「げぇ、あんたこれ何流してんの?」
「水の音だけど」



試験勉強をしたいからと何故かうちに乗り込んできたのはそっちなのに、好きで流している動画に文句つけないでほしい。構わず自分の勉強を続けていると、「ねぇ病んでんの?」と向かいに座り身を乗り出して聞いてくる。勉強する気ないな、こいつ。



「なんでそうなんの」
「いやだって、こんなあからさまな癒しBGM流すとかさあ、なんかあったでしょ絶対」
「なんかあってほしいわけ?」
「うん」
「なんでよ」
「刺激が欲しい」



実にくだらない理由に鼻で笑って返せば、友人はひどいしかめっ面を向けてくる。そこで漸く会話が一区切りついたので、私は再び勉強に戻った。一向にノートすら出さない彼女のことはもう放っておくことにしよう。



「でもマジな話、これ何がいいの?」
「何がって……落ち着くでしょ、水の音」
「私には分からない世界」
「好みは人それぞれってことで」
「なんで聴くようになったの」
「なんでって……」



考えながら手が止まる。実のところ、こういった動画を流すようになったのは割と最近の話なのだ。それまでは話題の邦楽や洋楽をかけていたりしたけど、いつから変わったんだろう。水の音を聴き始めたきっかけ。きっかけは、



「……プール」
「え?」
「なんか、プールの音、みたいのがおすすめにでてきて」
「なんでだよ」
「水泳のこととか調べてたからかなあ」
「あー、七瀬関連か」
「それで聞いてみたら確かにプールだ、ってなって」
「そりゃそうでしょ」
「遙のこと思い出すなあって思って」
「女子かよ」
「女子だが」
「続けて」
「水の音聞いてたら幸せだなあって思ったら、ハマった」
「病んでるじゃん」



だからなんでそうなる。そんなに病んでてほしいのか私に。彼女が何を期待しているのか知らないけれど、私は心も身体もいたって健康だ。そりゃ悩むことは時々あるけど、そんなの生きてれば誰にだってあることだ。特に大学生は考えることが多い。講義のこと単位のこと、教授の言ってる意味が分かんないとかサークルめんどくさいとか、バイトは楽しいけど忙しいとか、彼氏とはあんまり会ってないとか。ありきたりなことだろう。そういうのも含めて、私は十分楽しく大学生活を謳歌している。



「だってさ、水の音聞いて気を紛らわしちゃうくらい彼氏会ってないんでしょ?」
「別に紛らわせてるわけじゃないし、会えないのはお互い忙しいからだもん」
「そうは言っても向こうはバイトしてないわけだし、毎日練習あるわけでもないじゃん」
「オフの日も自主練で泳いでんの」
「彼女放っとくのはよくないと思うな〜」
「普通の人だったらそうだろうけど、七瀬選手は目指してるところが違うから。世界だから」
「急にマウントとってくるじゃん」
「あんたがうるさいからでしょーが」
「心配してあげてんのに〜」
「ネタにして楽しみたいだけでしょ?」
「…………そんなんじゃないよ?」
「はい嘘、明日昼奢りね」



最後の言葉を無視して、諦めたように彼女はのそのそと鞄から勉強道具をだし机に並べた。さっさとそうしてればよかったのに。例え聞こえなかったふりをされようが私の中で明日の昼代はかからないことになったので、いつもは頼まないランチセットを注文しよう。そんなこちらの思惑など微塵も知らない友人は勉強を開始して数分、眠くなるから違う動画にしてくれと言ってきた。何がそんなに気に入らないのか知らないけれど大人しくしてくれるならなんでもいいかと、カフェで流れるようなジャズを選んだ。



「あ」
「……なに?」
「ごめん、これから遙くる」



外で遊ぶ子供の声が聞こえなくなったころ、控えめに震えた携帯の画面にメッセージの通知が表示された。『今から行ってもいいか』と、簡潔な文章のみなのはいつものこと。集中していた友人にそれを伝えると、失われていた目の輝きがあからさまに復活していく。



「えっ、何しに?!」
「え…何しに……?会いに……?」
「良かった!!良かったね名前…!」
「いや泣かんでも」
「わかったわかった、さっさと退散するね。あと明日の朝の講義は代返しておくからね」



この子は色んなことを勘違いしているが、もう正すのも面倒くさいから「よろしく」とだけ言っておいた。光の速さで家を出ていく姿に思わず笑ってしまう。本当に遙が何をしにくるかは分からないけど、何を言い出しても対応できるだけの身だしなみは整えておく。そのあと軽く部屋の片付けをしてベッドに腰掛けた時、ちょうどインターホンが鳴った。



「悪い、急に」
「いいよ。何かあった?」
「いや……自主練するから、そのついでで寄ろうと思って」
「そっか」



言いながら横を向いてしまった彼は、こうして面と向かって話すと結構わかりやすい。これも恐らく照れ隠しで、本当についでの方なのは自主練なんだろう。こういうことに気づくのにはだいぶ時間がかかったっけ。しばらくは「遙翻訳機」の橘くんを介さないときちんと理解してあげられないことばかりだった。何かあるたび助けを求めて橘くんに相談して、「あぁ、それはね」って教えてくれた彼はまるで動物博士みたいだったなと今更思う。



「……何笑ってる」
「別に、ちょっと思い出し笑い」
「早く行くぞ」
「うん」



少し時間は早いけれどご飯を食べに行こうということになり、夕方の街中を並んで歩いた。私たちのお気に入りの定食屋さんでいつものセットを頼んで、お互い近況報告なんかをしながら食べて外に出ると、すっかり空は暗くなっている。私は帰る方向に向かって歩く遙の服の裾を掴んで、少しだけ引っ張った。



「どうした?」
「このあと泳ぎに行くんでしょ?」
「ああ」
「一緒に行ってもいい?」
「お前水着持ってきてないだろ」
「見るだけだから」
「…わかった」



少し考えてから頷いて、いま戻ろうとしていた道を今度は逆に歩いていく。駆け寄って隣に並ぶと、静かに手を取ってくれた。嬉しくてぎゅうぎゅう握り返せば、「なんだよ」とこれまた照れ隠しで不機嫌な声を出す。意外と可愛い生態をしているのだ、この七瀬遙という男は。



「それじゃあ、あと30分だけどゆっくりしていってね」
「ありがとうございます」



プールに着いて、二階席で観覧していた私に「彼氏さんですか」とにこやかに声をかけてくれた事務員さんが気を使ってくれ、誰もいないからとプールサイドで見学させてもらえることになった。遙は私に気づくことなく、相変わらず美しく泳いでいく。本人にとってはあまりに当たり前のことでそこまで特別な何かを感じているわけでもないらしいが、やっぱり私には幸せそうに見えるのだ。泳いでいるとき、水にいるときの遙は優雅で力強くて、その姿を見るのが大好きだ。水の音をきくとこの気持ちを思い出すから、私は多分あの動画が好きなんだろう。時計をみるとあと5分で閉館の時間だった。私は泳ぐ遙のたどり着く先へまわり、そのゴールを待った。水飛沫が迫ってくる。遠くで見るよりずっと激しくて、速い。その勢いに飲み込まれそうだとつい息を止めてしまう。心臓が高鳴って、弾ける水の波に見え隠れする遙をただみつめた。水が飛ぶ。遙の腕が伸びる。今日一番の水飛沫をあげて、遙の顔が水面から上がった。



「名前、いたのか」
「うん、30分くらい横でみてたよ」
「そうか」
「やっぱりすごいね」
「別に、普通だ」
「かっこよかったよ」
「……あがる」
「うん」



縁についた腕に力を入れて、体を持ち上げる。さっき見下ろしていた顔がいまは自分よりずっと高いところにあった。ふるふると犬のように髪の水滴を飛ばす遙にタオルを差し出して、それを受け取る彼の顔を至近距離で仰ぎ見る。海みたいな青い目と目があって、好きだなって思って、すぐに視界が暗くなった。ふんわり香る柔軟剤の匂いとモフモフの感触。



「お前も顔濡れてる」
「うぅ、ありがと」
「着替えてくるから、ロビーで待ってろ」
「はぁい」



そこでキスなんてロマンチックなことをする男ではないのは知っている。少しだけがっかりしながら遙の後ろをついてプールを出た。言われた通りロビーで待つこと15分、きっちり髪も乾かした遙が「悪い、待たせた」と無表情のままこちらに歩いてくる。待ってないよと言う前に手首を掴まれ、さっさと外に連れ出された。なんだなんだととりあえず早足で着いていくがこっちは私の家の方ではない。じっと遙に視線を送る。振り向いた彼の眼が月の光をうつしてゆらりと光った。



「うち、来るだろ」
「あ、はい」



これを私の中の遙翻訳機にかけると「今夜は帰さない」になるわけだが、さすがにこの言い方は昔すぎるか。まぁなにはともあれ明日の代返をよろしくしといて良かったと、足取り軽く遥についていく私である。