Kiss me darling!
「新開隼人」
「おう」
「新開くん」
「ん」
「隼人くん」
「はいはい」
「はーくん」
「なんだァ」
「ちゅー、しよっか」
「...はい?」
お嬢さん方見ましたか。箱学一、二を争う色男・新開隼人のポカン顔。いっつも余裕綽綽の笑みを称える口はぽっかりと大きく開かれ、垂れ目がまん丸に見開かれている。ついでに銜えられていたパワーバー(チョコレート味)がポロリと落ちて、隼人が読んでいた雑誌の上に着地した。覗いた見開きにはでかでかと『ロードバイク乗りのための・自転車力向上のススメ』だなんていう見出し。自転車力ってなんだ、自転車力って。女子でいう女子力みたいなものだろうか。自転車乗りの思考は、彼ら以外の人間にとってはあまり良く分からないモノである。
このまま自転車力とやらに突っ込み続けてもいいけれど、まずは硬直したままの隼人を我に戻す事から始めることにしよう。
「隼人、生きてるー?」
「お、おう。生きてる。なんだおめさん、冗談かよ」
「いや?マジマジ」
「マジか」
再びフリーズ。しかも今度は固まる前にハハハ、なんて乾いた笑いを零した。完全に目が泳いでいたし。ふーん。へーえ。そうか、そっちがその気ならこっちにだって考えがある。
「隼人くん、聞いて」
「うっ」
ゴロゴロと我がもの顔で転がっていたベッドから降りて、颯爽とポジショニングオーケイ。ベッドに背を預けて座る隼人の左隣、少しだけ斜めの膝がくっつく程の位置。長年の付き合いからコイツが弱い位置取りと切り出し方は完璧に承知済みである。お陰で何度窮地を救われただろう。隼人くん聞いて宿題が終わらない、隼人くん聞いて母さんの大事にしてたティーカップ割っちゃった。過去に聞いてと切り出して、彼に頼り切ること星の数。
「私って、隼人くんの何かな」
「おっ、幼馴染みかな」
「そうだねいつもありがと。それで?」
「え?」
「ふーん、隼人くんにとって私はただの幼馴染みっすかそうっすか」
「いや、うん。まあアレだ。名前は俺の彼女だよな」
「そうだねこの前やっとくっつけたね」
よしよし、いい感じに追い詰まっているな、隼人め。
その証拠に膝の上に広げていた「月刊サイクル人」は早々に閉じられて脇に置かれているし、だらし無く崩されていた両足は綺麗に正座のカタチをとった。握り拳を太ももの上に置いて、デカイ図体を縮こまらせてこちらを伺ってくる隼人は、ここだけの話かなり可愛い。長年の付き合いも相まって、照れくさくてそんなことを言えやしないけれど。
人当たりが良くてさり気ない気遣いがピカイチ、だなんていうのは一般的なハコガク生の彼に対する評価だけれど、幼馴染みの私からしてみればコイツは結構横柄だ。面倒くさがりだし、思った事を明け透けなくズケズケ言うし、なんて。
だけど私は、幼馴染み特権でしか知りえないそんな等身大の新開隼人に恋した。まるで息をするみたいに、当たり前に。
だってそうだ、見た目も同級生の中ではトップレベルな上に、私の事を誰よりも理解していて一番近い男の子、ときたらそりゃあ好きにならない方が無理があるというもの。
まあそんな好青年の仮面を放り投げて接してくれる隼人と、人生の9割以上を共に過ごした「幼馴染み」という枠組みを越え、恋人としての関係を築くまでには並々ならぬ努力と苦労があったわけだけれど。その話はまたの機会にでも。
とにかく今は押せ押せだ。恋する乙女のしたたかさを舐めてはいけない。
「やっぱりさ、無理だよね。今までずっと幼馴染みだったし、いきなり恋人らしいことしようなんて私が我が儘だね。ごめん隼人くん」
押せ押せと言いつつ言葉の上では引いているのも作戦の一つ。ついでに睫毛を瞬かせて目を伏せるのもポイント。ダメ押しに隼人の膝に手を置いてみる。手が触れた瞬間にびくりと身体を震わせた隼人の表情をのぞき見たいのはヤマヤマだけどここは我慢。我慢だ苗字名前。
ぐっと衝動を抑えていたら「違うんだ、名前」なんてちょっと焦った隼人の声。オーケイ、作戦は上々だ。
「何?」
「ちゃんと好きだよ、おめさんのこと。でもさあやっぱ恥ずかしいっつか。今までの事とか、あるじゃねぇか」
「そだね、だからもういいってば」
総仕上げに拗ねた声を出して、すっと身を離す。完璧だ、完璧すぎるよ流石は私。ここまでダメ押しにダメ押しを重ねて、隼人が落ちない訳がない。幼馴染みとして過ごした十数年も、決して無駄でなかったという事だ。
「聞けって」
「わ」
脳内シミュレーションによれば、このまま私は隼人のベッドに舞い戻って拗ねたふりを続行。暫くして折れた隼人が「これでいいんだろ」なんて不服そうに漏らしながら優しくキス、だった。流れは完璧に出来上がっていたのに、それを他でもない隼人の手が遮った。
男の、しかもスポーツをやっているものの力に適うはずもない。引っ張られるままに隼人の太腿に乗り上げた。さっきまで正座で縮まっていたくせに、今は悠々と足を伸ばしちゃって、お腹の辺りに片腕が回される。突然距離がゼロになって、背中には隼人の体温と、硬い筋肉の感触。予想外の展開にジタバタと腕を振り隼人の拘束から逃れようと試みた。
「あーもう、知らねえからな」
首筋に当たる息が擽ったくて、限界まで背けていた顔に大きな手のひらが伸びる。お腹に回る腕はそのままだからそれを避けられるはずもなく、私の顎はいとも容易く捕らえられた。
ぐりん、と勢い良く向きを変えられ、首が痛いと文句を言おうとした唇からは声は出ず。―――否、奪われた。
ふにふにと押し付けるようにして唇を撫でていた隼人のそれに閉じる間もなかった目を瞬かせていると、私を見据える大きな二つの目に視線までも捕まえられる。あ、目だけで笑ったと呆然と思ったのも束の間で、優しく触れるだけのキスが形を変えた。痛いくらいに食まれた下唇に思わず声を漏らすと、開いた隙間からぬるりと柔らかいモノが押し込まれる。奥で縮こまっていた舌も、上顎も、歯列も、全部全部余すところなく蹂躙されて、やっと解放された時には完全に息が上がってしまっていた。
情けなく眉根を下げて、滲む涙も拭えずに目の前の隼人を見つめる。あれ、なんで、こんなの知らない。ぺろりと肉厚の唇を舐めずって、片頬を上げる挑戦的な笑みを浮かべたコイツは誰だ。幼馴染みの新開隼人でも、新しく恋人になった新開隼人でも、どれでもない雄の顔をした、この男は。
「あのさぁ、逆に聞くけど。今まで幼馴染みの顔してた奴にいきなり迫られて、おめさん平気?男っ気なくて、耐性皆無で、初心な名前ちゃんは耐えきれんのかな」
「え、はや、ちょっとまって隼人」
「待たない」
言葉を遮るようにして再び近づく端正な顔。
人生で2度目のキスは、想像よりもずっと乱暴で、甘くて、とろけそうだった。