悲恋系注意




 可愛いは継続的だが、綺麗は刹那的だ。そして、美しいには後がない。ベラトリックス・ブラックは後のない女だった。
 オズワルドはいつも、ベラトリックス・ブラックは崖っ淵だなぁ、と思う。現実的な話ではない。ピンとしたヒールで気位高く歩くその姿は、まるで崖っ淵を歩いているようだ。いつ底も見えない暗闇へと落ちていってもおかしくない、そういう危なっかしさが彼女にはある。どうしてそうも崖っ淵を歩くのだろう。もっと安全なところで、安全な靴で、その美しさを余すところなく振り撒いていれば良いのに、どうしても彼女はそれをしたくないらしい。危ないなぁ、とは思うけれど、でも、その危なっかしさが、彼女の一番綺麗なところであるとも思う。

「……マグル生まれの魔法省役員、またも惨殺される。今度は一族郎党皆殺し、また死喰い人の仕業か。……最近多いね、この手のニュース」
「嗚呼、例のあの人のだろ。こえーよな、最近じゃもう、誰もマグル生まれって名乗らなくなったぜ」
「まぁ当然だろ、このご時世にそんなこと自称してるのは、自殺志願者くらいだ」
「はー、いつまで続くのやら。……この勢いに乗っかって、スリザリンのお貴族様連中はいつにも増して威張ってるし……やだねえ、級友から未来の殺人集団が生まれると思うと、心配で夜しか眠れねえや」
「それが正常だろ。……嗚呼、悪い。俺これから用事あるから」
「おん?嗚呼、いつもの、彼女ね彼女」
「だから、違うって言ってるだろ」
 はぁ、と溜息を吐いてオズワルドは椅子から立ち上がる。先程まで読んでいた日刊預言者新聞は友人が見ているようなのでそのままにして、休日故か人の少ない大広間を後にした。向かう先は、いつも決まって四階の廊下だ。この習慣を続けてどれだけになるのか、オズワルドは覚えていない。


「……ブラック、いる?」
 ぎい、と立て付けの悪い小さな扉を開けて、中の小さな部屋へと潜り込む。余りに小さなその扉は、マグルの小説みたいに自分を小さくさせる特別な呪文を使わなければ入れない。その扉を潜り抜けて暫くすると、今度は「EAT ME」と書かれたクッキーが置かれているので、それを食べて元に戻るのだ。そうすると目の前に扉が見つかる。こんな面倒な手順を踏まなければ入れない隠し部屋だなんてさぞかしいい物が眠っているのだろうと思えば、何のことはない。先に述べたマグルの小説を現実にさせる、小粋な魔法アイテムが数点転がっているに過ぎない。最初にこれを見つけたとき、もちろんその小説を知らないベラトリックスは大いに落胆していたが、オズワルドだけは随分と手の込んだものだと密かに感嘆していた。これを作った誰かしらは、きっとあの大冒険の熱烈なファンだったのだろう。あの少女の追体験をしているようで、オズワルドも面白かった。落胆していたとはいってもこんな見つかりにくい隠し部屋というのは大変に使い勝手がいいもので、それ以来ベラトリックスとオズワルドはどちらからともなくこの部屋を待ち合わせ場所にしている。密かに待ち合わせをするような仲になったのもいつからかなんて、やっぱりオズワルドは覚えていない。

「いるよ、オズワルド」

 遅れて帰ってきたベラトリックスの声に導かれるように、オズワルドは部屋の奥へと歩みを進めた。ベラトリックスは窓の外───とは言っても魔法がかけられた偽物の、小説になぞらえた喋る花達の蔓延る庭だが───を眺めながら、手持ち無沙汰に右手で杖を回している。オズワルドは静かにその背に歩み寄って、隣に並んで庭を眺めた。

「あら、皆さん、今日もあの恋人達が来ておいでよ」
「あらあら仲の良いこと」
「おほほほほ」

 花達はめいめいに喋っている。恋人では無いのだと開かない窓の外に向かって言ってみたこともあるが、開かない所為か偽物の所為か、ついぞその声が届くことはなかった。ここの製作者は、この部屋を見つけた人間と花が会話できるようにするほどの力量は無かったのかもしれない。或いは、あの何処か歪んだ世界感を作り出すために、わざと話を聞かないようにしたのか。それはわからないけれど、声が届かないならばあちらに話しかけても意味はない。オズワルドは部屋にあった椅子を引いて腰を下ろし、本棚に積み上げられた本を一冊、手に取った。相変わらず、そこには意味のなっていない文字の羅列が並んでいる。たまに言葉になっていたかと思えば、ただのナンセンス詩だ。そういえば、流石にジャバウォックはいないのだろうか。あれと戦わされるのは御免だから、いなくても一向に構わないのだけれど、かなりの再現率を誇る部屋に存在しないというのも何となく気になって、オズワルドは無意識に辺りを見渡す。と、そこで、こちらをじっと見つめるベラトリックスと目があった。
「……何?」
 それがどうにも珍しくて、オズワルドは訝しげに双眸を細める。この部屋にいても、お互い、自分のことに没頭していて何も喋らないのが日常だった。ある日は本を持ち込んだり、ある日は課題を片付けたり、課題の時は偶に喋るけれど、それも多くはない。だから本当に、珍しくて、どうかしたのかとさらに首を傾げた。ベラトリックスは暫く黙っていたが、その内にゆっくりと血に濡れたような艶やかな唇を重たそうに開かせる。まるで、熟れた林檎が落ちるようだなぁ、と、ぼんやりと思った。
「……婚約が決まったんだ」
 ぱちん、と、空気の割れるような感覚がして、オズワルドは無意識に目を見開いた。ベラトリックスは何かを言いたそうに視線を彷徨わせるも、結局言葉にはせずに唇を引き結ぶ。
「……婚約」
 茫然と、オズワルドはその言葉を繰り返す。いつかは来ることだと思っていた。ベラトリックスはブラック一族の生まれだ。ブラック家といえば魔法界でも有数の名家で、それどころか、その頂点と言ってもいい。ベラトリックスは本家ではないようだったが、それでもごく近い家の長女だ。本家とはいとこの関係に当たるらしい。婚約は、当たり前の結果だった。婚約、と、もう一度オズワルドは繰り返す。
「おめで、とう。……相手、は、どこの人」
「……レストレンジの、長男だ。ロドルファス・レストレンジ。聖28一族の」
「嗚呼……知ってる、レストレンジ、名門だよね」
「この、……この婚約は、悪いことなんて何一つ無い。ブラック家とレストレンジ家が繋がれるのは双方の為になるし、それに、あいつもあたしと同じ思想主義だから」
「……そう、……いい人と婚約、決まって、良かった」
 そこまで言って、二人とも黙った。お互い、多分、こんなことを言いたいわけではない。ぎり、と、ベラトリックスが唇を噛みしめる。嗚呼、崖っ淵だ、と、オズワルドは思う。後のない女だ、ベラトリックスは。後には引けない、彼女の思想がそうある限り。ベラトリックス・ブラックは余りに美しい。


 オズワルドとベラトリックスの関係を言葉にするのは難しい。恋人か、と聞かれれば、そうではないと答えられる。でも、恋人じゃないのか、と聞かれれば、そうだと答えるのも憚られる。そんな、微妙な関係だった。気位高いスリザリンの純血貴族である彼女が、一応純血と言われている家系とはいえ、特に貴族という訳でもない一レイブンクロー生に容易く触れるのを許すのか、オズワルドには分からない。オズワルドはベラトリックスを抱き締めたことも、唇を重ねたことも、それ以上を交わしたこともある。彼女はどこもかしこも匂い立つように美しかった。散る寸前の大輪の薔薇のように、毒々しく美しい。その花弁を無惨に引き千切ってしまいたいと思わされたことなど、両手では足りないほどだ。こんなに美しい生き物を、オズワルドは知らない。何と言えばいいのか分からなくてオズワルドが静かに黙っていると、ベラトリックスがふと顔を上げて、少しだけ明るいような声音で口を開いた。
「……なぁ、オズワルド」
「何」
「一回だけで良いんだ、一回で良いからさ、……一回くらい、ブラックじゃなくて……名前で呼んでくれないかい」
「……え?」

 また、ぱちん、と、世界が途切れるような感覚が襲う。その言葉の意味を飲み込む前に、我先にと唇が開いた。
「……ベラトリックス」
 震えた声音が自分の意思とは無関係に零れ出す。彼女は花開くように、静かに笑った。
「うん」
「……ベラトリックス、……ベラトリックス、ベラトリックス。ベラ、……ベラ、俺はアンタを」
 そこからは言葉にならなかった。言ってはいけないのだとばかりに、オズワルドは悔しそうに唇を噛む。ベラトリックスは何処か諦めたように笑って歩み寄り、オズワルドを抱き締めた。オズワルドは反射的にその背を掻き抱く。細くて、でも、しっかりとした身体だった。柔らかな双丘がオズワルドの体躯を包む。
「……あたしも。でも、言わないでおこう、オズワルド。言ったら駄目なんだよ、多分。お願いだから、オズワルド、あたしに……あたしに、アンタと何かを天秤にかけせないで欲しい」

 人生は一つだ、二つは選べない。オズワルドは、死喰い人には組みさない。ベラトリックスは足を踏み外す、オズワルドは共に崖へ飛び降りることが出来ない。ベラトリックスは後がないから美しい、オズワルドの存在は彼女をほんの僅かだけ振り向かす。でも、きっと振り向いたとしても、ベラトリックスは少しだけ笑って飛び降りてしまうのだろう。一緒にはいけない、それなら最初から手を伸ばさなければいい。だって、ベラトリックスは選びたくないのだ。選んだ結果、オズワルドを要らないものだと組み分けてしまうことが耐えられない。ベラトリックスは、オズワルドを天秤に乗せたくない。そして、ベラトリックスは後がないからこそ美しい。そんな彼女を振り向かせてしまうくらいなら、その美しさを損ねてしまうくらいなら、最初から手を伸ばさず飛び降りてしまうところを眺めていたいとオズワルドは思っている。共にいけないなら、せめて美しいままで、自分が恋い焦がれたその危なさのままで、瞼の裏で死んで欲しい。

 オズワルドは何も言えずに口付けた。流れる言葉も、溢れる感情も、全部、音にすることさえ許されないのならば、何もかもその唇で飲み込んでくれたらいい。掻き抱く腕に力が籠もる。指先が悔しげに熱を持って、その艶やかな黒髪を乱暴に引き寄せた。ベラトリックスは文句も言わずにオズワルドのローブを引き寄せる。彼女の睫毛も、込み上げる何かで頼りなく震えていた。せめて憶えていてくれ。オズワルドの体温も、抱き締める力の強さも、指先の熱も、震えた声音も、情けなく取り縋るようなこの瞬間の何もかも。例え明日には忘れても、どうか、今だけは。この後のない女は、この瞬間はオズワルドだけのものだ。


 1969年、ベラトリックス・ブラックは卒業した。オズワルドの眺める崖っ淵にはもう誰もいない。それでも、目を閉じればいつまでも、あの危ういヒールの艶やかな足音が脳裏に鳴り響いている。
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