「さっむいですねえ」
「ああ、全くだな。今日は寒すぎる」
ジャージの襟をかき寄せ、俺ははあっと息を吐いた。白い。午後6時。既に辺りは暗くなっていた。俺は東堂さんと一緒に山を登り、一旦学校まで戻ってきた。ハリガネのようなバイクを二人並んで押しながら、東堂さんはペラペラと言葉を継ぐ。もうすぐ雪が降るだろうとか、女子の人気がどうとか、あそこでは思い切りペダル踏めとかね。部を引退してからも東堂さんは、ちょくちょく練習に顔を出してくれる。俺はまだこれから部室でローラーを回さなければならない。いつもの練習メニュー、いつもの光景。ふと違和に気付いたのは、なぜか東堂さんではなく、俺だった。
「……先輩?」
自転車部の部室の入り口に、制服姿の女の子が立っている。別に、それは珍しいことではない、差し入れなどを持って来てくれる子はたくさんいる。
最初の違和感。その女の子は、この寒空の下、どういうわけか半袖の夏服を着ていた。ペラペラの薄い生地のセーラー服。俺はギョッとして彼女を見つめた。そして、もっと重大な問題に気付いた。彼女は、
「ん、なんだ?」
東堂さんは、俺が東堂さんを呼んだものと思って、くるりと俺の方を見た。俺は部室の方を指差した。東堂さんは、それに促されて視線をやり、それからもう一度、俺を見た。
「部室がどうした?」
東堂さんには見えないらしいその女の子。見えなくても無理はないのかもしれない、と、俺は思った。だってなまえ先輩は、死んでいるから。

「へえ、ユーレイって本当にいるんですねえ」
午後10時を回った部室には、もう俺しか残っていなかった。黒田さんに、ンで真波が残ってんだ、いつも一目散に帰るだろ、と不思議がられ、泉田さんに、部室の施錠を頼まれた。確かに一番の遅番は初めてだなあ。
ただ、俺の前のベンチにちょこんと座るみょうじさん。彼女を含めたら、ホントのホントに一番の遅番ではなくなる。
「先輩、大丈夫?」
さっきから浮かない顔をしていたみょうじさんは、すっと顔を上げて俺を見た。顔色が悪い、と言えばいいのだろうか、ものすごく青ざめて見える。ユーレイだから?
「真波」
静かな声で、みょうじさんは確かに俺を呼んだ。そうだーー俺はそれで、俺がみょうじさんの声を危うく忘れかけていたことを、初めて知った。
「何?」
みょうじさんは、その血の気の引いた顔で、目を細め、微笑を湛えた。
「元気だった?」
思いもよらない質問に、俺は思わず笑ってしまった。
「んー、まあまあかなあ」
「まあまあかあ。それならよかった」
「みょうじさんは?」
「私?」彼女は再び口角を上げた。「死んじゃったからね」
みょうじさんはケロッとそう言ってのけた。昨日の夕ご飯、食べ損ねちゃったんだよね、みたいなテンションで、自分の死についてはっきりと肯定して見せた。
俺の目の前にいるこの女の子は、確かに死んでいるらしかったーー俺の記憶がおかしいわけでも、彼女の認識が誤っているわけでもなく。
俺は自然と、身を乗り出す。
「自覚してるもんなんですね」
「そうだね」
「なんで俺なんです」
みょうじさんは、フッと微笑んだ。そう、この人は、よく笑う人だった……。

みょうじさんは俺よりふたつ年上の先輩だ。つまり、福富さん達と同じ学年だった。
東堂さんとは昔からの知り合いらしく、俺が入部した頃から二人がよく一緒にいるところを目にした。俺も何度か話をしたことがあった。こいつは俺の幼馴染のなまえだ! 東堂さんは、大きな声でみょうじさんを紹介してくれた。声デカイ、ウザくない、こんなセンパイ。みょうじさんは東堂さんを指差し、あからさまに嫌そうな顔をした後、俺を見てニヤリとした。
東堂さんと、その止まらないトークを上手くあしらうみょうじさんは、なんて言うかいいコンビだった。付き合いが長いというだけあって、阿吽の呼吸めいたものがあった。場を盛り上げて笑い、東堂さんをいじり倒して笑い、あっけらかんとした人だった。
みょうじさんは、体が丈夫な方ではなかったらしかった。よく辛そうに咳をしていたし、半袖の制服から伸びる腕は、日の光を浴びたことがないかのような白さだった。彼女は、だんだん学校を休みがちになり、インハイが終わった一ヶ月後に、肺の病気でこの世を去った。
俺がみょうじなまえについて知ってることは、たったこれだけ。

今、何故か俺の目前にいるみょうじさんは、真っ直ぐに俺を見た。まるで死人とは思えないような力強い目だった。
「真波に取り憑いて、東堂と山登ろうと思ってさ」
俺が目をパチクリさせると、彼女はプッと吹き出した。
「なんてね。ビビった?」
「ううん」
今度はみょうじさんが目を瞬かせた。俺は思ったことを正直に言った。
「本気なら、いいよ。あなたなら」
彼女は目を見開いた。
みょうじさんは生前、東堂さんのことを、尽八と呼んでいた。しかし、俺や、自転車部の他のメンバーの前で東堂さんの話をする時は、彼のことを東堂と呼んだ。
みょうじさんは、東堂さんのことが好きなんだと思っていた。
「ごめん。嘘だよ。大丈夫。ほんと、ごめん」
「謝らないでください」
俺は手を伸ばし、みょうじさんの頬に触れようとした。しかし俺の手は宙を彷徨い、ついに触れられなかった。俺の眼に映るみょうじさんには、まるで質量が存在していなかった。
「真波」
「何?」
「真波はね、見ていて危ないんだよ。怖い。なんだかこっちに来そうって、思える……」
死は、いつも俺のそばにいる。自転車に乗っている時、俺は死というものを感じる。それはつまり、俺が今生きていることを裏付けてくれる。
「私があなたを選んだんじゃない。あなたが私を呼んだんだよ」
みょうじさんはそう呟いた。

みょうじさんのお葬式の日、東堂さんは学校を休んだ。俺はなんとなく、式には出席せず、いつも通り部活に参加して、いつもよりペダルを回しまくった。その日は残暑の残る9月にしては肌寒く、小雨が一日中降っていた。
登坂のメニューを終え、部室まで戻る道の途中で、寮へ帰るところの東堂さんを見かけた。
しとしと降り続く小雨を遮るための黒い傘を差し、カチューシャも外した彼は、なんだかまるで別人のように見えた。普段なら着崩しまくって着る制服も、規定通りに身に付けていた。俺は自転車に跨ったまま、地面に足をつき、東堂さんの後ろ姿を見つめた。声を掛けるべきではないと思い、踵を返そうとしたその時、東堂さんは歩みを止め、こちらをゆっくり振り返った。よお、真波。彼は努めて明るく、普段通りのように、そう言った。
その時、俺は東堂さんと何を話したか、あまり覚えていない。泣き腫らしたその目元が、痛々しかった。

「俺ね、あなた方ふたり、いつか結婚するものと思ってましたよ」
「どうして」
「どうしてって、どうして?」
なぜ、とぼけるのかなあ。
「東堂さんとあなたが」
俺はもう一度、みょうじさんの方へ手を伸ばした。
「それを望んでいたからです」
彼女の頬に触れられないことは分かっていた。俺が瞬きをして、次に目を開けた時、みょうじさんの姿はもうそこにはないことすら、俺は分かっていた。

back