5minutes

私たち二人にしては早い時間に起きた。朝陽がまだ低い位置でぐずぐずと足踏みをしている最中だ。寝たのは数時間前だというにも関わらず、私の頭は随分冴えている。半袖短パンでいるには寒い時期になった。私はとっくに上下とも長いスウェットに衣替えしていたけれど、彼はぎりぎりまでその肌をさらして眠りについていた。でもそれもようやく、先週から季節に見合った格好になった。とはいえまだまだ生地は薄手だけれど。大きなマグカップにコーヒーを淹れて戻ってきた彼が、「さみぃー」と言いながら私の隣に座る。背もたれにしているベッドから毛布を引きずりおろし、私もろともぐるっと一纏めに包んだ。


「あぁ〜、あったけぇ」
「私は寒いよ、あんまり近寄らないで」
「ひでぇ!折角コーヒー淹れてきてやったのに」


冷えた空気を纏っている彼は全体的にひんやりしている。それに私は身体をぶるりと震わせて、しつこく絡んでくる冷えた裸足を必死に追いやっていた。


「なぁエアコンつけよーぜ」
「だめ、少しでもこの朝の新鮮な空気を吸い込みたいの」
「これ、身体はあったけぇけど顔がさみぃよ」


特に鼻が、と最後に付け加えた彼は、それを主張するかのように鼻を啜った。袖の中に隠していた手を毛布の隙間から出して、あまり血色のよくないその鼻をつまむ。確かに、本当に冷たい。空気穴を潰してしまわないように気をつけて親指と人差し指で挟んでいると、彼は「これ、いいな」と笑った。


「しかしこうして見ると、なんか寂しいなぁ」
「がらんとしてるよね」
「ここってこんな広かったんだって思った」
「そうだよ、光太郎が大きすぎるから狭く感じただけで」


必要最低限の家具だけが置かれた部屋を見回した。ベッドとテーブル以外の家具は、二人で借りているレンタルスペースに預けている。カーペットをしまったのは失敗だった。恐らく敷物があるのと無いのとでは、体感温度も変わっていたはずなのに。もう少し温かい時期にしたかったなぁと思うけれど、こればかりはタイミングというものだから、仕方がないことなのだ。


「俺ここ来て何年?」
「…四年、くらい?」
「そんなん経つんだ」
「あっという間だったねぇ」


当時私たちは大学4年で、付き合って5年目を迎えようとしていた。就活にまつわる色々で体力的にも精神的にも大きく削られていく毎日で、会えないことがさらにストレスになっていた。辛い、と先に根をあげたのが私だ。そしてその翌日、彼はほんの少しの洋服と学校で必要な道具だけを持ってうちに来た。それが、始まりだ。月日を追うごとに彼の私物が私の部屋を飾っていった。くたくたになって帰ったら、具が肉のみの焼きソバで出迎えてくれたこともある。彼が遅くに帰ったときは私が夕飯を作って待っていたけれど、食卓を見るや否や目を輝かせ元気になる彼に、やはり私も元気になった。私がこうして無事に社会人となり働けているのは、彼がいたからだ。それだけではない。付き合い始めた高校生の頃、あるいはその前、初めて存在を知った中学生のときから、私は彼に支えられて生きてきたのだ。ひとつ、ふたつ、指を折り曲げてその年数をカウントする。右手、左手、そしてまた右手。私たちの付き合いはどうやら今年で、十四年目だそうだ。


「まじかー!すげー!」
「って言っても、中学のときは殆ど絡んでないもんね」
「中三で初めて同じクラスになったんだよな」
「えっ、覚えてるの」
「なんだそのリアクション」
「朝言ったことは忘れるのに」
「あーあー悪かったな!」


がん、と勢いよく彼の頭が降ってきた。割と痛い。斜めになった身体に倣い、首にかかっているチェーンを指輪が流れる。私の右手薬指に嵌められているものと同じものだ。彼の鎖骨より少し下の位置で静止したその銀色を見つめた。買ったのは社会人になった最初のクリスマスだっただろうか。恋人同士という証明のような安っぽいこれも、もうその役目を終える。そこまで年数を過ごしたわけではないこの指輪は、そう思うとなんだかものすごく古いもののように思えた。


「でも今日はこれ、忘れなかったね」
「おー」


テーブルに置かれたヘッドフォンに視線をうつして、そう言った。彼が高校のときから愛用していたヘッドフォンだ。長すぎるコードはもうよれよれになっている。


「大分年代ものだね」
「当たり前だろ、十年前だし!」
「うわぁ、数字にするとなんか歳感じる」


けたけたと笑いながら、手を伸ばしヘッドフォンを掴んだ。彼がこれを買ったのは高二の秋に差し掛かったころ、学園祭の一週間前だったと言う。同じクラスだった私はその日、友人たちと好きな歌手の話をしていたらしいのだが、そのことは今もよく思い出せない。けれど現在も変わらず好きなアーティストのとある曲についてを当時も興奮気味に語ってようで、「この曲で告白されたら即オッケーする」と豪語していたのだそうだ。彼はそれを聞いていた。そして、その日の帰りにこのヘッドフォンを買ったのだ。その曲を聴いて、覚えて、私に向かって歌うために。一週間、暇さえあれば聴いていたらしい。何回でも何十回でも、繰り返し。家で練習してたら母親に「百点やるからもうやめな」と白い目を向けられたという話は結構好きだ。


「でもお前、なんであの曲なんだよ」
「わかんないけど、好きなんだもん」
「いや良い曲だけど、失恋ソングじゃん」


そう、私が告白として歌ってほしいと熱弁していた曲は失恋の歌なのだ。だんだんと近づいてくる別れに対する寂しさと、訪れた別れの哀しみをひたすらメロディに乗せて詠っているわけだが、なぜか、曲調も伴奏もアーティストの声も、悲壮感よりも暖かみが溢れていて、胸が震えた。そして見事、彼は学園祭の打ち上げで行ったカラオケでその曲を完璧に歌い上げ、私は宣言どおり受け入れた。これから始まろうとしている二人を繋げたのが別れの曲とは、なんともおかしな話で笑ってしまうのも無理はない。当の私たちでさえ、確かに意味が分からないねと思い出しては笑うのだから。


「そんで、また始まりって時にこれ聴くんだもんなぁ」
「まぁいいじゃない。私たちにはこれがもう始まりの歌なんだよ」


そういって、携帯のイヤホンジャックにプラグを差し込み、ヘッドフォンを膝に乗せた。始まりの歌。明日には引越し屋がきて、この部屋との別れがやってくる。それは同時に、私たちの新しい生活の始まりも意味していた。私たちの温度や笑い声、時々零した涙とか愚痴が染み込んだこの部屋を誰にも渡したくない気もしている。それでもきっと、手放してしまえばいつかはそんな思いも消えていくのだろう。別れなんていうのはそういうものなんだと、信じたい。


「じゃぁ、かけるぞ」
「うん」


私はヘッドフォンをセットする。くたびれたクッションに柔らかさは殆どなく、普段使っているイヤフォンより数倍荒い音が聞こえてくる。けれど耳を通る音楽は劣化などしていなかった。あのときのまま、暖かい音符が流れ込んでくる。私は目を閉じた。心も閉じて、ただ無心にその歌を聴いた。膝を曲げ、きつくきつく抱え込む。最初のサビに差し掛かるころ、髪の毛越しに温かく優しい熱が触れた。手とはまた違う、もっとふくよかな感触。それが離れていくと同時に上げたくなる顔を必死に抑えた。まだ、まだ。まだ上げてはいけない。この曲を聴き終えるまで顔を上げてはいけない。そういう、約束だ。息をも殺してただ歌の終わりを待つ。永遠に続けばいいと思うのに、これは五分と数秒ぽっちの時間しか流れない。そしてその五分が、もうすぐそこに来ていた。


リピートにしていってよ。


私の願いは聞き入れられず、ギリギリまで粘っていたギターの音が消え、無音が広がった。終わった。あんなに高らかに、熱をこめ、大事に大切に歌っていたのに、終わりはなんともあっさりしているなぁといつも思う。でも、それでいいのかもしれない。だからこそいいものだったと思えるのかもしれない。膝に乗せていた頭をあげる。ゆっくり、時間をかけてあげる。差し込む光に目を慣らしながら、静かに、丁寧に。見えるのは、私の部屋だ。先程までと変わらない、私の部屋。寂しくなった部屋。明日には使わなくなる部屋。隣にいた温もりはもういない。これから先、ずっと。私たちはこれでいい。話し合いも、言葉も、なにもいらない。テーブルには、曲を流していた私の携帯電話と、彼の首にぶら下がっていた指輪が置いてあった。