序章
『鬼』という存在をご存知だろうか。
悪行を働く邪悪な魔性の化生。恐ろしい姿で人に害を為す厄災。
人によってさまざまな見解があり、基本的に悪者として物語では退治される。
だが、悪ではない鬼もいるのだと知ってほしい。
たとえ打算が始まりでも、一途で愛情深い心を持つ鬼もいるのだと。
「華圭」
低くもよく通る、心地良い男の声が耳に届く。
満開の桜を一望できる和風屋敷の二階で読書していた華圭は本を閉じて見上げる。
そこには見目麗しい男が悠然と歩いて来た。
繊細な漆黒の髪。色気が漂う怜悧な切れ目。男らしい肩幅に、引き締まった体躯。
黒地の着物。襟の白い毛皮、金と赤で亀甲紋を裾に描いた黒い打掛。
妖艶で眉目秀麗な美男だが、人間ではない。
白目の部位は黒く、金色の光が宿る真紅の瞳。
そして、額に生える二本の角。
物語に登場する「鬼」という妖怪だが、ただの鬼ではない。
「なぁに?」
「お前の花をくれ」
隣に片膝をついた鬼は、華圭の頬に触れて願う。
この場で差し出すのは恥ずかしいけれど、彼が望むのなら致し方ない。
「どれくらい欲しいの?」
そう言って黒地に淡い紅色の桜を描いた着物の襟に手をかける。
すると、鬼は慌てた様子で華圭を抱き上げた。
「わっ」
「ここで渡そうとするな。見られたらどうする」
咎める声に「うっ」と押し黙る。
羞恥はあるけれど、確かに恥じらいが足りなかった。
運ばれた先は、彼の部屋。
絢爛ながら落ち着きのある調度品に、身体が沈むほど柔らかな座具。奥には重厚な質感の箪笥、紗の幕が垂れる天蓋付きの寝台。
寝台に置かれた弾力のあるクッションに下ろされると、華圭の襟元を開く。
自ら脱ぐのは構わないが、異性にされると緊張と羞恥が込み上げるのは仕方ない。
「ここで恥ずかしがるか」
「……自分からならまだしも、貴方にされるのは……緊張するから」
すぼみそうな声でなんとか言うと、鬼は華圭の頤を掴んで持ち上げる。
無理やりでいて優しく目線を合わせられ、鋭い視線に射貫かれる。
「名を」
どこか切なさを帯びた眼差しに肌が粟立つ。
悪寒に似た痺れが奔り、込み上げる羞恥から目頭が熱くなる。
「……魁」
掠れた声で囁けば、鬼――魁は色香のしたたる笑みを浮かべた。
「華圭、お前の花が欲しい」
頤から頬に武骨ながら綺麗な手を這わせて強請られる。
いつもながら、このやり取りは心臓に悪い。
華圭は緩められた着物を開く。露になった白い肌には、白に近い淡い紅色の花が房を作って咲いていた。
――桜。日本全土に分布する花木の一つ。
どうして身体に花が咲くのか。どうして徒人には視えず、人ならざるものや特殊な人間のみ視えて匂いを感じられるのか不思議だった。
これは、とある女神の祝福。
そして、人外の花嫁の資格を持つ証。
谷間を除く胸と腹部に咲く桜を自ら摘み取って渡す。
すると魁は、花の匂いを堪能しながら食した。
曰く、華圭の桜は上品な香りと甘さで、極上の霊力が秘められているらしい。
だから多くの異形が躍起になって狙ってきたのだと聞いた時はゾッと背筋が凍った。
「やはり華圭の花は格別だ」
「よかったぁ」
魁の満足げな笑みに安堵して、華圭も柔和な笑顔が浮かぶ。
途端に魁が真顔に変わったけれど、よくある反応だ。
着物を着直そうとしたら、魁にその手を掴まれる。
「魁?」
「なに、礼をやらねばなるまい」
お礼と言いながら、綺麗な微笑とは裏腹に瞳には欲が宿っていた。
(今、真っ昼間なんですけど……)
流されるのは良くないが、魁が相手だとどうしても抗えない。
諦めて受け入れようと目を伏せ――
「鬼神様」
唇が合わさろうとした刹那、部屋の外から声がかかった。
「三妖傑が一角、天狐の聖様がお見えになりました。どうぞ謁見の間へお越しください」
官吏の言葉に、魁は不機嫌を隠そうとせず舌打ち。
助かったと内心で安心すると、魁は華圭の額に口付けを落とす。
軽やかな音と甘い吐息がかかり、カッと頬に熱が宿る。
「今夜は覚悟していろ」
そう言って、魁は部屋から出た。
一人きりになって、寄りかかれるほど大きな枕に体を沈めて深く息を吐く。
「心臓に悪すぎるよ、もう……」
胸に咲く桜の花弁に触れて、そっと目を閉じてぼやくのだった。
これは、その身に花を咲かせる少女達が、異形の者に見初められ、幸せになる物語。