THIS IS LOVE



「名字……」
「…はい?」
「…体調でも、悪いか…?」


英語の先生が困惑している。その様子にハッとして黒板をみれば、解答が間違っている上にスペルも違う。慌てて消して正しいものを書こうとしたが、頭が真っ白になってしまいチョークを持ったまま固まってしまった。そんな私を見て、先生は控えめな声で「保健室行くか…?」と言った。



「名字さんが……間違えた…」
「事件だ…」
「何かあったのかな…」



一番後ろの自分の席へ戻る途中、クラスメイト達がこそこそとそんなことを言っていた。いや本当に、全くもってその通り。事件なのだ。事件が起きているのだ、私の中で。あの土曜日から、私の頭の中はバスの待合所で起こったことで占められている。思い出せば思い出すほど頭も心もぐちゃぐちゃになってしまうから考えたくないのに、学校にくれば嫌でもエースの姿を見つけてしまうし、家に帰れば彼がくれたゲームセンターの景品が部屋の至るところに飾られていて、エースという人の存在を知らしめる。



「……あら、今日も早いのね?」
「はい」



窺うように聞いてくる叔母さんの顔はなるべく見ないようにして、そそくさと玄関で靴を脱ぎ二階の自室へ急ぐ。居残りして勉強を続ける日が二、、三ヶ月続いていたのだ。それがぱったりとなくなり急に早い時間に帰ってくれば不思議に思うのは仕方がない。しかしあまりそこについて詮索されたくない。ホームルームが終わったあと、帰宅する生徒たちに紛れて姿を隠すようにして帰路につくのもこれで五日目を迎えているが、あれからエースとは話すことはおろか会ってもいない。居残っての勉強会を自主的に放棄しているのは私の方だった。彼がいつものように教室で勉強しているかどうかもわからないけれど、確認する勇気はない。もしかしたら彼は私を待っているかもしれないという罪悪感はあれど、こんな状態でエースと二人きりになってしまったら、前みたいに軽口をたたくいつも通りの私でいられる自信などなかったのだ。



「名前ちゃん、具合でも悪い?」
「大丈夫です、すみません、心配かけて」
「それは全然構わないのよ。ただ…」



ドアを挟んで背後からおばさんの声が聞こえる。少しの間をあけて、何かあれば相談にはのるからねと穏やかな口調で言い残し、トントンと優しい足音をたてながら階段を降りていった。目いっぱい息を吸い込んでゆっくり吐きながら、私はずるずるとその場に座り込む。相談。相談なんて、どうすればいいんだ。本当ならあったこと全部話して、私のこの胸の内をぐるぐる渦巻く何者かの正体を明かしてほしい。学校にいれば授業があるし、他の生徒もいる。そんな状況が僅かながらも私の思考を紛らわせてくれるのだが、部屋に入ってしまえば考えを遮断するものなど何ひとつない。嫌でもあの光景が何度もフラッシュバックして、その度に身体中が熱くなる。込み上げてくる名前の知らない感情に叫び出したい衝動に駆られるし、胸の奥は疼いて痛いし、エースのことを思うと泣きたくなるのだ。はぁもう嫌だ、誰か助けて。



「…誰かって、誰」



こんなこと相談できる相手なんていないしと、自分の所為なのを棚に上げて半ばいじけながらベッドに倒れ込んだ。その時、制服のポケットからするりと落っこちた長方形の機械。なんだ、そうだ、これがあるじゃないか。現代を生きる者たちの情報収集源がすぐそこに。佇まいを直し、思いつく限りの症状を並べて検索ボタンを押す。『動悸、吐き気、発熱』、数秒もしないうちに表示された検索結果は、循環器系の病名がずらりと羅列されていた。しっくりこなくてその後も単語や言い回しを変えて入力してみるも、やはり出てくるのは病気のことと受診をオススメする医師の言葉だった。調べれば調べるほどわけが分からなくなる。もう頭の中はぐるぐるのぐちゃぐちゃのごちゃごちゃで、もはや何も考えられなくなっていた。ため息をついて顔をあげれば、棚の上に座る小さな白熊のぬいぐるみと目が合う。オレンジ色のスカーフを巻いたそれは、一番最初にエースとゲームセンターへ行ったときもらったものだ。…あぁほら、また。エースのことを考えたら、あちこちおかしい。感情を揺さぶられるのがこんなにも不快だとは思わなかった。



「名前ちゃん、本当に…大丈夫?」
「大丈夫です」
「ここのところ殆ど食べてないわよ」
「今日は食べます」
「昨日も聞いたわ、それ」



休み明けの月曜日、朝の玄関。なかなか叔母さんは解放してくれない。いい加減出ないと遅刻しそうになったところで漸く根負けしたのか、彼女は深く長い息を吐いた。しかし「約束よ」と言ったときの眼光があまりにも鋭かったので、何が何でも今日は食べないと明日は学校へ行けないかもしれない。逃げるように外へ飛びだし、少し早歩きで学校へ向かう。当たりを見回し、続々と校門へ吸い込まれていく生徒たちに目を走らせる。どうか鉢合わせませんようにと、なるべく下を向いて教室へ急いだ。



「なぁ、エースのやつまただぜ」
「おいおいマジかよ」
「これで1週間突破だな」



入り口でたむろする男子生徒達の会話に思わず耳をそば立てた。また、とはなんのことだろうか。いや気にかけたところで私にできることなどないのだが。そう言い聞かせるもやはり気になるものは気になる。用もないのに携帯を取り出し、その場で操作しているふりをして男子生徒達に話に全集中力を注いだ。



「なに、また面白いことでもやってんの?」
「あいつ先週から放課後ずっとひとりで教室残って勉強してんだぜ」
「いやありゃどう見ても寝てるだけ…」
「どういう風の吹き回しだよ」
「さぁ。そんでそのまま朝迎えて、ホームルーム出たら帰ってまた登校してくんだよ」
「意味がわからん…」
「遅刻対策だってみんな言ってるぜ。泊まりゃ寝坊しねぇし」
「あれだな、あいつは頭が悪いな」
「言ってやるな。必死なんだって本人も」



携帯を持つ手が笑えるくらい震えている。ごめんなさいそれたぶん私のせいですと、誰に向けてかも分からない謝罪が頭に浮かぶが無理やりそれを打ち消した。私のせいじゃないかもしれない、単に自発的に勉強しようと思い立ったのかもしれない。彼は元々できる方の人間だし、ちゃんとやる気を出せば私に頼る必要などないわけだし、そう、そうなのかもしれない。思い込むことで落ち着かせようと何度も言い聞かせるも効果はない。足元も覚束ないままその場を漸く離れ自分の席に着く。頭の中ではただ、「どうして」と「どうしたらいい」が交互に飛び交っていた。



「あの、そろそろ閉めますけど」
「あ…すみません」



このセリフさっきも聞いたな。そう思いながら見上げた時計はすでに十九時をすぎていて、本来閉める時間より一時間もオーバーしている。道理で図書委員の目つきも悪いわけだ。慌てて図書室を出て、階段を降りきったところでぴたりと足は止まってしまった。ここを右に行けば私の教室。左に行ったらエースの教室がある。もし朝にあの男子生徒たちが言っていたことが本当だったとして、そして今日もまたそれが実行されているとしたら、きっと彼はまだいる。どうしよう。勉強のための居残りなのか、私が来るのを待っているのか。真相がそのどちらであったら、私はこの嫌な緊張感から解放されるのだろう。そして彼に会った時、なんと言えばいいのだろう。なかったことにしたらいいのか、あの行動の真意を問いただすべきか。問いただしてその先は。問題は山積みなのに、なに一つ解答を持ち合わせていない。こんな状態でエースに会ったところで意味はあるのだろうか。会えない言い訳なら沢山思いつくのに、会うための口実はなにも思い浮かばない。それでも、理由のない「会いたい」が心の半分以上を占めているのはどういうわけなのか。どうしようと困惑したまま、ゆっくりと左方向へ歩みを進めていた。呼吸が浅く短くなっていく。足も手も震え始めた。教室の前で立ち止まり、微かに開いている扉の隙間から中を除けば、燃えるような夕焼けの赤に照らされた彼が、そこにいた。ポケットに手を入れ、足を前に投げ出して椅子に座り窓の方を向いている。ほんとに、いた。そこにエースがいる。今更我に返りどくどくと心臓が暴れ出す。思わず一歩後ろに下がると、上履きが廊下に擦れ、きゅっとゴムが音を鳴らした。瞬間、まずい、と思った。でももう遅い。教室と廊下を隔てる扉のたった数センチの切れ目を通して、私たちは互いの目に互いをうつした。



「やっと来たな」



低く掠れた声に肩が震えて、もう逃げられないなと悟った。観念して扉を開ける。教室に足を踏み入れて二、三歩進んで歩みを止めた。顔もまともに見られないし、そこにエースがいると思うと緊張で頭がうまく回らない。これ以上は近づけない。私は俯いたまま、どうにか話す言葉を探す。屋上で出会ったあの日みたいだ。見つけた言葉はどうにも情けない三文字だったけれど、なにも無いよりいいかと拾い上げた。



「……ごめ」
「悪かった!」



勢いよく飛んできた言葉に反射的に顔を上げた。目の前には、数歩分の間を空けて、こちらに真っ直ぐ頭を下げるエースがいる。なにに対しての謝罪か上手く飲み込めず、私は思わず間抜けな声で聞き返す。



「え、と、何が……?」
「だから……アレだよ。嫌だったんだろ……本当に悪かった」



言われてすぐに思いつく。アレとは十中八九、あの待合所でのことだろう。緊張ですっかり抜け落ちていた光景が再び鮮明に脳内を駆け巡り、胸の奥がずくずくと疼き出した。



「い、嫌っていうか、あの、びっくりして…ていうか、顔あげて」



自分で言っておいてなんだが、今度は私が俯く番だった。どんな顔をエースに向けるのが正解なのか分からなくて、唇を引き結んで両手をぎゅっと握り締めた。沈黙が続く。いつもはエースがリードしてくれた。その彼がなにも言わないのは、きっと私からの言葉を待っているからだ。絞り出した声はほぼ空気で、想像以上に弱々しかった。



「私も、ごめん…あぁいうの、初めてで、混乱して……」
「……あぁでもしねぇと、意識してもらえねぇと思って」
「意識、って」
「俺のこと、男として意識してなかっただろ」
「私が、エースを、ってこと…?」
「他に誰がいんだよ」
「だって…、なんでそんな、私なんかに」
「…好きだからだよ。悪ぃか」



半ば不貞腐れ気味に放たれた言葉に一瞬思考が飛んだ。それからじわじわとその意味が浸透していく。そうして気づく、覚えのある感覚。内側から急激に熱くなっていく身体。息もうまくできなくて、心臓の音だけがやけにうるさい。あの日、待ち合わせしてから何度もこんな状況に陥った。そうか、あれは偶然のことでも気のせいのものでもなかった。ただ自分には起こり得ない、縁のないことだと初めから切り捨てていたのだから、そんな単純な答えに辿り着けなかった。でも、今わかった。エースが言ってくれた言葉が答えだ。きっと、空に浮かぶ雲みたいな白い歯を見せて笑ってくれたあの日から、私は



「……私も、好き」
「……は」
「……かも」
「はぁ?!かもってお前……あーいや、待て、それより、本当か」
「……ほんとう、か」
「かもはナシだ!」
「だ、だって私も今気づいたんだもん!」



言い返して、ようやく目があった。けれどそれも一瞬で、大股でこちらに近づいてきたエースに腕を引かれ懐に仕舞い込まれた。待合所でほのかに香った匂いに包まれている。人ってこんなに温かいんだと、少し汗ばむ気温の中で思った。



「まぁぶっちゃけ賭けだったけどな」
「…やり方が無茶苦茶すぎる」
「お前のおかげだぜ?勉強教えてもらって頭よくなったから閃いたんだ」
「こういうことは教えてない」
「応用だろ」
「基礎だって教えた覚えないよ…」



互いを抱きしめたまま言い合いしていると、不意に体が離れていく。すっかり暗くなった教室でも、エースがあの白い歯を見せて笑ったのはしっかり見えた。



「さて」
「な、なに?」
「散々待ちぼうけさせられたからな、詫びはしてもらうぜ」
「……怖い」
「怖いことなんてねぇよ。復習だ復習、得意だろ?」
「なんの」
「あん時のやり直し」



やっぱり碌でもないことだった。そう思うのに嫌と感じない私も碌でもない。エースの顔が近づいてくる。目をゆっくりと閉じる。置き場のわからない両手は彼の胸元において制服を掴んだ。あの日と同じ、エースの呼吸を感じて息を止める。腰に回された手が身体を引き寄せ、私たちの間に距離がなくなった。二回目のキスは初めてよりずっと長くて、熱くて、幸福感で満たされる。これを好きと言わずなんというのか。「かも」だなんて白々しいにも程がある。

紛れもなく、私は彼に恋をしているのだ。