息を吸うたびサボくんの匂いがして眩暈がしそうだ。部屋の電気はついていないものの、暗闇に慣れた目は黒に溶けていた諸々をしっかりと映し出す。今にも鼻同士がぶつかりそうなほど近くにあるサボくんとの距離を保つのは、厚い胸板を押し返す私の腕だけ。それももうふるふると震え出しているため限界が近い。


「ね、ねぇ、やっぱりやめようよ」
「なんでだよ」
「だっ、だって、なんか、ダメなことしてる気が、」


逃げ腰な私をしっかり捕まえる逞しい両腕。ベッドのど真ん中に座る彼の足の間で成す術なく収まる私の訴えにも、サボくんは聞く耳を持ってくれない。依然、至近距離での見つめ合いもとい睨み合いは続く。


「ここ、船の上だし、みんな、いるし」
「みんな俺達のこと知ってるだろ」
「そ、そうだけど!」
「俺はお前が好きでお前も俺が好きだろ?ダメな理由なんかねぇよ」


なんだか今日は彼の様子がおかしい。いつもならもっと優しく問いかけるようにして私の心の準備を待ってくれるし、ノーと言えばすんなりと引き下がってくれていたのに。いつまで経ってもイエスと言わない私に痺れをきらしてしまったのだろうか。それに関してはもう謝ることしかできないけれど、それにしても、こんな性急な、強引な方法は、良くないと思うんです。


「もう我慢できねぇ」
「…うぅ」
「いいだろ、初めてなわけでもあるまいし」
「な、なんで知ってるの?!」
「さァな」


そりゃぁ私にだって、ここに加入する前に付き合っていた人の一人や二人いる。別に隠していたつもりはないが、そんなことわざわざ言う必要もないだろうと思い伝えていなかった。初めては16の時だったか、なんて、そんな赤裸々な話をした相手は片手で足りるくらいしかいない。あの子は口が固いし、あの人はいま任務でここにいない。となると残るは、偶然そんな会話をしていた場に居合わせていたあいつのみ。この人、絶っ対買収したな!


「怖いなら目閉じとけ」
「っサボくん、待って」
「待てない」


真剣な目の奥で影が揺らめいた。それが怒りなのか哀しみなのかは分からないけれど、彼がいま究極に不機嫌なことだけは理解した。理由は掴めないが、こうなったらもう彼は止まらないし止められない。半ば無理矢理自分を納得させて、上下とも下着しか身につけていない体に力をこめた。しかし彼の手が触れたのは背中にある留め具ではなく、私の頬だった。大きな掌が右半分を包み込む。閉じていた目をあければ、ふ、と弧を描く唇を見つけた。


「どうした?」
「あ、え、いや、」
「何されると思ったんだよ?」


カァ、と顔中が熱をあげているのが分かる。意味深なことを言ったのはサボくんなのに、これじゃぁまるで私だけがなにか変なことを考えていたみたいだ。返す言葉もだせない私は置いてけぼりのまま、サボくんは右手で私の額にかかる前髪をよける。次の行動に備えてぎゅ、と目を閉じたものの、彼の唇が音もなく額に触れて離れるだけだった。そのあとも彼の柔らかなキスは顔中に贈られたけれど、唯一、私が守り通してきた場所には触れなかった。よくある、いつものスキンシップみたいなキスなのに、胸の奥がざわざわしている。じれったいと思ってしまう自分がいる。耳たぶを噛まれて情けない声が口から漏れた。ひた隠しにしていた気持ちが大きくなりすぎて、もう限界だった。胸の前で固く拳を握っていた両手でサボくんの肩を押す。離れた身体の、はだけたシャツから覗く彼の肌に腰が疼いた。


「きす、してよ、サボくん」
「してるだろ」
「そうじゃなくて、」
「分かんねぇな」


たとえそれが分かりきった嘘であったとしても、これ以上問答を繰り返す余裕はない。肩に乗せていた手を奥へすべらせ、首の後ろで腕を交差する。ぐっと近くなったサボくんに吸い込まれるように、唇を合わせた。がっちりと後頭部をロックされ、逃げ場を失った私はもうサボくんの為されるがまま、導かれるまま、唇を薄く開いて彼の舌を招き入れた。絡めたり歯列をなぞったり、生き物みたいに自在にうねる。奥へ奥へと追いかけるのに必死になって開いた口の端からこぼれた雫を、サボくんの親指が掬い上げた。いつの間にか体を倒されベッドに横になっていたことさえ気付かないほどに、夢中になっていた。


「さぼ、くん」
「っ、どうした?」


いつもの穏やかな声に戻ったのは、私が柄にもなく泣いていたからだろう。頑なにサボくんとのキスを拒んでいた理由。それはこの大きすぎる好きが原因だと言ったら笑われるだろうか。過去の人が好きじゃなかったわけじゃない。だけど、手をつなぐだけで、目を見て会話するだけで、彼のことを考えるだけで苦しくなるほどの恋をしたのはこれが初めてだった。そんな人とキスなんてしてしまったら、自分がどうなってしまうか、それ以上を求めてしまいそうになるのが怖かった。欲を曝けだした私を前にしたサボくんの反応を見るのが怖かったのだ。


「だから、ごめんね」
「……そうか」


静かに、そう一言。私の上に覆いかぶさるように肘を曲げ、枕に顔を埋めたサボくんは肩を揺らして笑いはじめた。人が真面目に謝っているのに、この男は!とてつもなく恥ずかしい告白をしてしまった気になって、涙は羞恥に色を変えて流れていった。さっさと離れてと足をばたつかせ暴れる私を宥めるように、髪を撫で付ける。余計腹が立って背中をバシバシ叩いたところで、漸く満足したのかサボくんが体を浮かせた。その表情からは当然だが、不機嫌さなど微塵も見て取れなかった。


「悪かったって、睨むなよ」
「もうやだ!」
「そう言うな」
「い、や、だ!」
「お前、めちゃくちゃ可愛いよ」


用意していた嫌だという言葉も、パンチのために作っていた握りこぶしも、行き場をなくして迷子になる。その隙をサボくんは見逃さない。両手はあっというまにシーツに寝かされ、口を塞がれた。わざと音をたてて離れたり、軽く合わせるだけかと思えば舌を差し込まれて深くなる。サボくんはいろんなキスで私をいっぱいにしていく。酸素不足でぼうっとしてきたあたりで、やっと顔が離れた。どちらのものかわからない唾液でサボくんの下唇が光っている。それを器用に舌で舐めとって、彼は不敵に笑った。


「前の二人としたことは忘れろ」
「んぇ…?」
「その気にならないようなキスはキスじゃねぇって言ってんの」


人数までばらされていることはもうこの際いいだろう。脳まで蕩けたいまの私に、彼の言っていることの意味はイマイチわからなかった。ただ漠然と、確かにそうかもなぁとだけ思う。再び唇が重なって目を閉じた。頭をなでていた手が背中に周り、ぴくりと肩が上擦った。下半身に感じる硬い熱に疼いて仕方がない腰が揺れ、自ら擦り寄せてしまう。そんな私をみてサボくんが、楽しそうに笑った。


「本当のキスの仕方、わかったか?」


あぁそうか、これは、嫉妬か。ちかちかするような刺激に見舞われる中、ふと、不機嫌の理由が分かった気がした。