朝デートしたい

「名前さん」



三回目の呼びかけで漸く彼女は身じろぎをして、枕に顔を埋めたままくぐもった声で「うん」と返事をする。



「おはようございます」
「……おはよ」
「俺ランニング行きますけど」



そこまで言うと彼女はこっちを向いて、ゆっくり瞼を上げ下げしながら俺を見た。そのひどく眠たそうな表情に思わず笑いながら、はらはらと落ちていく髪をよけ耳にかけてやる。満足そうに閉じてしまった目をもう一度開けてほしくて、親指の腹で目じりを撫でた。



「……りん」
「はい」
「いかないで……」
「なんでですか」
「…………寂しいから」



思ってもない返事に吹き出すとわずかに眉間に皺がよった。わかっている、寂しいのもまぁ一割程度は本当なんだろうが、残りの九割は間違いなく「寒いから」だ。俺を湯たんぽ代わりにしなければねむれないと、冬はうちに来ることが多くなる。だから、彼女が嫌いだというこの季節が俺は好きだ。



「……凜はさ、時々すごく失礼だよね」
「すみません、つい」
「本当に寂しがってるとは思わないんだ?
「寂しいんですか?」



聞き返せば、名前さんはしかめっ面を一層あらわにする。それから身体を起こしてベッドに座ると、使っていた枕を俺の顔に勢いをつけて押し当てた。シャンプーの匂いがする。名前さんの髪からはいつもこの爽やかで瑞々しい香りがするから、ついそれに誘われるように何度もキスをしてしまう。そうしたあとの名前さんは恥ずかしいのと嬉しいのを足して半分にしたような、なんとも言えない可愛い顔をする。なんて思い出していたら無性にそれがみたくなって、枕を抑える彼女の手をゆっくりどけてから立ち上がり、片膝をベッドについて頭のてっぺんにキスをした。



「……そんなので機嫌とろうとしてもだめだよ」
「手ごわいですね」



まぁそう言ってるだけで、結局俺の好きな顔をしているのだからたまらない。少しだけ寝癖のついた髪を撫でつけてベッドから離れる。名前さんは欠伸と一緒に伸びをして、「まだ七時じゃん……」と言いながら足元の布団をよけた。ここまでくればもう一息だ。紅茶かコーヒーかを聞いて、こちらに差し出された両手を取って立ち上がらせた。



「走ってくるんだっけ……」
「一緒に行きますか?」
「……私は走んないからね」



予想通りの答えに思わず口角があがる。行かない、ではなく、「走らない」。この返事のときは自転車で並走してくれるか一緒に歩くかだ。いずれにしろ俺の目論見は達成されたというわけである。紅茶をご所望の彼女が顔を洗っている間に自分のコーヒーも用意をして、スキンケアまで終えた名前さんと並んでソファに座りカップに口をつける。まだ完全には覚醒しきっていないのか口数の少ない名前さんの横顔はあまりに無防備だ。



「……みすぎ」
「つい」
「はぁ、さむい」
「身体動かせばあったかくなりますよ」
「凜は元気だよねぇ」
「というかもうルーティンに組み込まれちゃってるんですよね」
「それに私まで組み込もうとしてるんだ」
「最終目標です」
「そこは応援しない」



猫舌の彼女が、何度か息をカップに吹き付ける。そのたびに立ち上がる湯気が俺の鼻先を通っていく。アールグレイの匂いは結構好きだ。いつだったか、外れのほうに新しくできたパン屋のクロワッサンが美味しいと評判だと名前さんが言っていたのを思い出す。携帯でふわふわのクロワッサンを眺めながら、一緒に紅茶でも飲んで優雅な朝を過ごしたいなんて独り言ちていた。横から盗み見たそのサイトに書かれていた住所は、ここから歩いて20分程度の距離だったはずだ。



「あ、ねぇ凛」
「なんですか?」
「どうせ歩くなら朝ごはん買って帰ろうよ。行ってみたいパン屋さんがあって」
「クロワッサンの店ですか?」
「……そうだけど、なんで分かったの」
「いまちょうど、俺もその店のこと思い出してました」



眠そうだった目がぱっちり開いてこちらを見上げる。本当に、ため息をこぼすように呟いた独り言であったからか、その言葉を拾っていることに驚いたのだろう。俺は意外と記憶力がいい方なのだ。とりわけ、彼女のことに関しては。名前さんはとっくに前に向き直っていてその表情をみることはできないけれど、「よく覚えてるね」と言う声が嬉しそうだったから、きっとそういう顔をしているはずだ。



「あぁぁ、やっぱり寒い…」
「今日はちょっと冷えますね」



ゆっくり支度を済ませてマンションをでると、キンキンに冷えた朝の空気が出迎えてくれた。名前さんは身震いをして俺の腕にしがみつきぴったりと身体をくっつける。充分体温を奪ったところでゆっくり離れ、「早く行って早く帰って来よう」とムードもなにもないことを言って歩き出した。



「あ、コーギー」
「あの犬、あそこの家のおじいさんに絶対吠えるんです」
「えぇ」
「あ、ホラ」
「ほんとだ」



撫でようと腰を下ろしたその人に恨みでもあるのかと問いたいほどの勢いで吠える犬をみて、名前さんは少し不憫そうに笑う。そのあとも顔見知りのランニング仲間に遭遇したり、できたばかりのドーナツショップがそこまで流行っていないことや工事中の建物は一体何の店になるのかという話など、他愛もないことを話しながらゆっくりと歩いていく。いつもの道ではつまらないからと普段通らないところを行ってみたり、名前さんも案外楽しそうだ。目的の店についたのは開店時間の少し前だったけれど、店主が寒いからと中へ入れてくれた。店内は焼きたてのパンの香りが充満していて食欲を大いに刺激する。



「さすがに買いすぎたかな」
「ですかね」
「でもどれも美味しそうだった」
「また来ましょう」
「うん」



パンがぎっしり詰まった紙袋を片方の腕で抱え、もう一方は名前さんの手を握る。焼きたての匂いが朝の空気に交じって運ばれてきたのに今朝の紅茶を思い出して、確かにパンに最適かもしれないと思った。



「お腹すいてきた」
「そうですね」
「帰ったら今度は私が飲み物淹れるね」
「じゃぁ俺も紅茶でお願いします」
「珍しい」
「朝すげぇいい匂いしたんで」
「私もあの香り好き」



来た道を戻っていく。家まであと少しのところで、あのおじいさんがコーギーを撫でていた。思わず名前さんの方をみると、彼女もまた驚いた様子で俺を見上げている。同じことを思っているのがうれしくて小さく吹き出せば、名前さんも同じようにくすくすと控えめに笑った。家をでたときよりも高い位置から差す朝陽がその横顔を照らす。彼女が輝いてみえるのはそのせいか、いま胸を占める幸福の効果か。普段の何気ない光景でさえ、彼女とみれば特別に変わる。そんな愛おしい存在がすぐ傍にいることがたまらない。繋いだ手を強く握りなおして、半ば引っ張るようにして歩く速度を速める。斜め後ろで「どうしたの」と言いながら名前さんが小走りでついてくる。早く、早く家の中に。気持ちだけが急いてゆっくり下りてくるエレベーターが待ちきれない。きっと冷えているであろうその身体を、早くこの腕に閉じ込めたい。全身で彼女を、幸福そのものをまるごと抱きしめて感じたいのだ。だから、早く、ふたりきりの家に帰らせてくれ。