起きなきゃいけない時間を過ぎているのは知ってる。なぜなら少し前に自分で携帯のアラームをとめたから。さらに言うとアラームが鳴る前に目が覚めたから、待ち構えていた。あたしは割と朝に強いらしい。眠くないわけではないけど、寝起きはいいようだ。それでもこうして未だ布団に包まっているのは、この近づいてくる足音が好きだからだ。もうすぐここに、眉間に皴を寄せたおじさんが来る。ちなみにこの呼び方は怒られるから心の中でしか言わない。


「ほら、起きな!遅刻する!」
「ん〜」
「起きてんの知ってんだからな」


扉が開く寸前に布団を顔まで持ち上げる。そのふかふかの壁を通り抜けて及川さんの声が飛び込んできた。そう、これこれ。これがなくちゃ、あたしの朝は始まらない。そっと布団を下げて目だけをだすと、やっぱり想像したとおりの顔した及川さんがそこにいた。


「もうちょっとだけ」
「そんな甘えた声して言ってもダメなもんはダメ」
「ケチ」
「なんとでも」
「学校行きたくない」
「嘘つけ、学校祭の準備楽しいって言ってたろ」
「うん」


そうなのだ。学校行事はおろか学校にすら殆ど行っていなかったあたしがなんと、毎日通学しているどころか学校祭なんて催しものにも参加するのだ。それだけでも驚きなのに、模擬店の看板を作ったりステージの装飾を考えたり、クラスメイトとの共同作業を楽しいと感じている。それもこれも、学校へ行くよう根気強く毎朝起こして送ってくれた及川さんと、暖かく迎え入れてくれるみんなのオカゲだ。ありがたいことに今、あたしはいま色んな人に支えられながら、幸せな高校生活を送っている。


「パン焼いてるから、俺もう戻るよ」
「うん」
「早く着替えておいで」
「はーい」


そう言って布団から顔をだしたところで、部屋をでていこうと振り返る途中だった及川さんの動きがとまった。そしてそのままじっと、あたしを見ている。何事かとあたしはそれを見つめ返す。なんだっけ、こういうの。蛇に睨まれた蛙?でもそんな食うか食われるかみたいな緊迫した雰囲気になる要素あったっけ。あ、それとも、


「及川さん、着替えみたいの?」
「馬鹿なのお前」


ものっすごく嫌そうな顔されて少し傷つく。そんな顔しなくてもいいじゃん。今どきのじぇーけーの発育事情知らないな?それなりにちゃんとしてるんだから。そんなあたしの思考など及川さんは知る由もなく、相変わらず難しい顔をしながらあたしの目の前にしゃがんだ。大きな右手があたしの頬を覆う。なになに、なんだ、やっとキスしてくれる気になったのか?いやでもまさかこのタイミングで?男のスイッチの入り方ってよく分からない。


「お前、体調悪い?」
「ぜんぜん」
「なんか顔白いけど」
「いつもじゃない?」
「いや、そうだけど、今日はなんか違うというか」


うーん、と少し首を横にかしげて、ちょっと待ってな、と言葉を残して部屋をでていく及川さん。あれほど威勢よく遅刻するから早く起きろと言ってきたくせに、こうしてる間にもパンはどんどん焼けているだろうし、時間は刻々と過ぎている。この前のリップクリームの時といい、及川さんはせっかちなのかのんびり屋なのか分からない。しかし言われたとおりじっとベッドの上で待つあたしはやっぱり偉いと思う。なんて自分を褒めていたら、及川さんが体温計を持って戻ってきた。あたしはこの細長い機械があまり好きではない。


「一応はかって」
「えー」
「えーじゃない」
「大丈夫だよ、なんともないし」
「それはこいつが教えてくれる」


無防備なあたしの口に侵入してきた銀色は一瞬冷たかったけど、すぐに口内の温度になじんだ。ぐんぐんあがっていく数値から目をそらす。知らなければそれで済む話でも、こうして数字でつきつけられるとそれだけで一気に具合が悪くなる。38度をいったりきたり、なかなか落ち着かない体温計がぴぴ、となる前に及川さんはそれを引っこ抜いた。


「今日は休み決定」
「いやだ」
「馬鹿なのお前」
「それ今日二回目」
「馬鹿なこと言うからだろ」


反論しようと口をひらくも、及川さんはさっさと立ち上がって携帯を耳にあてていた。恐らく学校へ連絡しているんだろう。あー、お世話になっておりますー、とかなんとか、事務的な口調で話しはじめる及川さん。学校へ行きたい気持ちは確かにあるが、あたしは諦めが良いほうだ。ここはもう観念しておとなしく寝ていようと思う。はぁ、熱はかったらなんだかだるくなってきた。上半身を起こしているこの体勢も割ときつい。再び枕に頭をおいて、天井を見上げた。あーあ、今日一日どう過ごそうかな。及川さんが帰ってくるのはざっと12時間後。そのうち半分を寝て過ごしたとしても残り6時間あまり。長すぎる。あの頃と生活は随分変わってはいるものの、相変わらずあたしは一人の時間を過ごすのが苦手なようだ。


「しっかり休めってさ」
「はいはい」
「いま薬持ってくる」
「あ、及川さん」
「ん?」


今日は何時に帰る?今は忙しい時期?お昼は何時?電話してもいい?それかラインとか、なんて、言いたい言葉が浮かんではせき止められ消えていく。えーと、と動きが止まる私の口が本当に言いたいことはたったひとつ、そばにいて、だ。でもできないのはわかってる。なぜなら及川さんは大人で、社会人で、チームのリーダーだから。責任とかいろいろ、他の人とは違ったものを背負っているのだ。それはもう、嫌というほど分かっているから。


「自分でできるよ」
「なにが?」
「薬、とか。自分の看病は自分でするから、もう行ったほうがいいよ」


そうなのだ。実はああだこうだしている間に、いつも家を出ている時間を過ぎていた。早くしなよ、と精一杯訴えるあたしの額を、及川さんは優しくひと撫でしてまた枕もとにしゃがんだ。


「分かった。でも薬だけは持ってくるから」
「いいって」
「このくらいの看病ぐらいさせてよ」


少し乱れている布団を綺麗に直してから、及川さんは部屋を出て行った。結局甘える形になってしまったが、どうしても時間が気になる。だってもう本当に行かないとやばい。その割りに及川さんは落ち着いているし、なんで社員でもなんでもないはずのあたしがこんなに焦っているのか謎だ。これで遅刻したらどうなるんだろう。すいませ〜んってあの甘いマスクで笑って謝れば済む職場ならいいが、上司が女でない限りその技は通用しない気がする。どうしよう、課長とか部長とか、もっと偉い人がきて怒ったりしたら。いっそのことあたしが電話しようか。あたしが風邪をひいたばっかりに、って謝ったら、許してくれたりしないだろうか。大人の世界はそんなに甘くはないんだろうか。どうしよう、でも悩むより行動だ。いやでもあたし、そもそも及川さんの職場の電話番号知らないな。


「なーにやってんの、病人が」
「及川さんの職場に電話を」
「なんの為に」
「及川さん遅れますって、あたしのせいなんでって」
「馬鹿なのお前」
「あ、三回目」
「もう電話したよ」


なんと。さすができる男は仕事が早い。とっくに電話していたらしい。それなら安心だ、と胸を撫で下ろすもつかの間、及川さんの格好に違和感しかない。右手には水の入ったコップと恐らく薬が乗っているであろうトレイ、左脇にパソコンをはさみ部屋に入った及川さんは部屋着姿になっていた。熱が上がりすぎていよいよ視力まで悪くなったのか、あたしは。


「はい、薬」
「え、なんで」
「え、俺薬持ってくるって言ったよね」
「そうじゃなくて」

つっこみどころが多すぎたから、まとめて「なんで」と問いかけたわけだけど、やはりあまり上手く伝わらなかった。そりゃそうか、あたしだってイマイチ分かってない。考えようにも熱がそれを邪魔する。諦めてもう一度、今度はもっとゆっくり、なんでって言ってみた。


「ここで仕事するから」
「なんで」
「会社休みにした」
「なんで」
「心配だから」
「なんで」
「約束だから」


自身ありげに及川さんが笑う。あたしの机にパソコンをおいて、それからトレイをおいてコップと薬を手にまた枕元にしゃがみこむ。促されるまま手のひらから白い錠剤を二つ拾って、水と一緒に飲み込んだ。いい子、っていうみたいにあたしの頭を撫でる及川さん。一年も前にした約束を覚えていた。及川さんと一緒に暮らすことにして、その条件として学校へ行くことを提示されて、何日も何十日も通学していたうちのたったある一日の、数時間の間にしたあの約束。具合の悪さを自覚するほどの高熱で、でも迷惑かけたくなくて保健室で休んでいたあたしを迎えにきた及川さん。そのとき及川さんがあたしに言ったのだ。お前が大変なときはどんな時でもそばにいる、だから頼って、と、囁くように。あたしはそれを胸に大切に大切にしまって、たとえ本当のことでなくてもそれでもすごくうれしかったから、宝物みたいにして思い出しては自分の支えにしてきた。それが、まさか、覚えててくれて、現実のものにしてくれるとは。頭がふわふわしているからこれは夢かもしれない。でも夢でもいい。すぐ目の前に及川さんがいて、あたしの手を握ってくれているから、それだけでいい。


「そこにいてね」
「いるよ」
「寝たら、仕事していいから」
「わかった」
「寝たくない」
「だーめ」
「けち」
「起きて熱下がってたら、一緒にリビングでテレビみよう」
「この前の海外ドラマがいい」
「はいはい」
「じゃぁ、ねる」
「よし」
「おやすみ、及川さん」
「おやすみ」