屋上の少年



屋上へ続く重たく冷たい扉を開けると、生温い風がゆっくりと吹き抜けていく。久しぶりに見上げた空の青が眩しくて目を細めた。仕事や授業に出ている人が大半であろうこの時間帯の街の静けさは、いつだって落ち着く。柵へもたれかかり大きく息を吸えば、漸くちゃんと酸素が取り込まれたような気がした。目を閉じると頭を駆け巡っていく数式に英文、元素記号にエトセトラ。テストのために詰め込んだ知識が流れていく。今回の英語は悪くても9割はいくだろう。現代文も問題ない。化学の問4は少し不安だ。社会の手応えがイマイチだった。足を引っ張るとしたらそこだけか。数学は結構簡単だったから逆に心配だ。ケアレスミスには気をつけていたけれど、それでもこのところ根を詰めていたからもしかしたらということもあるかもしれない。それから、


「お疲れさん」
「っ?!」


突如背中に投げ掛けられた声に肩が大きく震えた。今はたぶんまだホームルームの時間で、自分以外の人がここにいることはないと思っていた。恐る恐る振り返れば、そこにいたのは黒髪とそばかすが印象的な一人の男子生徒。よぅ、と親しげに片手をあげたあと、大きな口で欠伸をする。そのまま歩み寄ってきた彼は私の隣に立ち、同じように柵へともたれかかった。先生ではなかったことに少しだけ安堵するも、話したことのない相手に身構える。一挙一動をただ凝視していると、眠そうな目と目が合う。その瞬間吹き出した彼の唇の隙間から見えた歯が、今日の空の雲みたいに白かった。


「そんなに警戒するこたねぇだろ。安心しな、誰にも言わねぇから」
「あ、ありがとう、ございます…?」
「あー、敬語はなしだ。同い年なんだからよ」
「そう、なの?」
「そうか、あんたは俺のこと知らねぇよな」
「すみません…」
「俺はエース、よろしくな、学年トップ」
「よろしく、です」


距離感が分からず中途半端な敬語で返しながら、差し出された手と握手をした。いまどき自己紹介のときにこんなことする人もいるのかと変なところで感心する。エースと名乗った彼はどうやら、テスト後に張り出される順位表で私の存在と名前を知ったようだ。それなら一方的に知られていてもおかしくはない。しかしどうしたものか、初対面の人との場を盛り上げる能力など持ち合わせていないため、あっという間に空気を沈黙が支配した。ちらりと隣の黒髪を盗み見てみるが、話し出すような雰囲気ではない。脳内を占める記号や公式をかき分けて漸く拾い上げた「どうしてここにいるの」という質問に彼は、「サボってた」とあっけらかんと答えた。


「え、テストなのに?」
「受けたって分かんねえし」
「そ、そう…」
「あんたもよくここでサボるだろ?」
「え」


思わず顔を左へ向けると、にやにやと嫌な笑顔でこちらをみる彼がいた。次の言葉を探している間、彼は指を折り曲げながら、昨日と、先週の火曜水曜、金曜、それから先々週の、と、とても時々とは言いがたい頻度のサボり回数を言いあげる。よく知ってるねと返せば、俺はここの住人だからなと自慢にならないことを得意げに言った。


「今日も盛大な反省会だったな」
「…聞いてたの?」
「聞いてたっつぅか、聞こえた」
「忘れて…」
「そんな勉強のことばっか考えてて楽しいのか?」


信じられないというような表情で聞いてくる彼に、どう返せばいいか分からなかった。別に好きで勉強しているわけではない。両親の期待に応えようと幼い頃からやってきたことだから、最早これは習慣だ。しかしそんな両親も今はもうこの世にはいない。そもそもどうしてそんなに父や母のために頑張ってきたのかも、今となっては思い出せない。それでも身体に染み付いてしまったものはいまさらどうしたって拭えないし、勉強していないと落ち着かないからやっている。ただそれだけだ。トップを取りたいのも自分の心のバランスを保つため。そんな人生楽しいかと聞かれても、私には分からない。答えあぐねている様子を見かねたのか、「悪ぃことじゃねぇけどよ」とエースが言った。


「でも、息抜きも必要と思うぜ」
「息抜きならしてるんだけどな」
「意外だな。どんな?」
「ここに来るのとか」
「ただの反省会だろ?」
「煮詰まったら得意な教科に切り替える、とか」
「そりゃ息抜きじゃねぇよ…」


エースはやれやれとでも言いたげに頭を左右に振る。どうやら彼の求める回答とは違ったようだ。ただこの方法も侮ってはいけない。意外と頭がすっきりして、さっきまで分からなかった問題があっという間に解けたりするのだから。それでもダメなときは、見たことも聞いたこともない異国の文字で書かれた文章を読んでみたりする。何が書いてあるのかなどさっぱりわからないが、わからなすぎるモノを目にすると人はどうやら一旦思考をやめるらしい。パソコンでいうところのシャットダウンというやつだろうか、その後再び問題を目にすることで電源は立ち上がり、頭はすっかりリセットされている状態で臨むことができる。テスト前に煮詰まっている全学生たちにオススメしたい。なんて、そんなことをしっかり説明し終わった私をみて、終始ぽかんとしていたエースが大声で笑い出した。


「わかった、あんた実はバカだろ」
「えっ…」
「まぁ天才とバカはなんとかって言うしなぁ」
「天才じゃぁないけど、馬鹿ではないと思う!」
「つれぇかもしれねぇが受け入れろ」
「エースより頭いいよ私ぜったい」
「確かに、俺ぁ勉強できないバカだけどな」
「じゃぁ私は馬鹿じゃないじゃん」
「あんたは息抜きできねぇ馬鹿だ」
「なにそれ」


面とむかってバカと言われたのは初めてで、ついムキになって返してしまった。息抜きできないバカってなんだ。バカに種類なんかあるのか。間違っても私はテストをサボるようなバカなことはしないぞ。授業はサボるけど、でも勉強はできているからそこは免責事項ということで。私とエースがくだらないことを言い合っている間にも時間は確実に過ぎていて、気がつけば校舎の真下では生徒たちがぞろぞろと校門を抜けて帰路へついていた。エースもそれに気づいたのか、笑いすぎて溜まった目尻の涙をぬぐい、柵から身体を離す。それからゆっくり伸びをしながら、そろそろ帰るか、と、独り言ともとれる呟きを漏らした。


「笑ったら腹減ったな」
「課題やんなきゃ」
「まーだ勉強すんのかよ」
「…いいでしょ別に」


エースと話していると本当に自分には勉強しかないんだと実感して、なんだか恥ずかしくなってくる。俯きながら返した声は思った以上に弱々しく、柔らかく流れる風と共に消えていった。ふいに、ごつごつとした固いものが頭に触れ、それは無造作に私の髪を掻き混ぜて離れていった。状況を飲み込むのに数秒かかり、やっと顔をあげたときにはエースはもう屋上の扉の前にいた。歩みをとめた彼はこちらを振り返り、あの白い歯をみせて無邪気に笑った。


「また明日ここでな、名前」


空は快晴。まさに、青天の霹靂である。