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しばらくの間、リドルとアリシアの噂がホグワーツ中を駆け巡ってやかましかったが、それ以外は概ね平和に時間が過ぎていった。季節は次第に暖かくなり、イースター休暇にオリオンの別荘へと二人で訪れた以外は大して言及することもない。

平和だ。すこぶる平和だ。
このまま平穏に時間が過ぎ去っていくかと思ったが、そうは問屋が卸さなかった。



「うわあっ!!」
「きゃああ……っ!!」
「っ……先輩!先輩、大丈夫ですか!?」
「シイナさん!シイナさん返事して下さい!」

階段近くの廊下の真ん中で倒れ込んだシイナの周りで、一緒に歩いていた取り巻きが慌てたように名前を呼ぶ。一番近くでシイナと話していたオリオンが焦って倒れ込んだ身体を抱き起した。


「おいっ、今薬品ぶっかけたの誰だよ!?」
「上だ!おい、そこにいる奴逃げるな……!」

上でばたばたと走る足音に向かって数人が叫ぶ。やっべ、という声と共に声は遠ざかって行ったが、叫んだせいでこちらには野次馬が集まって来る。僅かに身じろいだことで、上からシイナの頭に降り注いだ薬瓶がからんと床に転がった。端が欠けて、その破片がぱらぱらと散らばる。


「う、……あ、ったま……いた…」
「!……嗚呼、先輩よかっ……、…え?」


普段より少し高い声で、シイナが小さく呻く。さら、と、黒いローブの上を上質な黒髪が滑った。
「……あれ?」
頭を押さえて身を起こすと、その腕に黒髪がかかって、シイナはきょとんと瞳を瞬く。茫然と自分を見るオリオンと、胸元を優に越す長さの黒髪を順繰りに眺めて、そしてもう一度オリオンを見た。動くたびに、胸元にある重たい何かがたゆんと揺れる。取り巻きも遅れてこの異常事態に気付き、愕然としながらその場で固まっている。


「……、…え?なにこれ?」
「せ、先輩……お、女の子に……なって……え……?」


明らかに大きさの合わない制服に、高くなった声音と、腰上まで伸びた黒髪に、トドメは体格に似合わない豊満な胸。もう言い逃れは出来ない、ここまで要素が揃っては、現実逃避も出来ない。


「……僕…女に、なって、る…?」

正しくは、誰が見ても、の前置詞が付くが、そんなことは今はどうでもいい。
シイナは一拍置いて、信じられないとばかりに絶叫した。






「……ええと、つまり?」
「……、…グリフィンドールと、スリザリンの生徒が……その、いつもの様に喧嘩していたらしく……それで、ええと……手を滑らせて、魔法薬を、階段から落下させて……」
「で、それを浴びたシイナが、こうなった訳か」
「……そういうことです」


完全に女子生徒となったシイナが医務室でイライラと座り込んでいる間、珍しく困惑したような表情を見せるリドルに近くで見ていたオリオンが状況を説明する。
長く艶やかな黒髪と、揃いの黒目は全体的に柔らかく丸い印象へと様変わりし、四肢も細く、丸みを帯びた身体つきになっている所為で、きつそうな印象を除けば一人の愛らしい女子生徒だ。けれどその仕草はやはりシイナそのもので、女子生徒というよりは男子生徒の所作に近い。躾から扱いから呼称から、何もかも男性として今まで扱われてきたのだ。今更、身体があからさまに女性になったからって、そうそう意識が変われるはずもない。リドルは一度オリオンから視線を外して、シイナを見た。


「……なに、」


剣呑な声は喋り方こそシイナだけれど、声の高さが全く違う。男性とも女性とも取れる微妙な高さから一転、細く滑らかなその音程は完全に女性そのものだ。

シイナは女だ、それは分かっている。でも、こんなあからさまな女では無かった。今までぴったりと噛み合っていた男子用の制服は一回り大きくなってしまった所為で、肩がずり落ち、落ちそうなズボンをベルトで無理矢理巻きつけている。さら、と、長い黒髪が白いシャツに落ちる。シイナは、女だった。


「……いいや、何でもないよ」


何でもなく無かった。
自分の心のざわつきを見て見ぬ振りして、リドルはいつも通りに笑う。

目の前にいる見知らぬ女が、何故か気味が悪くて仕方がなかった。

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