立ち話をしていたら本当に風邪をひきそうだしバスも逃してしまいそうだ。と心の中で頷いた。
 そろそろ帰ろうとひとつ白い息を吐くと、御幸が思い出したように左手に掴んだジャージの塊からネックウォーマーを取り出した。

「じゃあこれ。引き留めたお詫びな」
「えっ、ちょ」

 驚く私をよそにすっぽりと頭からネックウォーマーを被せられた。少し前まで御幸がつけていたからか少し熱気が残っていて、ほんのりと私の鼻をくすぐる御幸の匂いに私は頬を赤くした。

「お、照れてる?」
「そ、りゃあ、……はずかしいし、御幸も部活終わり寒いだろうから、」
「俺はいいの。どうせ寮すぐそこだし。それに」
「……?」
「これでみょうじが俺のこと意識してくれんなら寒くてもお釣りがくるかなぁ」

 ニヤリという効果音がピッタリな不敵な笑みを浮かべた御幸にぱちぱちと瞬きを繰り返す。

 わたしが?みゆきを、いしき……?

 頭の中で御幸の言葉がようやく繋がったその瞬間、さっきまでとは比べ物にならないくらい頬が熱くなった。

「……なっ、」
「みょうじの顔真っ赤」
「み、御幸がヘンなこと言うから!」
「なまえちゃん」
「……っ!?」
「ふは、また赤くなった」

 なにか言い返そうと真っ白な頭で一生懸命考えていると、後ろからパタパタとこちらに走って来る足音が聞こえてきた。

「なまえー!おまたせー!」

 私に手を振りながら走って来る由梨。心臓バクバクの私をよそに御幸はちらりと由梨を見て、笹本さん元気ー。なんて呑気に笑っている。

「そろそろ俺も部活もどるわ」
「ちょっと、これ」
「風邪引いて明日休まれたら困るからちゃんとつけて帰って。明日、俺となまえちゃん日直でしょ?」
「……は、」
「明日の放課後は犬でも笹本さんでもなくて、俺にちょーだいよ。明日はオフだから、一緒に日誌書いて、それから新しいマフラー買いに行こ」
「え……いや、なんで、」
「なんでって、なまえちゃんとデートしたいから?」

 ぽん、と私の頭を撫でた御幸は、また明日。なんて短い挨拶と混乱だけを置いてグラウンドへと歩いて行った。

「……なにそれ、」

 放心状態の私の元にやってきた由梨が興奮気味に私の両肩を掴んでがくがくと揺らす。もうすでにキャパオーバーの私はされるがまま。

「ちょちょちょっ!ついに御幸くんとくっついたの!?」
「ちがう……っていうか、ついにってなに」
「そこからぁ!?」

 目を見開いた由梨が信じられないといった顔で私を見る。

「なまえが恋愛に無頓着で鈍感なのはわかってたけど……まあそうだよね。席替えでも気づかないもんね」
「……あ、ねぇ。バス、」

 なんだか貶されているような気がしないでもない。つまりそんな気がする。しかし今はそんなことよりも、一時間に一本しかないバスを少し遠くに見つけたことのほうが重大だ。

「えっ!?ヤバっ!なまえ走るよ!」
「え、ちょっ、むりむり」
「急げー!」

 足の速い由梨に腕を引かれて凍えてカチカチの体を無理やり動かした。