(俺を好きすぎるッショ!)
巻島裕介は困惑していた。もともと下がり気味な眉をいつも以上にハの字に下げて、何度目ともしれない溜息を付く。一体なんで俺がこんな目に合ってるんショ。小さく漏れた本音に答えてくれる者はその場にはいない。
『巻ちゃん!おい聞いているのかね巻ちゃん!まきちゃーん?』
「裕介くん裕介くんってばねーねー裕介くん!」
右手の緑色の蛍光カラーが眩しい携帯からは電話口でも騒がしい好敵手の声が。
左腕にまとわり付いて馬鹿みたいに巻島の名を呼び続けるのは幼馴染み。
サラウンド状態で巻ちゃん裕介くんと呼ばれて離してはもらえない状態は、いっそ何かの拷問に近い。人付き合いが苦手で、どちらかといえば一人を好む性質である巻島にとっては尚更だった。
取り敢えず電話口に黙れと告げて、次いで左腕を軽く振り払う。一旦距離を於いて落ち着こうとするためにとった行動だったが、しかし数拍の沈黙の後に状況は悪化した。携帯からは更にヒートアップした
悲壮感漂う叫び声が響き、腹部に衝撃を覚え息が詰まった。見れば幼馴染みが必死な顔で抱き着いてきて、こちらも電話相手の好敵手に負けず劣らず情けない声を上げている。どうしてこうなった。やはり巻島の呟きに答えてくれる者はいない。
『黙れとは何事か巻ちゃん!冷たいぞ!』
「振り払うとかなんでひどいよ裕介くん!!ばか!」
「あ゛ーーーうるさいっショお前らマジで!!どんだけ俺の事好きなんっショオッ!」
とうとう堪りかねて、普段ならば決して上げないような大声を上げると、この問い掛けには返答があった。お前ら示し合わせたのかと突っ込みたくなるくらい見事なタイミング、及び当然と言わん調子で。
「『一番好きに決まっているだろう(じゃない)!!』」
幼馴染みと、ライバル。
巻島を除けば全く接点も繋がりもない二人の共通点。
それはどちらも巻島裕介を好きすぎるという事だった。
「裕介くん、お疲れ様!!」
「おう、名前。見てたのか」
「見てたよ!もうすっごい格好よかった!優勝おめでとう!!」
「クハ、そりゃ、ありがとよ」
並み居るクライマー達を奇抜なダンシングで蹴散らして、巻島は今日のヒルクライムレースを制した。掛けられる賛辞の言葉を適当に交わしつつ、限界まで回して感覚の覚束無い足を進めていると、背後より一際甲高い声が響く。振り向くまでもなく相手が分かったから、少しだけ愛車を押す速度を緩めるに留めた。軽やかな足音が追いかけてきて、巻島に並ぶ。満面の笑みを浮かべ今にも飛び跳ねそうな勢いのその子は苗字名前といい、巻島の幼馴染みであった。興奮気味に格好よかった、凄かったと率直な感想を繰り返す名前に巻島の表情も綻ぶ。普段ならば騒がしいと眉間に皺の一つでも寄せそうなものだったが、レース直後の冷めやらぬ高揚感、そして何よりも勝利の喜びが巻島の機嫌を良くしていた。よく気味が悪いと称されるぎこちない笑みも、心做しか柔らかに思える。
「最後のね、ゴールスプリント!もうテンション上がりすぎて叫び過ぎちゃった!!すごいデッドヒートだったね!!」
「名前のキャーキャーうるさい声、丸聞こえだったッショ」
「勝利の女神と呼んでくれてもいいんだよ祐介くん!」
「クハ、馬鹿言え。実力ッショ!」
ゴール前、500m。
首位を独走していた巻島に白のRIDLEYが音もなく並ぶ。
観客や試合のアナウンスは劇的なレース展開だと騒ぎ立てたが、巻島にとってはなんの予想外でも無かった。今回のレースにその男が出場することを知った時から、簡単に。この展開は見えていた。寧ろ望んでいたと言ってもいい。山において巻島と拮抗し、巻島を奮い立たせる唯一の存在。その男――東堂尽八は良き好敵手であると言えた。
車体を異様に左右に大きく振る巻島と、完璧に形成されたフォームで静かに登る東堂。全く正反対のスタイルを持つ二人が他を一切寄せ付けず先頭を駆け抜け、雌雄が決したのはゴールライン直前。僅かコンマ数秒の差で、巻島がゴールに滑り込み東堂を下したのだった。
今日のレース運びの燃えた所を事細かに挙げ連ねる名前の側で、彼女から渡されたタオルで汗を拭いながら巻島は密かに思う。
東堂は更に速くなっていた。この前の大会で競った時よりも、確実に。次登るときに再び勝てるとは限らない。それでも頂点を譲るつもりは更々無いから、明日からのトレーニングを見直す決心を固めていると、今となっては聞き慣れた一人しか呼ぶ者がいない呼称が巻島の耳に届いた。声の方に視線をやると、つい先程まで巻島と全力で凌ぎを削っていた東堂が人を掻き分け近付いてくる所だった。
負けた悔しさを滲ませながらも、汗の滴るその表情は晴れやかだ。
「巻ちゃん!!!」
「何ショ、俺に負けたくせにえらく元気だなァ」
「ワッハッハ!言ってろ巻ちゃん!今日は後一歩の所で勝ちを譲ってしまったが、次は決してこうは...」
「アア?」
どちらに軍配が上がろうと、東堂は必ずゴール直後に巻島の元へとやってくる。いい勝負だった、次も全力でやろうな。約束をしている訳ではないのに、その一言を律儀に伝えてくる辺り東堂のマメさが伺えると巻島は思っているのだが、今日は少しだけ勝手が違った。
不意に黙り込んだ東堂を不審に思い、再び彼を見る。言葉の途中で口を開いたまま、瞬きすらせずに東堂は一点を注視していた。視線の先、巻島の背後にいるのは名前だ。そういえばコイツ等顔合わすの初めてだったかァ、と首を傾げる巻島に、我に返った東堂が勢い良く飛び付いてくる。かと思えば力任せにグイグイと引っ張られ、レース後で疲労を溜めた両脚では踏ん張ることも出来ずによろめく事となった。その拍子にTIMEを倒しそうになるが、名前がすかさず手を伸ばし支えてくれたため事なきを得た。相変わらず東堂が巻島の腕を引き何処かへ連れていこうとするため、仕方がなく愛車を名前に託し東堂に従う事にする。
「ま、巻ちゃん巻ちゃん巻ちゃん!」
「ってえよ東堂ォ!何ショいきなり!?」
「つかぬ事を聞くようだがッ!」
「だから何だっつの早く言え!...ったく、俺ァ疲れてるんショ!」
促されるままに少しだけ名前と距離を取り、背を向ける。首の後ろに東堂の腕が周り、必然的に顔が近付く。思わず顔を顰めるが、押し殺してはいるが緊迫した東堂の声に押され、巻島は文句を飲み込み話を聞く体制に入った。しかし東堂の言葉が続かない。何度か促すも、パクパクと動く口からは意味のなさない音が漏れるばかりだった。いい加減焦れた巻島が舌打ちをすると、漸く消え入りそうな声が巻島の耳に届いた。
「かっ...彼女は...いったい、誰かね?」
―――何言ってんのコイツ。
考えがありのまま顔に出ていたのだろう、ちらちら巻島を伺う東堂の顔に見るみる間に朱が差した。常にウザイくらいに堂々と自信に満ちた東堂の、初めて見るおどおどした態度に本格的に気味が悪くなり始めてくる。訝しみながらも、期待に満ちた目に返答を促され渋々巻島は口を開いた。
「誰って...幼馴染みショ」
「幼馴染み、そうか幼馴染みか!...それで?」
「は?」
隠す必要もない間柄であるからそのまま伝えると、若干食い気味に東堂が被せてきた。それで?と言われても一体何がそれで?なのか。東堂の意図が読めずに混乱は深まっていくばかりだ。心底訳が分からないといった巻島の表情を読んだ東堂は、もともと潜めていた声をさらに落として質問を続けてきた。
「巻ちゃんは彼女とお付き合いをしているのか?」
「はぁ?お前耳悪ィの?幼馴染みっつったッショ」
「そうか、そうか!彼女は巻ちゃんの‘ただの’幼馴染みで、恋愛的感情は持ち合わせていないのだな!」
さっきまでぷるぷる震えるチワワみたいな顔をしていたくせに、途端に表情を明るくし「ただの」をやたら強調した東堂に、巻島はある一つの可能性を閃いた。いやいや、まさか。内心有り得ないと否定しつつ、横目で東堂をジロリと見る。視線を受けて若干目を泳がせた東堂を、今度は巻島が引き寄せた。
「お前さっきから何ショ東堂、まさか...」
「いやっ、違う!違うのだよ巻ちゃん!断じて一目惚れなどしてはおらんよ!」
問い詰める前に、東堂が自ら墓穴を掘った。
一転して生暖かい目をしだした巻島に、漸く失言に気付いた東堂が慌て出す。その様子が裏付けている事実に、巻島はどんよりと胸が重くなるのを感じた。別に東堂が誰に惚れようが知った事ではないし、大切な幼馴染みではあるが恋愛対象ではない名前に誰が言い寄ろうと、割とどうでも良かったりする。このような言い方をすれば面倒な幼馴染みはまたあーだこーだと騒ぎ立てるだろうが、そこにはきちんと「名前が幸せになるのなら」という前提が付く。
チャラいようではあるが意外と恋愛観はしっかりしている、というか寧ろ古風な考え方をする東堂の事だから、そこに関しては心配はないが、なんだか嫌な予感がするのだ。そして、巻島の嫌な予感は大抵の場合当たる。もしかしなくても藪蛇しちまったんじゃねえか、と内心毒づきながら巻島は長い髪を掻きあげた。
「マジかよ」
「...自分でも驚いているよ巻ちゃん」
「...まあ別にどうでもいいショ。気に入ったんなら挨拶でもしてくれば?せいぜい頑張れ〜ッショ」
「言われんでも、このトークも切れる山神・東堂尽八!ビシッと第一印象を決めてこようではないか!」
ヒラヒラと手を振る巻島を振り返り、東堂が真っ直ぐ指を差す。ファンの子達がいつも騒いでいる「いつもの指差すやつ」だ。いいから早く行けよ、長い肘で背を押しやると東堂は胸を張って堂々と歩を進めた。...のは、良かったものの。
数歩程歩くと、後ろから見る東堂の肩が明らかに震え始めた。若干俯き加減になりつつあり、大きかった歩幅が狭くなる。名前まで後数mまで近付いた所で、完全に足が止まった。太腿の辺りで両手を握りしめ、全身がマナーモードみたいに小刻みに震えている様はいっそ滑稽を通り越して哀れみさえ覚える程だ。それでいいのか山神。
暫く見守っていると、ウワァ〜、と情けなく裏返った声を上げた東堂がとうとう動いた。今迄進んだ僅かな距離を瞬く間に引き返し、巻島の元に舞い戻る。お前それを名前にぶつけろよ、と突っ込みたくなる勢いで巻島の両手をつかみ込んだ山神と呼ばれる男は、耳まで真っ赤に染めて掠れた声で懇願したのだ。
「巻ちゃん、やっぱ付いて来て」
ほら、やっぱり。巻島の嫌な予感はよく当たる。
やだよ何で俺が、と渋っても俺と巻ちゃんの仲ではないか!と泣きつかれ、巻島は仕方なく本命にはとことん初心である事が今しがた発覚した友人のため一肌脱ぐ事にした。本当に仕方なくではあるが。
東堂の二の腕辺りを鷲掴みにし、問答無用で引き摺り歩く。その様をすっかり怯えた様子で見つめてくる名前に苦笑を禁じえない。東堂お前、既に第一印象最悪ッショ。
わあわあ喚く東堂を名前の前に突き出す。ゴホン、と態とらしい咳払いを一つして、巻島はその男の割には細くて長い人差し指を東堂に向け口を開いた。
「名前、こいつ東堂ッショ。いつも電話でうるさい奴」
「うるさくはないな、うるさくは!」
反論の声を完全に無視し、巻島は人差し指で今度は名前を差した。直立不動のまま顔を赤くする東堂に、もはや突っ込む気持ちすら起きなかった。
「んで、東堂。こいつ名前な。電話の時周りでうるさい奴」
「う、う、うるさくないもん!」
「知らねーよホラ、お前ら挨拶するッショ」
途端にこちらも顔を上気させて巻島に言い返してくる名前を制して、2人を向き合わせる。数秒の沈黙の後、互いに普段の十分の一くらいの声量で「東堂尽八です」「苗字名前です」とぎこちない自己紹介を済ませた東堂と名前に、巻島は漸く肩の力を抜いた。全くどいつもこいつも、手間がかかることこの上ない。
柄にもなく恋の手助けなどしてしまって、途端に決まりが悪くなり巻島は未だ目も合わせられないでいる2人に向けて声をかけた。
「んじゃ、後は勝手によろしくやれッショ。俺表彰行ってくる」
設営された簡易ステージに人が集まりつつある。まもなく呼び出しがかかるだろうと踏んで、巻島は東堂と名前に背を向けたのだが、歩き出す寸前に後ろからぐいと両腕を引かれた。首を巡らすと東堂と名前がそれぞれ右手と左手をしっかりと掴んでいて離そうとしない。
「ま、巻ちゃん行かないでくれ!」
「裕介くん裕介くん置いてかないで」
「いや、俺今から表彰だってば」
嫌だ嫌だと駄々を捏ねる様はまるで幼子だ。こんな手間のかかる子供2人も面倒見たくはないが、涙目になりながら必死で縋ってくる人を無下にできるほど巻島は鬼な訳ではなかった。会場アナウンスが巻島の名を呼ぶ。幼馴染みとライバルはそれでも巻島を離さない。 いつまでも壇上に上がらない巻島に、司会が訝しそうにし始めた。
ああもう。
「お前らハウス!!分かったから1回離すッショ!!」
思わず上げた大声に視線が集まって、巻島が恥ずかしい思いをしたのは言うまでもない。
「裕介くん」
常ならばロードバイクに跨りそのまま帰路につくものを、今日は名前の存在があったため分解した愛車を輪行し、巻島は電車に揺られていた。レースの疲労感が程よく体内を侵食し若干うとうとしていると、隣に座った名前が呟いた。レース後から幼馴染みの様子が変だということは巻島も気づいていたため、重い瞼を上げて名前を見る。窓の外を見つめる名前は巻島の名を呼んだことすら気付いていないのか、ぼーっと物想いに耽ったままだ。しばらくその物憂げな表情を見つめたあと、巻島は手を伸ばした。小さくつんと尖った鼻を摘んでやると初めて巻島が自分を見ていたことに気付いた名前が大きく肩を震わせた。普段は見れないような反応に、巻島はニヤリと歪んだ笑みを浮かべる。
「どーしたよ、お前」
「裕介くん、あのね裕介くんどうしよう」
「んー?」
パクパクと口を開閉させる様子に、最初の既視感。言葉の続かない唇をきゅっと噛み締めて、長い睫毛を震わせ瞬きを繰り返す幼馴染みに、おぼろ気な既視感が確信に変わる。まさかまさか、否定しても巻島には結果が読めていた。だってつい先程、同じ様な流れを辿ったばかりであったから。
「おい、名前、まさかお前まで...!」
「どうしよう裕介くん、一目惚れしちゃったかもしれない」
ポッ、と両頬を染めた名前は素直に可愛らしいと思った。巻島にまとわり付いてばかりで男っ気のなかった名前に春が来たことは幼馴染みとして喜ぶべきだったが、巻島の胸中は正直複雑だった。嫉妬とか、そういうのではなく。
(お前ら、こんなとこまで似たもの同士ッショ...!)
幼馴染みとライバル。
共通して巻島裕介を好きすぎる2人が出逢ったそのとき、赤い実弾けて恋が始まった、らしい。