四時間目の授業の最後の十分くらいは、もう先生の話は入ってこない。黒板を見る振りして時計を眺め、秒針が周るのをずっと追いかける。残すところあと五周。鞄の中にあるお弁当の袋を静かに取り出し、膝の上に乗せる。制服のポケットを触って携帯が入ってるのを確認したら準備は万端だ。チャイムが鳴る。先生が教科書を閉じて教壇を降りる。教室のドアをあけて一歩外にでたのと同時に立ち上がった。



「あ、名前ー」
「ごめん、外出てくる!」
「えー、またぁ?」



声をかけてきた友人に半ば叫ぶように謝罪をして、私は教室を飛び出す。靴箱に上靴を投げ入れ大急ぎで外履きに足を突っ込む。三年生になって教室が一階になったのが救いだ。玄関までは走って一分もあればたどり着ける。「走るなよー」とのんびり注意する先生の声が一瞬で遠くなる。脇目もふらずに校門をでて、目指すは数百メートル先の公園。横断歩道の信号が赤の間に息を整え、色が変わった瞬間にまた走り出す。たどり着いた公園の一番奥のベンチに、その人はいた。



「凛!」
「おー、って、お前また走って来たのか」



すぐ側まで駆け寄ると、凜は立ち上がり風に煽られた私の前髪を戻しながらため息をつく。何か言葉を口にしようにも上がった息をおさめるので精いっぱいだ。ふいに差し出されたペットボトルはご丁寧にキャップまで外されていて、中で揺らめく透明な水を流し込んだ。



「はぁ、やっと、喋れる」
「ったく……走んなって言ったろ」



そう言って呆れながらも、私が走ってくるであろうことを先読みしてすぐそこの自販機でこれを買っていてくれたのだろう。冷たい水が入ったペットボトルの表面を、結露してできた水滴がいくつも地面に滑り落ちていった。その飲み口を当たり前みたいに自分の口元に持っていって喉を上下させるのをみて、少しだけ体の内側が熱をあげた。



「どうした?」
「べ、つに!お昼食べよう!」
「だな」



この程度のことで照れてどうするんだと頭を振って、私たちは漸くベンチに腰を下ろす。
高校二年の秋、後輩たちに連れられて私の通う女子高の学園祭にやってきた凛と小学生ぶりに再会して、三年にあがってから付き合うようになり、けれど互いに寮生活でなかなか会えない私たちが確保した唯一の時間がこのお昼休みだ。幸いにも学校が近く、ちょうど間にこの公園があることを知ってからはこうして一緒に過ごしている。それでも毎日できるわけではないため、なかなかに貴重な時間なのだ。



「凛は今度の体育祭、なにに出るの?」
「あー、サッカーとバスケだな」
「去年と一緒じゃん」
「いんだよ、他やれるのねぇし」
「バレーとかできそうなのに」
「それよかバスケのが得意だからな」
「貴澄くんとよくやってたもんね」



いつも水泳ばかりの凛と山崎くんを貴澄くんが口説き落として、昼休みに背中を押されながら体育館に向かっていく姿が今でも鮮明に思い出せる。運動なんて好きでもない私がバスケをしている凛みたさにたまに体育館にこっそり行っていたことを、おそらく彼は知らないだろう。最初こそ経験者の貴澄くんを相手にふたりがかりで挑んでいたのに、なぜか最終的には誰がより多くシュートを決められるかという勝負になっていたりして。勝負好きなのはあの頃から変わらない。



「今年は見に行ってもいい?」
「ぜってぇ来んな」
「なんでー!」
「お前なぁ…男子校に女子が来たらどうなるか分かんねぇのか」
「友達と行くから!」
「意味ねーっての」
「ねぇお願いー!」
「ガキん頃見てたんだからいいだろーが」
「……ん?」
「見に来てただろ、体育館」
「な、え、なんで…?」
「……」
「なんで知ってるの?!」
「……まぁ、たまたま」
「ていうかなんで覚えて…」
「あーもう!なんでもいーだろが!」
「よくないんですけど?!」



なんとまさか気づかれていたとは。そしてそれを今まで覚えていたとは。凛の記憶力は一体どうなっているんだ。いやまぁ私も覚えているけれどそれは当時から彼を好いていたからなわけで。…あれ、でもそれでいくと、凛がそんな些細なことを覚えているってことはもしかして……いやいや自惚れるのも大概にしよう。そんなことあるわけない。そうだよねぇ凛。なんとか言ってよ、赤くなってないでさぁ。じゃなきゃ私の都合のいいように解釈しちゃうし、そうなったらうれしすぎて叫んじゃいそうだし、どうしよう、心臓痛い。
顔に熱が集まるのを感じながら、耳まで赤くしてそっぽを向く凛をじっとみつめる。ざわざわと木が葉を揺らす音だけが広がる空間に突如鳴り響く電子音に身体が大げさに震えた。
昼休み終了十分前のアラームだ。



「……もう時間か」
「あ、あと少しだけ」
「なに言ってんだ、遅れるぞ」
「走ったら五分で着くし!」
「だぁから、走んなっての」



離れがたくて駄々をこねるも、デコを指で弾かれ一蹴される。さっきまで照れてまともに目さえ見てくれなかったくせに、突然の兄モードだ。切り替えの速さに感服していると、凛は早々に立ち上がる。諦めて腰をあげ視線を前に向けると、控えめにこちらに延ばされた手と顔だけで振り返る凛がいた。恐る恐るその手のひらに自身の手先を乗せると、柔らかく包みこまれる。



「送ってってやるから、歩いて戻るぞ」
「……うん」



全然兄じゃなかった。めちゃくちゃ恋人だ。彼氏すぎて胸がぎゅうぎゅう締め付けられる。幸せのあまりこのまま死ぬかもしれない。付き合い始めてまだ3か月、手を繋ぐだけでこんなにも精いっぱいなのに、これから先私は、私たちはどうなっていくんだろうか。考えたら頭も心臓も爆発しそうだ。碌に会話もできないまま、学校の目の前の横断歩道までたどり着いてしまった。ここを渡ってしまったら、また明日のこの時間まで会えない。こういう時に限って信号はすぐ変わるのだから、神様ももっと空気を読む練習した方がいいと思う。



「じゃぁまた明日な」
「うん…」
「んな顔すんな、すぐだろ」
「そうだけど」
「明日は走んなよ」
「……」
「……迎えくるから、ここで待ってろ」
「…わかった!」



現金なやつ、と凛は笑って、それから校門横に連なるレンガ造りの塀に身を寄せて、少し腕を引っ張られたかと思ったら額に唇が触れて、一瞬のことでよく分からなかったけど、「じゃ」と短く別れの挨拶を赤い顔して呟いて、信号が点滅している横断歩道を走って渡る凛の背中をみながら「凛だって走ってるじゃん」と沸騰しそうな頭で思った。