RAIN



前髪を右へ左へ、どちらに流してもなんだかしっくりこない。というか、鏡の中にいる自分がそもそも見慣れなくて違和感がある。普段しないメイクをする自分、服を選ぶのに時間がかかる自分、休日に男の子とふたりで出かける自分。いつもと違う私が、ここにいる。興味がないわけではないけれど、特に必要とする場面がなかったためメイクや服装の知識も技量も最低限しか持ち合わせていない。女として人として、エースといると自分がどれだけ未熟かを思い知らされる。どうにか参考動画なんかを見ながらだいぶ時間をかけて準備してみたものの、納得いかない。今日はひとりではないのだ。隣を歩く彼に恥をかかせてはいけないのはわかっているが、どれが正解なのかもわからない。あぁでもないこうでもないと試行錯誤しているうちに、無情にも家をでなければならない時間になってしまった。もう諦めるしかない。最後にもう一度だけ鏡を覗き込み、前髪を右に流し、昨日買ったばかりのピンクのリップをひいて部屋を出た。



ことの発端は三日前の水曜日、いつものように放課後の寄り道をして、最後にファミレスでご飯を食べているときだった。店までの通り道、たまたま通り掛かった映画館には始まったばかりの映画のポスターが大きく張り出されていた。ひとつはアクションもので、もうひとつはサスペンス。後者は好きで読んでいた小説を映画化したもので少し興味を引かれたけれど、その時は特にそれには触れずに歩きファミレスに入った。しばらくして、頼んだパスタを頬張りながら、エースが「なぁ」と口を開く。


「映画観にいかねぇ?」
「え」
「嫌か?」
「ううん、そうじゃないよ。私も気になるのあって」
「さっきの映画館のか?」
「あ、エースもみてたんだ」
「おう、面白そうだよな!」


もぐもぐと咀嚼し水と共に飲み込んで、あの白い歯を見せて笑う。感じていたことが同じだったことに驚きもあったけれど、それよりもなぜだかそのことを少し嬉しく思っている自分が自分で意外だった。しかしそれも束の間の話で終わる。


「私あのサスペンス小説好きで」
「やっぱ映画はアクションだろ!」


二人の声が重なり、え、と互いを見つめしばしの沈黙。徐々にエースの眉間にしわが寄る。恐らくきっと、私も同じ表情をしていたことだろう。


「アクションだよな」
「サスペンスでしょ」
「絶対アクション」
「絶対サスペンス」


ここ数ヶ月一緒にいてわかったことがあるのだが、エースも私も相当頑固だ。こうと言ったら譲らない。こうして意見がぶつかることも珍しくはないわけで、水曜日の放課後は何処へ行くのかなど些細なことで揉めては時にはゲームで、時にはクイズで決着をつけていた。そして今回も例外なく、映画の選択権をかけて勝負することとなったのだ。


「明日の英単語テストね」
「臨むところだ」
「小説貸してあげようか?」
「負けねぇっつーの!」


毎月一度ある全校生徒一斉の英単語テストでの勝負の結果は、私の圧勝で終わった。文字を追っている間に寝てしまうエースが暗記物に弱いのは心得ている。私の作戦勝ちと言ったところだろうか。リズムゲームで散々負け続けている腹いせも含まれていたが悪く思わないでもらいたい。こうして無事所望する映画をみれることになり浮かれていた私を悩みの底へ突き落としたのは、他でもない、エースからの提案だったのだ。


「来週の水曜日でいいよね?」
「それなんだけどよ」
「都合悪いならその次でも」
「土曜に行こうぜ、今週の」




念には念をいれ早めに家を出たおかげで、待ち合わせ場所には30分程余裕をもって着けそうだ。歩くペースを落とし、エースが来るまでどうしようか考えようとしたけれど、それは不要のようだった。視線の先、待ち合わせの駅のすぐ横で、電信柱に背中を預けて携帯を眺める彼を見つけた。駆け寄ると、気づいたエースが片手をあげていつもの笑顔で迎えてくれる。私服姿はなんだか新鮮だ。


「ごめん、遅くなって」
「いや、俺が早く着いちまっただけ」


時間あったから買っといた、と、二人分のチケットを人差し指と中指で挟んでひらひら揺らす。こういうのに慣れているんだろうか。準備がいい。慌ててチケット代を払おうと鞄をあさり始めた私の手を彼の手が上から覆い、柔らかに包まれる。


「飯、食い行こーぜ」
「あ、え、うん?」
「いい店あんだよ」


悪戯を思いついたような、無邪気な笑顔がすぐそこにある。ごく自然な流れで繋がれた手を優しく引っ張り私を誘導していく。すっかりエースのペースだ。流されるまま彼に着いて歩くが、じわじわと汗の滲む右手が気になって仕方ない。なんだか心なしか呼吸が早くなってるし、心臓のあたりがきゅう、と苦しい。手先はどんどん冷えていくのに汗ばむし、あまり気分がいいとは言えない状態だ。さっきまで普通だったのに、どうしてしまったんだろう。しかし狼狽えているところを気づかれてはいけないと、必死でエースの話に耳を傾ける。へえ、とか、うん、とか、最早相槌しか打てない私はロボットみたいだ。


「マキノー、来たぞ」
「いらっしゃい!」


そうこうしているうちに辿り着いたのは一軒のカフェだった。木造りで天井が高く、吊り下げられている照明がおしゃれだ。暖かなオレンジ色の光が店内を照らしている。女性客やカップルが多い。マキノと呼ばれた女性が初めまして、と笑いかけてくれたので、私は咄嗟に頭を下げた。


「あ、は、初めまして」
「ふふ、あなたのことエースから良く聞いてたの。会えて嬉しい」
「え、と、ありがとうございます…?」


なんと答えてよいか分からずついお礼を言ってしまった。ありがとうございますってなんだ。あたふたしている私を見てエースがくっと喉を鳴らして笑っている。笑ってないで助けてよ。下から睨むと、それに気づいた彼が「テキトーに座ってる」とマキノさんへ言い、私の肩に腕を回して店内の奥へ進み出した。距離が近い。身体の右側がぴったりとエースにくっついていて、そこがひどく熱い。踏み出す足がもつれて彼の足を踏んづけてしまいそうで、下を向いて歩くことに全神経を集中させる。漸く席にたどり着き座れた瞬間、私はやっと生きた心地がした。そんな私の気など知る由もなく、エースはメニュー表を広げてこちらに差し出す。並ぶパスタの写真を見たら急にお腹が空いてきた。


「マキノの作るパスタはうめぇぞ」
「エースはパスタが好きなんだね」
「そうか?あー、そうかも」
「ファミレスでもよく食べてるし」
「ここのは格別だぜ」
「オススメは?」


これとそれと、これ。あぁ、これもうめぇな!メニューのほとんどを指差す彼がおかしくて思わず吹き出す。あ、なんだ、私普通にできてるじゃないか。さっきのは一過性のものだったんだ。そう安心して、メニューの文字に目を走らせる。しかしこういうお洒落なお店に慣れていないため、名前を見ても何が何やら、味が想像できない。迷った挙句、エースが一番最初に指差したトマトベースのものを頼むことにした。彼はというとパスタとハンバーグとオムライスを頼んでいて、なんというか、どこまでもいつも通りのエースだ。そんな姿を見て私の肩からも力が抜けていく。注文してから程なくして運ばれてきた料理は彼のいう通り本当に美味しかった。食事の最後に頼んでいないはずのケーキがテーブルに置かれて驚いたけれど、カウンターの向こうにいるマキノさんが口の前で人差し指を立てていたのでありがたく頂いた。「女には甘ぇよなマキノは」とエースが子供みたいに口を尖らせていたのが少し可笑しかった。


「そろそろ出るか」
「もうそんな時間?」
「あぁ、30分後には始まる」


ゴツめの腕時計を覗きながらエースがいう。話に夢中で気がつかなかったけれど、ここへ来てから2時間が経っていた。椅子の背にかけた上着と鞄を手に取っている間にエースはさっさと立ち上がり、伝票を持ってレジへ歩いていく。急いで追いついたときにはすでに伝票はマキノさんの手へ渡っていて、彼女は慣れた手つきでレジを打つ。


「渡しといたので足りるか?」
「えぇ、大丈夫。はいお釣り」
「さんきゅー」
「……ちゃんとエスコートしてあげるのよ?」
「わぁってるよ!」
「また来てね、名前ちゃん」
「あ、はい、あの、すごく美味しかったです、ご馳走様でした!」


小さくお辞儀すると、マキノさんは綺麗に笑って手を振ってくれた。今度は一人で来てみよう。幼い頃からエースと知り合いだという彼女へ、彼がどんな幼少時代を過ごしていたのか聞いてみたい。そんな密か野望を抱いて、店を出た。


「よし、走るぞ!」
「えぇ?!」


デジャヴだ。財布を出そうと鞄に伸ばした私の手をかっさらい、大股で走っていく。そうなればもう、私は転ばないよう彼に着いて行くのに必死に足を動かすしかできない。ぐんぐんと通り過ぎていく街の景色。風を切る大きな背中から、ふわりとエースの香りが流れ込んできた。あ、まただ。なんだか胸が苦しい。痛みは伴わないこの現象はなんなのだろう。突然現れたり穏やかになったり、自分のことなのに対処法が分からない。エースに会ってから、今まで勉強して得た知識ではどうにも太刀打ちできないことばかりに遭遇する。


「はぁ、間に合ったな!」
「はっ、はぁっ、…うっ」
「お前体力ねぇなぁ」
「う、うるさ…っ、こんなの…むり…!」
「わりぃわりぃ。ちょっと休んでから中入るか」


ちっとも悪いと思ってない顔だ、アレは。むしろ楽しんでいるようにも見える。映画館のロビーのソファに腰掛け、荒い息がおさまるのを待つ。はぁふぅと何度か大きく深呼吸をして顔を上げると、向かいからエースがこちらに歩いてきていた。


「ほら」
「あ、りがとう」


目の前に立ち止まった彼から水の入ったペットボトルを受け取る。私が休んでいる間に買っていたようだ。よく気の回る人だなぁと感心しながら冷たいそれを数口飲んで口元から離す。キャップを閉めようとした瞬間に、彼の手によりそれは私の手中から引き抜かれた。そしてそのまま、エースはペットボトルに口をつける。それ、いま、私が飲んだやつ。人と飲み物をシェアしたのなんて初めてで、どういう顔でいたらいいのかわからない。行こうぜ、と声をかけられてから7番スクリーンに入り席に座るまで、エースの顔が見れなかった。


「だいぶ簡略化されてたけど、面白かった」
「あれ面白いか?」


映画が終わった頃には私も平静を取り戻していた。やはりというか、あの物語はエースには少し難解だったようだ。終わり方にスッキリしていないのかさっきからずっも微妙な表情で歩いている。まぁ私も原作を何度も読み返して漸く真相を理解できたようなものだから仕方がない。そんな中最後まで付き合わせてしまったことが勝負の結果とはいえ申し訳なくて、今日の夕飯は奢ろうなんて考えながら映画館の出口まで来た時だった。ガラスの向こうの街の様子をみて、私たちは立ち止まる。目の前に広がる光景はまさに豪雨。今朝あんなに晴れていたのは、幻だったのだろうか。


「すげぇ雨だな…」
「傘、持ってる?」
「持ってると思うか?俺が」
「…だよね」


そりゃそうだ。今日は一日晴れの予報だったのだから。タクシーを呼ぼうにも同じ考えの人が多くいるわけで、いつもロータリーに隙間なく並んでいるくせに今は1台すらいない。止むのを待つしかないかと隣をみると、彼は徐に腰に巻いていたパーカーの袖を解いていく。その手の行方をなんとなく目で追っていけば、私を見下ろすエースと視線がかち合う。彼がにやりと笑った。嫌な予感がする。


「とりあえず、駅まで走るか」
「…やっぱり」
「いつ止むかもわかんねぇし。時間勿体ねぇだろ」
「いや、それにしても」
「ほら、これかぶっとけよ」


腰から取ったパーカーを頭から被せられ視界が狭くなる。ずり落ちないよう抑える左手と、再び繋がれた右手。走るのは本当に嫌だけど、この手で感じる体温は嫌いじゃない。自動ドアを潜り、土砂降りの街を前に大きく息を吸った。信号が青になったのを確認して走り出す。ぎゅ、と目をつぶって下を向いて、エースに導かれるままひたすら走り続ける。これ今日何回目だろう。体育の授業がある日より運動してる気がする。普通以下の体力がどんどん削られていく。ペースが落ちたことに気づいたのか、もう少し頑張れ、とエースの声が聞こえた。


「おい、息できてるか」
「……な…なんとか…」
「お前にしては頑張ったじゃねぇか」
「…それは…どうも……」


返事をするのも一苦労だ。結局駅までは私が保たなかったため、途中にあるバス停の待合所に駆け込んだ。もういっそこのままバスに乗って駅まで行ってしまおうかと考えたが、ここに来るバスは今来た道を逆走していくようだった。世の中上手いこといかない。息を整えながら、被っていたパーカーを頭からずるりと降ろす。前髪の先からこぼれた雨水が額を伝いまつげに乗って、瞬きするたびにその滴が頬を滑り落ちていった。朝あんなにがんばったメイクも髪も、雨と湿気でなかったことになる。しかしここまで容赦なく台無しにされては、怒りを通り越して笑えてきた。


「びしょびしょだね」
「やっぱり止むまで待っときゃよかったな…」


悪い、と小さく頭を下げる彼に、これも思い出だよと返す。こんな状況になっても本当にそう思えてしまうのは、エースとだからだろう。柔らかい沈黙の中、雨の音だけが聞こえる。外から舞い込んできた肌寒い空気に誘われて、くしゃみがひとつ飛び出した。


「おい、風邪ひくなよ…?」 
「これでも丈夫なの」
「にしてもよ…」
「大丈夫だって」
「でもお前、…めちゃくちゃ冷てぇよ」


すぐ目の前に、私の顔を覗き込むエースがいる。顔周りに張り付いた髪をゆっくりと避けていく指が暖かい。身体の中がふつふつと沸いていく。自分の吐いた息がそのままエースに取り込まれそうで思わず呼吸を止めた。雨はまだ止んでいないはずなのに、もう何も聞こえなかった。頭の中がエースのことで埋め尽くされていく。思考をシャットアウトするように目を閉じた。左頬に添えられた大きな手のひらと唇から、冷えた身体に熱が広がっていく。