例えば、待ち合わせ時刻に少しだけ遅れて、小走りで駆け寄って来るところとか。
「っ、オズワルド、ごめんなさい、寒い中待たせて……!」
「……別に。そんなに待ってませんから。それよりアンタ、頭」
「え?」
「雪、積もってますけど」
「ええっ!?」
 例えば、小さな指摘に大袈裟なまでにあたふためいておろおろするところだとか。
「ほら、ちょっと大人しくしてて下さいよ、今取りますから」
 例えば、近づいた距離に少し赤くなって視線を逸らしてしまうところだとか。そういう小さな何もかもが、可愛いと思う。
「……取れました。ほら、行きましょう、寒いんで取り敢えずバタービールですかね」
 だから、オズワルド・グレンヴィルはナルシッサ・ブラックと付き合っている。


 よくスリザリンなんかと付き合えるよな、と偶に言われる。よく純血貴族なんかと付き合えるよな、とは、よく言われる。そうだな、と雑に返すけれど、確かに彼らの言い分も分からなくは無い。
 まずもって、スリザリンの、特に純血貴族ってやつはお高くとまっている。血を誇るその自負と、マグル生まれを見下す態度から、基本的に彼らは同類と固まっていて、滅多に他人と関わることがない。オズワルドは貴族ではないが純血だった。純血、とはいっても聖28一族では無い。多分純血、先祖がそう言ってるのだから恐らく純血、という物凄く曖昧なもので、そうは言ってもそれを確かめる術もないので取り敢えず純血と信じられている。それ故に、別に純血主義の一団に喧嘩を売られることもなく、特別親しくはないが何か用があった時には同類と同じ態度で話しかける、その程度だ。時々純血主義連中とマグル生まれの連中がいがみ合っているのを見るたびあれに巻き込まれなくてよかったな、とは思うが、これといって自分の血に何かしらの感慨も無い。それがどうしてスリザリンの、それも純血貴族筆頭のブラック家ご令嬢と付き合うようになったのか、それは大体二年ほど前まで遡る。


 その日、オズワルドは雨天の中のクディッチを見に行くのを遠慮して一人図書館に篭っていた。友人達はみな観戦に出払っている。こんな悪天候の中よくやるな、とは思うものの勿論口にはしない。娯楽の少ない中では与えられた刺激に飛び付くのも仕方ないところではあるだろう。特に、今日の試合はスリザリンとレイブンクローの対戦でもあるので。勝った方が優勝杯に手をかけるも同然の僅差だ、盛り上がるのも当然だだろう。最も、オズワルドは別だったが。勝敗は気になるが別に見にいったからってどうこうなる訳でもない。勿論観戦したからって試合に影響がある訳でもない。見に行くメリットが全くない、とオズワルドは判断して出されたばかりの魔法史の課題を片付けに向かった。

 図書館に篭って何時間が経っただろうか。もうすぐで仕上がる、というのに最後の根拠に必要な文献を取り忘れてきたことに気がついて、オズワルドは思わず舌打ちをして立ち上がった。たった数行のために、面倒臭い。面倒臭いとは思っても記憶があやふやなのだから仕方ない。ノードンだったかノービンだったか、修道僧の名前を忘れてしまった。仕方ない、と大きく嘆息し、オズワルドは再び本の山へと捜索に向かう。嗚呼あったこれだ、と目当ての無駄に重たい本へと手をかけたところで、斜め前、ごく近しい本棚の目前。無理に詰め込まれた本を引き抜こうとした女子生徒の上からバランスを崩した本が雪崩れてくるのを見て、オズワルドは思わず手にした本を放り出し慌てて彼女の方へと駆け寄った。
「いっ、……!」
「きゃあ……!!」
 声が重なる。遅れて本の落下する物凄い音がして、慌てたようにピンス先生が飛んできた。
「何事です……!」
「あ、あの、私……!本、本を取ったら、上から、本が……!彼が、私を庇って!」
 鈴を転がしたような清らかな声が遠くに聞こえる。慌てたようにオズワルドを覗き込むその面立ちが、何だかとても綺麗で。きらきらと光を反射して光り輝くそのブロンドが。潤んだように瑞々しい、その碧眼が。とても、綺麗だったから。オズワルドは珍しく、安心させるように笑って、力なく彼女の手を握った。


 そこから先は覚えていない。彼女の話によると、気を失ったオズワルドをピンス先生が医務室に運んでくれたらしい。目覚めた時には、心配そうな彼女が覗き込んでいて、涙ながらに謝罪と、そしてお礼を言われた。
「あの、ありがとう……貴方のお陰で、私、傷一つなく無事だったわ。でもごめんなさい、貴方が……」
「……、…アンタが無事なら、良かった……庇った甲斐、あるってもんでしょ……」
「ありがとう、本当に……あの、私、ナルシッサ・ブラックよ。スリザリンの五年生なの」
「……オズワルド・グレンヴィル、レイブンクロー四年生。何だ、先輩だったんですか」
「……私の名前を聞いてまずそこを気にされるの、初めてだわ」
「え?……嗚呼、ブラック。……あ、思い出した。アンタ、ナルシッサ・ブラック。ブラック三姉妹の真ん中。美人って有名な」
「あら、ありがとう」
 間近で見ると、やっぱり綺麗だな、と思う。初雪みたいな真っ白の肌に、金細工のような髪。宝石みたいな青い瞳は、職人が丹精込めて作り上げた芸術品のようだ。ブラック家の人間はみな美人揃いと聞いていたが、噂は確からしい。オズワルドは痛む頭を押さえて起き上がり、ナルシッサへと向き直る。ナルシッサ・ブラック。ブラック家の例に漏れず、純血主義のお貴族様だと聞いている。つんと澄ましてお高くとまっていると小耳に挟んだが、こうして見た限りそんな雰囲気は感じられない。それとも、それはオズワルドが純血だからだろうか。いや、図書館での慌てっぷりを見ている限りは、相手を認識する以前の問題だったような気がする。オズワルドは少しだけ不思議な気持ちで、ナルシッサに手を伸ばしてみた。
「……え?」
「……よろしく、先輩。せっかくだから挨拶」
「え、あ、嗚呼……そうね、よろしく」
 ナルシッサは呆気にとられていたが、その一言ではっとして伸ばされたオズワルドの手を取った。小さくて小枝みたいなバランスの良い指先がオズワルドの手の中に収まる。


 次に出会ったのは、天文学の授業の時だった。それまでにも姿は目にしていたが、相変わらずあの一団は他人を寄せ付けない雰囲気で、ナルシッサはいつも静かに澄ましてちょこんとお人形のように座っていた。言葉を交わした所為か、オズワルドは時々彼女を見つけると視線で追いかけたが、それ以上の接触を試みることはなく、ただ時間だけが過ぎていった。けれどもそある日、なんたら流星群が見えるからと急遽深夜の四時に授業が開講され、眠たい身体を引きずって教室へと集まった。説明を聞いている間、くぁ、と小さな欠伸が漏れる。眠い。よくよく見れば何人か来ていない面々もいるではないか。そうか、サボれば良かったのか、と働かない頭で考えていたところで、何やら通常より人数が多いことに気がついた。
「……」
 あれ、と思う間も無く観察の時間が始まって、オズワルドはのろのろと望遠鏡を覗きに行く。眠い。何時の角度に向ければ良いんだっけ、と、考えながらふらりと身体が傾いたところで、通りすがりの誰かにぶつかりぱちりと微睡んでいた双眸が開かれた。
「……先輩?何でいるんですか?」
「何でって……貴方、先生の説明を聞いてなかったの?今日の天文学は、五年生と四年生で合同よ」
「そうでしたっけ……?」
 そういえば、言われて見ればそんな事を言っていた気がする。時間が無いので数学年合同なのだったか。ようやく思い出してこっくりと頷けば、ナルシッサは少し呆れたように望遠鏡を指差した。
「それから、流星群はこっちじゃないわよ、真反対」
「あ、はい」
 夜中でも、彼女はしっかりしているなぁ、と思う。未だ脳裏に微睡みが張り付いている自分とは大違いだ。眠そうにふらふらと望遠鏡の位置を直していると、見ていられなくなったのか、ナルシッサはその細い指を伸ばしてオズワルドから望遠鏡を奪い取り、丁寧に位置を調整し、覗き込んでは微調整を数度繰り返して、オズワルドに向き直った。
「はい、これで見える筈よ」
「……ありがとうございます、お得意なんですね、天文学」
「まぁ……そうね、嫌いじゃないわ天文学。星座は綺麗だし、こうやって夜の授業になるのは余り好きじゃないけれど……」
「先輩、全然眠そうに見えませんけどね」
「当たり前じゃない、そんな姿他人に見せられないわよ」
 嗚呼、と、無意識に溜息を零す。成る程な、とオズワルドは静かに納得した。そういう人なのだ、ナルシッサは。いや、ナルシッサは、じゃなく、正確には貴族のお嬢様は、かも知れない。オズワルドが当たり前に晒している、眠気に瞬く表情は、ナルシッサ達は当たり前に見せられない。貴族は常に上品に、お行儀よく。その名に恥じるようなことは、決してしてはいけない。難儀な人種だな、と呑気に思う。オズワルドには縁遠い話だった。生き辛そうな人だと思う。その内に何度か授業以外で行き合った。偶に挨拶をする。偶に呑気にお喋りをする。偶に、偶に、偶に。偶には重なり、いつしかそれが当たり前になった。


 その内に、季節は回って冬が来た。ダンスパーティーの夜、賑わう面々とは対照的に、オズワルドは数人と付き合いで踊っただけですぐに華やかな雰囲気に疲れ果ててしまい、飲み物だけを持って会場の隅に避難していた。別にパーティは嫌いではないし、どちらかと言えばダンスは得意な方だが、どうにも疲れる。女子はよくあんなヒールでダンスなんて出来るものだ、と半ば感心したように溜息を漏らす。
「……あ、」
「え?」
 溜息を漏らした、その視線の先。ぼんやりと見つめていた華奢なヒールの持ち主がナルシッサ・ブラックであると認識して、オズワルドは思わずぽつりと零すような声音が漏れた。偶々音楽の切れ目に重なった所為か、敏感にそれを聞き取ったナルシッサが振り返って、声を上げる。視線が交差して、二人は暫く黙った。
「……メリークリスマス、先輩。ご機嫌いかがですか」
「メリークリスマス、オズワルド。ええ、とってもいいわ」
「それは何よりです、……その割には、パートナーのお姿が見えないようですが?」
「彼は姉様と踊っているわ、私は……少し疲れてしまって、飲み物を貰いに」
「ふぅん、ブラック家のお嬢様でも疲れるものは疲れるんですね」
「あら……嫌味かしら」
「まさか。男の癖にアンタより先にへばってる俺が情けないなと思っただけで。ちゃんと疲れて下さってて何よりです、安心しました」
「……貴方、あれよね。口が上手いわ」
「お褒めに預かり光栄です」
 ひら、と片手を揺らして、オズワルドはぐたりと二人がけのソファーに沈み込む。嗚呼、本当に身体が怠い。このどこか浮ついたような雰囲気と相まって、微熱みたいな気怠さがどうにも抜けてはくれなかった。だらしなくネクタイを緩める姿に少しだけ眉を顰めて、ナルシッサは手にしていたグラスをテーブルに置き、オズワルドの方へとヒールを鳴らして歩み寄り、隣に座ってそっとネクタイを締め直した。
「……」
「だらしないわよ、ちゃんとしなさいな」
 その動作がどうにも意外で、オズワルドは目を見開いて固まる。喧騒も今ばかりは遠く、ナルシッサの金色だけが視界を埋めている。やめて下さいよ、とオズワルドは小さくぼやいた。
「あら、私に直されるのは不満かしら」
「……酒入ってんですよ、俺。アンタ美人なんだから、酔った男にそんな近づいたら駄目ですって」
「ご心配なく、私これでも強いのよ」
「おっかない……いやまぁアンタの名字がある限り、そんな命知らずは殆どいないとは思いますけどね。でも、酒ってやつはどうにも理性を脆くするから嫌だな」
「もしかして私、今口説かれてる?」
「口説いてます、離れて下さいって口説いてますんで、大人しく口説かれて下さい」
「嫌よ。私、そんな軽い女じゃないの」
「……言ってることとやってることが逆だろ、アンタ」
 女は怖い、と思う。酒気の漏れる己の吐息とは異なり、重なった彼女の唇からは何処か甘いような、プティングのような香りしかしなくて、そんなところまでお上品に取り繕わなくてもいいのに、とぼんやりと思う。どうにもこうにもその着飾った品格を乱したくなって、乱暴に彼女の後頭部を引き寄せた。喰らい付くように唇を食んで、熱を持った舌先を咥内に滑らせ小さな舌を捕らえる。取り繕いを剥がした後は、年相応の獣が丸まって眠っているのだろうか。それとも、どこまで剥がしても彼女から品は途切れないのだろうか。女は怖いし、酒も怖い。オズワルドはその日、もう酒は飲まないと痛む頭で誓った。


 そんな怖い酒の勢いとはいえ、やってしまったものは仕方ない。別に遊びという訳でもなくて、やらかしたのは本当に彼女に惹かれたからなのだが、そういう言い訳はさておき相手が相手なので責任を取らなければ色々と不味い。オズワルドとしては責任を取らせて貰えて良いんだろうかと逆に戦々恐々だが、とにもかくも、これで二人の将来も視野に入れたお付き合いというものが始まった。良いんだろうか、こんな自分に良いことばかりが折り重なって。ぐるぐると様々な思考が脳内を渦巻いていたが、初デートにやってきたナルシッサの私服が可愛かったのでひとまず何もかもを宇宙の彼方に追いやった。デートの最中、可愛いなぁと思った回数など両手じゃ足りない。ナルシッサは可愛かった。オズワルドはナルシッサを好いていたし、多分、愛してもいた。オズワルドは貴族でないとはいえ、一応純血だ。純血だと、そう言われている。ナルシッサの姉妹はまだ二人いたので、大して権力もない、けれど多少は金のある家の子供との付き合いを許されたようだった。将来を見据えた付き合いである以上、近い内にあの魑魅魍魎が跋扈する上流階級に行かされるのか、と思うと少しばかり憂鬱だが、まぁ頑張ろうか、と思える程度には、彼女と共にいたかったのだと思う。オズワルドはナルシッサが好きだった。ナルシッサも、オズワルドが好きだった。休みの日にはデートをたくさんしたし、夜が明けるまで語り合った日など数え切れない。言葉にするならば、幸せな日々だった。ナルシッサも、オズワルドも、このまま幸せに関係が続いて、オズワルドの卒業を待って婚姻関係を結ぶのだろうと、疑ってはいなかった。


 それが崩れたのは、ナルシッサが卒業を控えた四月の事だった。
 元々、オズワルドのことは一部の上流階級で噂になっていた。ブラック家のお嬢様を落とした逆玉の輿とか、上手く取り入ったとか、騙しているだとか、その噂は数え切れなかったけれど、余り好意的なものではなかったのが実際のところだ。まぁ、それは当然だろうな、とオズワルドも思う。だってブラック家だ。名だたる名門貴族の誰かと婚姻するのが当たり前で、一般庶民には手も出せない存在、それがブラック家で、よもやオズワルドのようなただの男が婚約出来るなど、誰もが考えていなかった。
 そんな矢先の、スキャンダルだった。
「っオズワルド……!貴方、混血って……マグルの血が、貴方、本当に……」
「……」
 オズワルドの両親が離婚した。元々余り仲が宜しくないと思っていたが、どうやら母親が長年不倫をしていたらしい。それだけならばまぁ勝手にやってくれといいたいところだが、その騒動で、オズワルドが今の両親の子でないことが発覚した。オズワルドは母親の浮気相手の……彼女が熱を上げていた、マグルの舞台役者との子供であることが、知れ渡ってしまった。元々、妬みや嫉妬もあったのだろう。どうしてあんな男が魔法界の中心たるブラック家に入れるのか、大勢が羨んでいたのだろう。羨望は妬みを生み出し、妬みは嫉みとなって、晒された綻びをこれでもかと非難した。オズワルドは、もう、ナルシッサと婚約など出来る身分では無くなっていた。
「そうだって言ったら、アンタ、これから先、俺とどうするつもりですか」
 ナルシッサは、知らないのだろう。オズワルドはこのイースター休暇に、彼女の両親から直々に婚約を破棄されている。娘を騙し、惑わせ、誑かした罪を償えとまで言われている。純血でないと分かっただけでこの対応だ、婚約中は貴族でないことを見下されはしても、こんなあからさまに侮蔑されるようなことはなかったのに、突然手のひらを返されては流石に頭にもくるし、不快にもなる。その苛立ちの儘に、オズワルドはつい、冷たく冷えた銀細工のような声音を投げ付けた。本当は、多分、怖かったのかも知れない。ナルシッサの両親は、純血でないオズワルドを拒絶した。純血主義のナルシッサも同じことをしないと、どうして信じられるだろう。傷つく前に突き放せばいい、そうすれば傷は浅くてすむ。そうやって冴え冴えとした刃を携えたオズワルドに、ナルシッサは真っ直ぐに向き合った。
「どうするって、どうもしないでしょう。私と貴方は、婚約してるのよ」
「……え?」
 オズワルドはぽかんと瞳を見開き、気の抜けた声を上げて彼女を見返した。ナルシッサはオズワルドが何かを言う前に、畳み掛けるようにして続きを言い連ねる。
「どうするつもりって、貴方こそ私とどうするつもりだったのよ。まさか婚約破棄なんてするつもりじゃないでしょうね。冗談じゃないわ!そんなの恥じゃない!貴方、私を本命に捨てられた無様な女にするつもり!?」
「え、え?あ、いや、そんなつもりじゃ……」
 捨てられたのはどちらかと言えばオズワルドなのだが、そうとは知らないナルシッサは止まらない。
「絶対嫌!別れてなんてやるもんですか!もしかしてお父様達に何か言われたの!?だったら私が言うから!だから、だから……っ、」
 そこまで言って、ナルシッサは震えた声を堪えるように両手で顔を覆い、力無く首を振った。
「……別れるなんて、嫌よ」
 無音の廊下に、ナルシッサの嗚咽だけが木霊する。オズワルドはしばらく呆然と彼女を見つめていたが、その内に力が抜けたように柱に凭れかかった。彼女の言葉が今頃になって重みを増し、オズワルドの身体を押し潰していく。オズワルドは魂を抜かれたように唖然としながら、酩酊したような足取りで静かに彼女へと歩み寄り、そっと様子を伺うように言葉を零した。
「あの……先輩?あの、俺と結婚するって意味、分かってます?」
「ば、馬鹿にしてるの!?分かってるに決まってるでしょう!」
「え、いや、だって……あの、アンタ、下手したらブラック家と縁切り、ですけど……そんでもって俺も家を追い出されそうなんで、多分どこにも頼れませんけど……」
「それが何!?」
 意味が分からない。ナルシッサが何を言ってくれているのか、オズワルドの脳はほとんど理解出来ていなかった。
「……いや、あの。ほんと、あの、良いんですか。そりゃまぁ、俺は魔法省に推薦貰ってますけど、こんな騒ぎがあったから出世は厳しいと思いますし……」
「っ、何よ!わ、私の気持ちが、信じられないって言うの……!?」
「っそうじゃなくて」
 そこまで言って、今度はオズワルドがぐしゃりと髪を掻き上げて、自らを落ち着かせようと浅い呼吸を繰り返す。泣きそうなナルシッサの瞳は今にも水滴が零れ落ちそうなのに、その光はあまりに強くて、魂ごと貫かれたような気分だった。ヒステリックに叫び散らすその甲高い声も、今ばかりは心地いい。好きだ、と思う。愛してる、と心臓が叫ぶ。嗚呼駄目だ、今度彼女をこの腕に抱いたら、きっともう二度と手放せない。オズワルドは殆ど絞り出すようにして言葉を続けた。
「……そうじゃ、なくて。好きだから。一回そんなこと言われたら、もう離せないというか……アンタ、お嬢様でしょう。フォークより重いものもったことなさそうなお嬢様なのに、良いんですか、貧乏生活ですよ。色々将来考えたら、悠々自適な生活なんて無理ですよ。一回、手に入れて、やっぱり無理なんて言われても、それこそ無理です」
 好きだから、側にいたい。好きだから、一緒にいたい。でも、そうやって手に入れて、また手放すことになったら、きっとオズワルドは耐え切れない。もう嫌だと言っても、ナルシッサを帰してあげられないかもしれない。好きな人を苦しめると分かっていても、それでも捕まえていたいだなんて、そんなのどちらにとっても地獄だ。オズワルドはナルシッサを苦しめたい訳では無い。
「あのね、……環境って、重要だと思うんです。アンタみたいな生粋のお姫様が、庶民生活なんて無理ですよ。俺だって家が家なんでそれなりに贅沢してきた身ですから、怖いのに、アンタ大丈夫なんですか。仕立て屋、呼べませんよ。下手したら古着ですよ。料理、作れますか。掃除も、洗濯も、ねぇ、全部自力なんです。……出来ますか。俺一人の為だけに、全部、捨てられるんですか。……、…純血でもない、俺なんかの為に」
「……私、私は。綺麗なドレスより、美味しいケーキより、華やかな賛美より、……貴方が、オズワルドがいいわ」
 オズワルドが目を見開く。ナルシッサはもう、泣いていた。
「っ確かに、私は、料理なんて出来ないし、掃除も、やったことないし、働くなんて思ってなかったから今からお仕事探さないといけないけど、でも、頑張るから!」
 ぽたぽたと滴る水滴は余りに綺麗で、はらはらと金色の睫毛を濡らすその様は宗教画の天使よりも神々しい。そんな美しいおんなが、全てを捨ててでもオズワルドが欲しいと泣いている。オズワルドだけが欲しいと、泣いている。絶頂にも似た昂揚が一気にオズワルドの内部を駆け巡って、オズワルドは無意識に唾液を飲み込んで喉を鳴らした。
「私、貴方だけは、純血だとかそうじゃないとか、そんなのもう、どうでもいい」
 もう駄目だと、心より先に身体が理解する。ふらふらと彼女の方に歩み寄って、加減の効かない儘に抱き締めた。ほとんど抱き潰すようなその強さにも、ナルシッサは文句一つ言わずに抱きしめ返してくれる。好きだ。好きだ、好きだ、好きだ、愛してる。彼女が欲しい、彼女と生きたい、彼女の全てを、手に入れたい。
「……愛してる、ナルシッサ。俺と生きて。俺のものになって。……俺と、結婚して下さい」
「……っ、喜んで」
 堪らずに掻き抱いた彼女の、その柔らかな唇へと、泣きそうになる息苦しさを堪えて、己のそれを押し付けた。
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