昼食の下ごしらえをいつもより手早く終えて、足早に甲板へ出た。1時間ほど前、一緒に裏で寝転がっていた彼はまだいるだろうか。ほんの少しの期待を胸に足を進めると、先にいつものハットが床に置いてあるのが見えて、思わず口元がほころんだ。


「ずっとここにいたの?」
「あぁ。今日は風が気持ちいいな」
「ほんとにね」


辺り一面海の青が広がる景色は見慣れたものだが、それでも綺麗だといつも思う。帆がはためく音と波の音だけが私たち2人を包む。こういう静寂も嫌いじゃない。


「休憩か?」
「あ、忘れてた。ドラゴンさんが呼んでたからそれを伝えようと思って来たの」
「分かった」


危ない、重要な任務を忘れてしまうところだった。彼が立ち上がるのに合わせて床の帽子を拾い上げるも、彼の手は受け取るでもなく、それを通り越して私の頭をくしゃりとかき混ぜた。乱れた髪を直しながら、伸びをして歩く彼の後ろをついていく。この船に来てから5年経つけれど、彼はいたりいなかったり、翌日に帰って来たかと思えばまたすぐにいなくなって、半年帰ってこなかったり。恐らく顔を合わせている日数は合計しても2年にも満たないと思う。そんな限られた時間の中で会話をし、皆が寝静まってからの逢瀬を繰り返し、時々すれ違ったりもしたりして、彼に恋をして結ばれたのだから、人生何があるか分からない。好きになるのに時間なんてのは関係ないんだと思い知らされる。お互いの立場上、おおっぴらにできるわけではないし心配事だらけだし、「普通」に憧れたりもするけれど、彼に好きだと言われればたちまちそんなものはどうでもよくなって、どんな形であれこの人の側にいる事が私の最大の幸せなのだと実感する。もはや中毒だ。「それなら俺はもう、とっくの昔に中毒者だったな」満面の笑みで言われたことを思い出した。


「あー、待ってよサボくん」
「お前、起きてたのか」


あれからすっかり陽も沈み、見張り番以外の船員は深い眠りについているであろう時間に、彼は甲板にいた。格好からしてどうやら、これから出発するようだ。私には覇気というものが使えないから、こうしてこっそり彼が旅に出ていってしまう前になんとかして見送りたいと、足音に耳を澄ませるのが習慣になってしまった。それでも気づかずに行かれてしまうこともあるが、今日は成功したようだ。


「これ、預かったままだったから」
「あぁ、悪いな、ありがとう」


昼間から手元にあるハットを、腰を屈めた彼の頭に乗せた。月の光が甲板を照らしてくれているおかげで、夜でも彼の顔がよく見える。次はいつ会えるのかな。名残惜しくて見つめているのに気づいたのか、彼はふ、と優しく笑った。


「言ってくれれば簡単なお弁当くらい、」
「いや、明日には帰るから大丈夫だ」


ふいに、彼の左手が腰に回り、軽く引き寄せられた。逆光で見えなくなった彼の顔が目の前にある。息までかかりそうなほどの距離だ。思わず呼吸を止めてしまう。すぐ側にあるのであろう唇が微かに動いて、「これだけもらってく」と呟いてすぐに、私の唇に触れた。ほんの一瞬の出来事は瞬く間に身体中の血を沸かし、鼓動に加速をかける。早く離れてくれないと、色々バレてしまいそうだ。


「照れるなよ」
「分かっててやってるんじゃん」
「まぁな」


とっくにバレてた。心底楽しそうに笑っているのが想像できる。さっさと行っちゃえよとふざけて言うと、はいはい、と彼は笑いながら返事をし、船の縁に足をかけた。すぐ下にはこれから乗るのであろう小船が一隻、波とともに揺れている。


「じゃ、行ってくる」
「うん、行ってらっしゃい」


黒のコートを翻し、船から船へ飛び降りる。離れていく彼にを振りながら、先ほどの言葉通りちゃんと明日また会えますようにと願いながら、彼が夜に溶けて見えなくなるまで見送った。