私に彼氏がいることを知っているのはほんの数人、仲のいい友達だけ。その彼氏が誰なのかを知っているのは、果たして。


「岩ちゃん」
「許す」
「と、マッキー」
「アウト。さようなら」
「と、」
「まだいんの?!」
「まっつん」
「あんたさぁ、隠し事できないタイプ?」


岩泉ならまだしも、何故その二人に言う必要があったのか。松川はよく知らないが花巻は絶対にアウトな分類だと思う。故意に言うことはないにしても、会話の中でつい、とか、そんな場面は容易く想像できる。その会話を小耳に挟んだ噂好きな女子が一大ニュースとして各クラスの友人達へふれ回り、事実は尾ひれはひれを纏い全く異なる形となってあらゆる人の耳に入るのだ。そして私は好奇と、恨みつらみのこもった禍々しい視線に晒されるんだろう。そんなの考え出したら震えが止まらない。残り少ない学生生活の平穏はなんとしても守りたいわけだ、私は。


「いいじゃん、別に」
「よくないから言ってんでしょ」
「何がよくないわけ?」
「色々」


ふぅん、とさして興味も無いような返答があり、むっとした表情のまま前をみた。人が目の前で真剣に課題をやっているというのにこの男は、足を組み肘を机において頬杖なんかつきながら携帯をいじっている。夏休み明け一発目の授業で数学教師が配ってきた受験対策の問題集は夥しい量で、私は暑さで頭がおかしくなって幻想でも見ているのではないかと思ってしまうほどだった。まぁ実際のところ私は悲しいかな正常で、これは紛れも無い現実なわけで。そう、これは夢ではない。夢ではないのだ。


「あとどんくらい」
「30分でやめる」
「帰り、どっか寄る?」
「本屋」
「あー、いいね。俺も見たい本あった」


もう発売してんだっけ、とひとり言を呟きながら、及川は相変わらず画面をスクロールしていた。そんな彼を目線だけで見やる。手元の携帯を見つめる目は伏し目がちで、それがやけに綺麗で、見慣れた教室でさえもこいつがいるとこんなにも絵になるのかと思った。本当に、夢ではないのだろうか。2年間想い続けた相手と、放課後を一緒に過ごしている。寄り道の計画をたてている。夢にまで見ていた、けれど諦めていたものが今、現実のものとしてここにあることに未だ実感が湧いていないようだった。今目の前にいるのは及川で、彼は私の恋人で、私を好きだといってくれた人で、私の好きな人。そんなことを頭の中で反芻している。本当は口が悪いところもあったり、時々セットが崩れたまま待ち合わせ場所にやってきたり、昼休みの屋上で子供みたいにあどけない顔で眠ることもある。そういう無防備な彼を知っているのは私だけなんだなあと、その端正な横顔を見つめながら、回想の中の及川と重ね合わせた。ふいに、及川がこちらを向いた。


「なに、わかんないとこでもあんの?」
「あ、うん、」


私は慌てて視線を落とす。シャープペンシルを握った手は、少し前にたどり着いた問題から先には進んでいない。かろうじて視界に入っている及川の肘が見えなくなった。携帯が机に置かれ、正面に向き直る。それから両腕で体を支えるようにして身を乗り出し、問題集を覗きこんだ。近い。近すぎる。こんなに近いのは私が及川と知り合ってからの人生史上初めてだ。この長い睫の一本一本が、通った鼻筋が、少しだけかさついている唇が、何から何までが私の胸を刺激する。余計、意識が散漫していく。


「これは103ページの公式使うんだよ」
「あ…そうなの?」


その情報は知っていた。しかし分からないと言った手前、そのように振舞うしかできない。私は黙って、その綺麗な手が教科書のページを捲っていくのを見つめた。目的のページの真ん中らへんを指しながら、ここ、と言って彼の長い指が数式をなぞる。


「解けた、ありがとう」


そもそも分からない問題ではなかったので、当たり前に解けた問題にほんの少しだけ時間をかけて、礼を言いながら顔をあげた。そうしたら、思った以上にすぐそこに、及川の顔があった。真っ直ぐに私を見ている目の中に、自身の姿が見えそうだ。私は思わず息をのむ。こいつの顔は本当に整っていて、綺麗で、だから時として、真顔は脅迫じみた圧倒的な威圧感を醸し出すのだ。


「さっき、俺のこと見てなに考えてたの?」
「…は?」
「分かんないなんて、嘘だろ」


漸く搾り出した声は殆ど空気と化していて、とうとう何も言えなくなった。激しくなる鼓動の音だけが聞こえる世界はなんとも居心地が悪い。焦燥感が体中を駆け巡る。何か言わなければ、でも、なんて?正直にあなたを見てましたなど、言えるわけがない。こんな状況下であってもなお、私は意地っ張りの頑固者で本当に可愛くないなと、どこか冷静な自分が分析している。そんな場合ではない。及川が唇を小さく動かし、「ねぇ、なに考えてたの」と再度口にした。


「…見て、ない」


苦し紛れに発した言葉は彼のお気に召さなかったらしく、至極つまらなそうな表情で返された。「あ、そ」と無機質な返事をされ、やってしまったと今更後悔をした。下げた視線は問題集の表面を泳いでいる。及川の顔が見れない。やっぱりお前は可愛くないなと、呆れられていそうで怖い。いつもはそれが私だと開き直っているけれど、今回ばかりはそれでまとまるような気がしないのだ。可愛げのある「可愛くない」にも、限度というものがあるはずだ。私の今の事例はアウトか、セーフか。それが彼の表情に書いてある気がして、真正面から直視するなどできやしなかった。「俺はね、」及川の声が、つむじの辺りから降ってきた。


「さっきから、お前のこと見てたよ」


今度は息が止まった。壊れたロボットよろしく、錆付いた音でもだしそうなほどぎこちなく首を持ち上げると、優しいとも性悪ともつかない笑顔で私を見つめる及川がいた。


「何考えてたか、知りたい?」


知りたい。でも、知りたくない。二つの答えが互いを消しあうように浮かんではぶつかる。及川はその微笑を絶やさない。ねぇ、反則だと思うよ、その顔は。恋に浮かれる少女のような感想も入り混じり、私は一体何を言えばいいのか分からなくなった。思考が一向にまとまらない。ただただ上昇し続ける体温を発散させる術はないのか。熱すぎて胸がはちきれそうだ。


「キスしちゃおーかなって、思ってた」


無言はいいよ、ってことだってみなすからね、とは、なんと都合のいい解釈だろうか。私はシャープペンを握ったままの右手に力をこめて、ついでに左手にも力が入って、それら二つを机の上に置いたまま、及川を見つめ返すしかできずにいた。彼が、近づいてくる。大きな手のひらが、人差し指と中指で耳を挟むようにして右頬を覆った。瞬間、びくりと肩を震わせ全身が固まった私を見て、及川が小さく息を吐き出して微笑んだ。近すぎていよいよ焦点が合わなくなる。思わずぎゅ、と目を瞑った。「なんだ、」と呟く彼の唇から抜けた空気が私の唇を包んだ。


「そんな可愛い反応もできるんじゃん」


映画のワンシーンのようで、あまりに出来すぎている。もしかしたらこれは夢かもしれない。確かめたくて目を開けたけれど、広がるのはただの黒で何も見えなかった。吸い込んだ酸素は彼の匂いで満たされていて、信じられないくらい唇が熱いのだけがやけにリアルだ。眠らずに見る夢はこんなにも、心臓に悪い。