今朝は気分がいいから、あたしの大好きなものの話をしよう。


まずは本。これは何歳からなんて覚えてないくらい小さい頃から変わらずに大好きなもの。本はあたしを色んな人にしてくれる。ある時は恋に恋する中学生の女の子になったり、ある時はアメリカのスパイチームのリーダーに、酷いものだと不倫に不倫を重ねて麻薬に走った中年のおばさんになったりする。あれはすごくスリリングな本だった。シリーズもので、主人公は違えど同じようなシチュエーションの話が全5巻にも渡っていたけど、続きを買いたいと言ったら「そんなもの女子高生が読むんじゃない」と怒られたので買えていない。図書館で読んだからいいけど。それと全然関係ないけど、三十路の口から聞く「女子高生」って単語はなんだか卑猥で不純だ。


次にお菓子。特にチョコレート。これがなきゃあたしは死ぬ。ビスケットと一体になったチョコレートも最高に好きだし、シンプルに板チョコでもいい。アーモンドとかマカダミアナッツとか、そういうのにチョコレートを絡めたやつを開発した人は本当に天才だと思う。どうして彼、もしくは彼女みたいな人たちは、科学者や平和を謳っている人たちのように世界的に表彰されないんだろう。なんなら私が賞状作るから、ぜひ感謝の気持ちを伝えさせてほしい。そんなことをこの前真剣に話していたら、「糖尿一歩手前のやつに表彰されても複雑だろ」と鼻で笑われた。おい、お前が笑いながら食ってるそれも、偉大なるチョコレート様だぞ。


その次に歌。音楽なんて嫌いだった。ただ煩いだけで、日本人は綺麗ごとばっかり歌っているし、外人の言っている言葉は意味が分からないし。クラシックは眠くなるし、かと思えば突然最大音量ぶちかましてくるしで一番嫌いだった。それなのに、あの人はいつも音楽をかける。家に帰ってきてスーツの上着を脱いで、鞄を床に置いたらすぐポケットから携帯を出して音楽を流す。いつもいつも同じ歌手の、同じ曲を同じ順番で流す。まるで洗脳だ。いつしか頭に残ったメロディを口ずさんだら、あの人は笑って「お前は歌が上手だね」と頭を撫でてくれた。だから、歌は好き。


それから、お化粧。これも元々はあまり好きじゃなかった。だけど派手なメイクはあたしを20歳にしたり23歳にしてくれたから、手放すわけにはいかなかった。他より安いが売り文句の大型ディスカウントショップとか原宿の竹下通りに出てるワゴンに無造作に置かれている安っぽい化粧品を買い漁っては、それらで顔を隠し、違うあたしが生まれる。アイラインで真っ黒に塗りこんだ目はあの人のお気に召さなかったらしく、「ブサイク」とただ一言だけ頂戴した。そしてその翌日、目を覚ましたらポーチの中身はすべて処分されていて、代わりに、床に道しるべのように化粧品が点々と並べられていた。パステルカラーのアイシャドウ、薄いピンクのチークにハイライト。途中に貼ってあった付箋には「アイライン禁止」って書かれてて笑った。ついでに写メも撮った。いまでも大事にとっといてる。ちなみに、ヘンゼルとグレーテルは落とした小石を辿って家に着いたけど、あたしが辿りついたのは鏡の前で、そこにも付箋が一枚引っ付いていた。「今度からそれ使うように」命令口調なのが気に入らないけど、とりあえず言われたとおり使ってみた。今までのやつみたいにハッキリ色はでないしなんだかぼやけた顔だった。でも、あの人は「うん、やっぱそっちのが可愛いよ」って言ったから、それで何もかもどうでも良くなった。


あとは、春。今はぐだぐだに暑い夏で、次の春が来るまであと半年以上もあるけど、あたしは毎日、早く春が来ないかなあとカレンダーをめくる。でも当然ながら今年のカレンダーは今年の12月までしかなくて、あたしが心待ちにしている4月は載っていない。来年のカレンダーを買ってとお願いしてみたら、「先月歳くった人間にそういうこと言うのやめてくれる」と睨まれた。そうでした。30歳の誕生日、おめでとうございました。「バカにしてるだろ」滅相もございません。「…なんで来年のカレンダーなんか欲しいのさ」よくぞ聞いてくれました。忘れもしません、あの春のこと。あの人はいつもあの時のことを「悪夢」っていう。あたしはいつも「奇跡」っていう。人でごった返す賑やかな街中で、あたしはあの人に声をかけた。「お兄さん、あたしのこと、買いませんか」ありきたりな言葉だ。それでも断られることなんか知らなかったあたしは自信満々に言っていた。「嫌だよ」だからあの人のその拒絶の言葉はとても新鮮で、嫌だよ、ってどういう意味だっけ、って考えた。



「キミ高校生でしょ」
「違いますよ、ハタチです。大人です」
「嘘付け、昨日ここで警官に捕まってたとき、生徒手帳見せてたでしょ」



なんと、見られていたとは。残念でした、と笑いながら去っていったあの人に再会したのは、意外にも早くその3日後だった。その日はいつもと違って、あたしは少し焦っていた。というのも、声をかけた人が話にのってくれたのは良かったのだが、仲間を呼ばれてしまったのだ。一対複数は経験がない。だけど誘ったのはあたしだったから、今更話を無かったものにすることもできず、どうにか逃げ出す瞬間を見計らっていた時だ。「すいません、うちの妹が」颯爽と現れたあの人はぺこぺこと頭を下げながら、最初に声をかけた男の人に耳打ちをしたあとがっちり両手で握手をし、それからあたしの手を取って早足で歩き出したのだ。1分か2分。そのくらいの、あっという間の出来事だった。



「本当に、なに考えてんの」



その後、タクシーに押し込まれたあたしはあの人の家に連れてこられた。今まで行った男の人の家の中ではダントツに綺麗だけど、それでもやっぱり色んなものがあちこちに散らばっている。なんでこんな知らない人に説教をくらっているのかわからなかったけど、助けてもらった手前そんな可愛い気のないことは言っちゃいけないってことは知っていた。だから黙って聞いていた。「黙ってんじゃないよ、なんかないの」喋っていいらしかった。


「あたしのこと、買ってくれるんですか?」
「ちょっと痛いことしていい?殴んないから」



身構える間もなく、あたしの頬は目の前の大男の手によって最大限にまで引っ張られた。これは確かに、痛い。このまま引きちぎれそうだ。


「いひゃいれふ」
「他には」
「ほへんはひゃい」
「…もう二度としないね」
「……」
「返事は」
「ひあへん」
「よし」



やっと解放された。ビリビリ痛む頬をさするあたしを、あの人はずっと睨んできた。謝ったのに、まだ何かあるのか。



「あの」
「なにさ」
「なんで助けたんでしょう」
「そんなの俺が一番聞きたいよ」
「…はぁ」
「お前さ」
「はい」
「目の前でお年寄りが転んだらどうする」
「え、一応、声かけますけど」
「それと同じだよね」
「あたし、おばあちゃんですか」
「あーもーいーや、家どこ。送る」
「ありません」
「は?」
「家はありません」



あたしに帰る家はないのだ。いや、あったはあったのだけど、家賃が勿体無くて引き払った。あたしを買ってくれた人は数日家に置いてくれたし、飽きたら他の家へ行く。誰も見つからないときはホテルでも漫画喫茶でもいって凌げていたから、特に不便もなかった。


「親は」
「お父さんは死んでる。お母さんはよく分かんないです」
「…そ」


あの人は小さく囁くようにその一文字を口にして、コーヒーをいれにいった。もちろん、あたしの分もあった。テーブルに置かれたカップからいい匂いが立ち上る。さっそく手に取り一口。うん、おいしい。もう一度口をつけたとき、あの人が隣に座って言った。


「…今、言わないわけ」
「何をでしょう」
「お前が、俺に最初に言ったやつだよ」
「最初に…」


じっとあたしの目を見つめてくるあの人からは、威圧的なものが溢れていた。怖くはなかったけど、余計な言葉は口にする余裕は与えてくれなかった。だからあたしは言った。あの日と同じ言葉を、同じ人に。



「お兄さん、あたしのこと、買いませんか」
「いいよ、買ってあげる」




あの春の日のことを、あの人は「悪夢」っていう。あたしは「奇跡」っていう。




「ちょっと、何してんの!遅刻するだろ!」
「だって今起きた」
「嘘付け、ずっとぼーっとしてたろ!」
「うん」
「うんじゃないよ、ホラさっさと顔洗って制服着てこい!」
「及川さん、朝から元気だね」
「お前のおかげでね!」



及川さんはとっくにスーツに着替えていた。あたしはまだ寝巻きのままで、クーラーの効いた涼しい寝室で物思いにふけっていた。天気のいい朝はどうしても学校に行きたくなくなる。ずっとこうして、大好きなものを思い出していたい気分になるのだ。でも及川さんはそれを許してくれない。なぜならそれは「大人」だからだそうだ。ぼさぼさの頭を手櫛でなおして、いい匂いのするほうへ歩いた。今日の朝はクロワッサンと目玉焼きとベーコンらしい。あとコーヒー。及川さんの淹れるコーヒーは絶品だ。



「用意できた?!」
「できたー」
「じゃぁほら行くよ、鍵もった?」
「うん」
「よし、…お前、ここ、どうした」
「え?」
「唇、切れてる」
「あー、なんか最近ガサガサしてて。この前割れた。乾燥してんのかも」
「してんのかも、じゃなくてちゃんとケアしなよ」
「えー、いいよ、舐めとけば治るって」
「…ほんとに、お前は…」



及川さんはバタバタと奥へ消え、あたしは靴もはかずに玄関に突っ立っている。たかだか唇が割れたくらいで大げさな人だなぁ。こんなの痛くもなんともないのに。…いや、さすがに朝の目玉焼きは塩がかかっていたから痛かったけど。でもそのくらいだ。早くしないと本当に遅刻するよと他人事のように思っていたら、ふぅふぅ言いながら及川さんが戻ってきた。そしてあたしの目の前に立つ。いつも思うけど、この人本当に大きいよなぁ。



「これあげるから、乾燥してきたら塗りな」
「覚えてたらね」
「言うと思った!お前は絶対つけないよね!」



そう言って及川さんはポンっとキャップをとった。大きな左手があたしの顎を掬って上を向かせる。及川さんの右手が持つリップクリームは存外滑らかな触感で、ゆるゆると気持ちよく唇をなぞっていった。



「帰ってきたら、またつけてあげる」
「うん」
「だから今日も頑張ること。いいね」
「はーい」
「よし」
「……」
「なに」
「キスしないの?」
「するわけないでしょ」



及川さんは顔をしかめてそっぽを向いた。それから大きくため息をついて、「もーこの子ヤダ」って首を振る。そんなに困るならしちゃえばいいのに。あたしはいっつもそういうけど、及川さんは決まって「そういう問題じゃない」っていう。じゃぁどんな問題なのかというと、それは法律とか世間とか会社とか学校とか道徳とか理性とかいろいろあるのだそうだ。高校二年生のあたしはまだまだ、及川さんを悩ませる最大の種となっているようだ。



「意気地なし」
「はいはい」
「ヘタレ」
「なんとでも」
「チキン野郎」
「そういう言葉は使っちゃダメ!」
「でも好き」
「…知ってるよ」
「あと2年、我慢してね」
「ならキスしてとか言うな馬鹿」



最後にひとつ、あたしの大好きなもの。
及川さん。