数分前から同じページにとどまっている。それも最初の一行を何度も目でなぞり、意味を考え、なんて訳せばいいんだっけとまた頭文字に戻る。そんなことを幾度も繰り返してようやく、燃料切れだと諦めた。一度手放した集中を取り戻すには休憩するしかない。触ってしまわないように通知を切り裏返していた携帯を手に取る。時刻は、図書館に来てからちょうど二時間後を表示していた。まずまずといったところか。お昼時だからか館内は静かで、自分のお腹がかすかに鳴る音も大きく聞こえた。5月23日、12時45分。凛が帰ってくるまで、あとちょうど1週間だ。



『えっ、凛ちゃん帰ってくるの?!』
『あぁ、二週間だけだけどな』
『へぇ、よかったじゃない、名前』
『うん、楽しみ』



昨夜、珍しく皆とタイミングが合ったからビデオ通話を繋いだ。渚は怜の家、真琴と貴澄は遥の家から参加していて、最初は全員画面内にいたのだが、そのうち怜は寝落ちして、遥と真琴はテレビゲームで盛り上がり始めたので最終的には4人で話をしていた。はじめこそ互いの近況報告や凛のオーストラリアでの生活のことなどの話だったのに、時間が経つにつれ話題はおかしな方向へ転がり始め、私と凛がターゲットになってしまった。週に何回電話するかとかメッセージははどのくらい送り合っているのかなどよく聞くような質問に始まり、どんどんディープな内容になっていくのにうんざりし始めた頃、渚が無邪気に話題を変えた。



『そういえばさっ、明日はキスの日だよね!』
『キスの日?』
『そうそう、5月23日はキスの日なんだよ!』
『え〜、なにそれ、誰が決めたの?』
『さぁ?』



渚と貴澄がキスの日についてあぁでもないこうでもないと議論してる間、私も凛も「どうか変な話をふられませんように」と祈りながら、存在を消すように息を潜め黙っていた。「ふぅん、なるほどねぇ」貴澄が何か納得したようなセリフを口にする。やっと終わったか。しかし、そう安堵したのも束の間だった。



『それなら明日は名前と凛のためにあるような日だね』
『あっ、確かに〜!』
『……そもそもそっちにいねぇんだからできねーよ……』
『いたらするんだね!』



今のは凛が迂闊だったな。自分に火の粉が降りかかる前に退散すべく、私はさっさとフレームアウトしキッチンへ向かった。背後ではパソコンから「名前、逃げてんじゃねー!」と凛の声が聞こえたけれど、そのまま洗い物を始めたのでその後彼らがどんな話をしていたのかはわからない。ただ、通話に戻った頃には凛がぐったりしていたから散々揶揄われたのであろうことだけが見てとれた。それから間も無くして凛が「そろそろ寝るから切る」と言ったのを合図にお開きになった。おそらく今夜あたりに凛からは電話が来るだろう。そしてきっと私が避難していた間に起こったことを延々聞かされる羽目になる。今から謝罪の言葉を考えておかなくては。それから来週の予定を一緒に立てよう。帰ることになったと連絡がきた日のメッセージを読み返しながら早く来週にならないかなとぼんやり考えていると、セットしていたタイマーが起動した。休憩終了のお知らせだ。腕を天井に向け大きく伸ばし、目一杯吸った息を腕を下ろしながら吐いていく。さて、やるか。閉じていた教材を開く。いつか凛のところへ遊びにいった時、全部任せっきりは悔しいから日常会話くらいはできるようになりたいと始めた英語の勉強もだんだん慣れてきた。今日の目標まではあと数ページ。再びペンをもち、その先端をノートに置いた。



『What would you like……』



流し聴きしていた音声が、不意に遠ざかる。それと同時にすぐ後ろに人の気配を感じた。背中にあたる体温と、私の両脇に伸びる腕。背後から囲うようにして置かれた手は男の人のものだ。その右手の先には、さっきまで私が右耳にしていたイヤホンが転がっている。どくどくと血が沸いて心臓の動くスピードを加速させていく。震えそうな手を握って顔だけで後ろを見やる。すぐ目の前で、薄暗い深紅の髪が揺れた。



「よぉ」



唇に触れる熱と、図書館の空気と混じって漂う懐かしい香り。例え視界が暗く認識できなくとも、このふたつで今ここにいる人が誰なのかが分かる。早く顔をみたいはずなのに、重ねるだけのキスが幸せで離れがたくて、互いに顔を引けずにいる。後ろの方で椅子を引く音が聞こえてようやく、ゆっくりと名残惜しそうに唇がはなれていった。



「なんでいるの」
「キスしに帰ってきた」
「意味わかんない…」



やっぱり根に持ってた。悪戯っぽく笑う凛を目の前にして、頭がじわじわ冷静さを失っていくのを感じた。帰るのは来週だったはずなのにどうしてと聞きたいのに、そんなことよりいますぐ、凛がここにいるということを全身で感じたくて仕方ない。夢じゃないことを証明してほしい。おぼつかない足でおもむろに立ち上がり、凛の片方の手の袖を掴んで本棚の奥へ奥へと引っ張っていく。古書が並ぶここらの棚はいつも人気がない。さらにその隅まで進んでから足を止め、凛を振り返った。力を抜いたらこぼれ落ちそうになる熱をとどめているため、睨むような目つきになってしまうのは許してほしい。そうさせているのは他でもない、凛なのだから。そんな私の弁解を知ってか知らずか、彼は困ったように眉を下げながら笑って手を広げた。



「ただいま」
「……おかえり」



このままくっついて一つの個体になってしまうんじゃないかと思うほど、抱きしめる手に力が入った。凛がここにいる。離れていたのはたったの二ヶ月だけれど、それまでは毎日のように会えていたのだ。このくらい大丈夫と言い聞かせていてもやっぱり寂しかったのだと今実感している。凛の体温、凛の匂い。私の涙で濡れた胸は以前より幾らか逞しくなったように思う。体を離して顔を上げる。ぼやけた視界が、凛の指でそっと拭われ鮮明になっていった。



「泣きすぎだろ」
「凛のせい……」
「わりぃ」
「来週って言ってたのに、なんで」
「あー……サプライズ、っつーか」



凛の手が両肩に置かれ、少しだけ距離があく。私に向いていた視線はどこだかわからないところを彷徨っていた。



「……予定早めれたから、本当は明日着く予定だったんだ」
「じゃぁなんで」
「っ、昨日、渚たちが変なこというから……」
「へんなこと……」
「……あのあとすぐチケットの日付変えたんだよ」



視線と声のトーンがどんどん落ちていく。髪で顔が隠れて上手く表情は読み取れないけれど、耳が真っ赤なのだけはしっかりと見えた。つまりキスの日に合わせて帰ってきたと、そういうことだろうか。



「そんなにキスしたかったの…?」
「ちがっ……くは、ねーけど!会いたかったんだっつーの!少しでも!早く!」



最早ヤケになっている。みた事ないくらい赤面しながら凛は小声で叫んだ。冗談めかして聞いたが、本当はわかっている。渚たちが言っていたこと。キスの日が私たちのためにあるようなものなんて言われて、想像しないわけがないのだ。そういえば最後にしたのはいつだったかと考えて、その時のことを思い出し、焦がれる。早く会いたい、会ってその熱を唇から受け止めて感じたい。そう思ったのは私だって同じだ。



「ふふ、わかってるよ、来てくれて嬉しい」
「最初っからそう言え」
「うん、ごめん」



その先の言葉が思いつかないまま見つめ合う。凛が少しだけ屈んで顔を近づけてきた。後ろに引きそうになる体を凛の両手が阻んで、動けない。



「……なぁ、もう一回」
「……う、ん」


まともに顔を見れなくて、視線を下げ凛の唇だけを見つめた。少しずつ、でも確実に距離は無くなっていく。近すぎてどちらのものかも分からない熱のこもった息を感じた時、



「んっ、ん゛ん!」



後ろでわざとらしい咳払いが聞こえて咄嗟に体を離した。そういえば図書館だったと、そこで漸く思い出す。



「……と、とりあえず、出るか」
「そ、だね……」



一歩、二歩、三歩。進むにつれその速度は増していく。半ば駆けながら本棚の道を抜け、さっきまで座っていた席へ戻った。広げたままのノートやら何やらを乱雑に鞄に放り込み、また早足で出口に向かう。



「ヤベェ、危なかったな」
「ほぼアウトだよ、あれは」



照れ隠しに笑い合いながら、繋いだ手にぎゅっと力を入れて、私たちは慌ただしく図書館をでた。