リリー・エバンズが彼と最初に出会ったのは、幼馴染のセブルス・スネイプの紹介だった。どうも、と酷く淡白そうに言葉を零したその少年の、何だか奇妙に寒々しい感触は今でも脳裏に残っている。少年の名前はオズワルド・グレンヴィルと言った。レイブンクロー生らしい。歳はリリーと同じで、成績はいつも上位に食い込む、所謂優等生。友達なのかと問えば、二人は何とも言えない表情でお互い顔を見合わせた。
「友達、というか……」
「偶に顔を合わせる程度というか……」
「偶に授業でペアを組む程度というか……」
「まぁ、そんな感じ……」
 偶然だった。たまたまセブルスとオズワルドが、図書館で出会って同席した。たまたま、オズワルドが通路からは死角の席に座っていた。たまたまリリーが、セブルスを見つけて声を掛けた。知り合い以上、友人未満。セブルスとオズワルドはそんな曖昧な関係だったが、それでも結果的に、リリーはセブルスを介してオズワルドと知り合ったし、オズワルドもセブルスを介してリリーを知った。
「初めまして、リリー・エバンズよ。寮はグリフィンドール。セブルスとは幼馴染なの、よろしくね」
 愛らしく微笑む、その人好きのする微笑みが。柔らかなその声音が、流れるようなその髪が、新緑のような美しい瞳の宝石が。出会ったときの温度を忘れられないリリーと同じように、オズワルドの網膜にも残っている。


 リリー・エバンズというその少女はどうにも社交的な性格のようで、あれ以来オズワルドを見かけると積極的に挨拶をしてくれるようになった。最初はかけられた声に挨拶を返すだけだったオズワルドも、徐々に釣られてその内に自分からリリーに話しかけるようになっていった。多分、二人は、友人だったと言えるだろう。寮は違えど、勉強をするのが苦ではないという二人の性格は案外上手く合致し、時々図書館で待ち合わせて互いに片付けた課題を見せ合ったり、次の授業の予習をしたり、時には新たな魔法の可能性について侃々諤々と語り合ったりもした。そう頻繁では無かったけれども、それはとても楽しい時間だった。
 一度だけ、一緒にホグズミードにも行ったことがある。勿論、二人きりではない。大勢と行くことを計画していたリリーのグループに半ば引っ張り込まれるかたちでオズワルドが入り、そこにオズワルドの友人も加わって、結果的に十数人の大所帯になった。楽しかった、と思う。とても騒がしかった。ホグズミードに着いて直ぐ一人が忘れ物をしたと騒ぎ、三本の箒に入れば今度は誰かが杖が無いと騒ぎ始め、ゾンコに行きたい男子とハニーデュークスに行きたい女子で揉めて、何故かオズワルドは荷物持ちで女子グループに入れられた。訳が分からぬまま人混みに揉まれてぐちゃぐちゃにされたオズワルドに、大笑いしながらバタービールをくれたのが、リリーだった。
「っ、ふふ……貴方、髪の毛凄いわよ、ふふっ」
「……お気遣いドーモ。てか今酷いのは知ってる」
「災難ねぇ、女子チームに入れられて。荷物潰れてないかしら?重くない?」
「ちょっと潰れたかも。まぁ、でも、重くは無いよ、俺だって男だから、アンタらよりは力あるし」
「ふふ、そうね、荷物持ちありがとう」
「こいつでチャラにしとくさ」
 一気飲みしたバタービールは半分しか残っておらず、グラスを揺らして小さく溜息を吐く。うんざりした調子ではあったが、それほど退屈を覚えているようには見られなかった。オズワルドは一人でいるのを好む方ではあったが、別段大人数が苦痛という訳でもない。積極的に輪を作り出すタイプでも無いが、輪に入れば入ったで上手く立ち回る性質だ。飄々と会話を交わし、時に受け流し、気付けば何処かに行ってしまうのに、気付けばまたそこに戻っている。どちらかと言えば輪を好むリリーにとって、このタイプは少しだけ珍しかった。恐らく、間にセブルスのような人間を挟まない限り、普通に過ごしていたら知り合うことは難しかっただろう。或いは、既にこういうタイプがリリーにとって珍しくなくなった頃合にしか、出会うことはなかった。
「ねぇ、オズワルド」
「うん?」
 リリーにとって、オズワルドは未知の人間だった。セブルスほど個人主義でもなく、かと言って周りの友人ほど社交的でもない。勿論、悪戯仕掛人達ともまた違う。だから、正しい距離が掴みにくい。それでも、何となく視線が追う。
「また、来ましょうね」
「嗚呼……次はもっと静かにね」
 知りたいと思う。その思考回路を、生き方を、或いは価値観を。そんな、オズワルドに抱いた少しだけの興味は、年月を重ねてオズワルド以外の、よく似た性質を持つ誰かに出会ってもなお、変わらなかった。


 時間は巡って、六年生になった。リリーにとってのオズワルドは、相変わらず、少しだけの興味を引く友人という立ち位置で落ち着いている。闇の魔術に対する防衛術の試験が終わり、わらわらと生徒を吐き出す扉の前で、リリーはオズワルドを見つけてその肩をぽんと叩いた。
「ハイ、オズワルド、試験の出来はどうだったかしら?」
「リリー。嗚呼……まぁまぁ、ってところかな。防衛術はそこまで苦手じゃないし、どっちかというと、この後の変身術の方が不安だな」
「変身術、苦手だものね、貴方。よかったら一緒に来てちょうだいよ、この後みんなで、そこの湖で涼みがてら復習するの」
「嗚呼、いいよ」
 オズワルドは、もうリリーのグループに混じるのは慣れっこだった。早々頻繁という訳ではないが、非日常と呼べるほどでもない。彼女の友人達は彼女によく似て朗らかで快活だし、オズワルドの成績がリリーと並ぶほどに良いと知っているからか、試験前にはむしろ積極的に引っ張り込まれる。そうしていると、いつもレイブンクローの友人達も入って来るのが常だった。だが、今日に限って彼らが現れる様子は無く、オズワルドは一人女子の集団に混じりながら廊下を歩いた。
「グレンヴィル!ちょうどいいところに来てくれたわ!ねぇ私この問題が分からないの……!」
「私も聞きたいことがあるの!ねぇ、さっきの第十問ってこれで合ってるかしら?ねぇお願い確かめてちょうだい!」
「ちょ、待って、順番にして」
「相変わらずモテるわね、貴方、試験前だけ」
 リリーに誘われて水辺に向かった途端、ソックスも靴も脱いで戯れていた少女達がぱあっと表情を明るくしてオズワルドの周囲を囲った。茶化すようなリリーの言葉に、困ったように押し付けられた試験用紙を抱えながら溜息を吐く。確かに、オズワルドは試験前だけモテる。成績の良い生徒の避けられない定めだ。特に知識のレイブンクローという寮カラーが、他寮と比べて集られる頻度の高さの理由だろう。オズワルドと女子生徒達がしばらく試験問題や教科書を片手にあーだこーだと話していた最中、やおら向こうの方が騒がしくなって、リリーとオズワルドはほとんど同時にそちらを向く。不自然な人だかりが出来ていた。囃し立てるような嫌な歓声、そして飛び出す呪文の声に、リリーがぱっと立ち上がって急いたように飛び出していった。
「え?リリー?」
 共にいるときにこのような出来事が起こるのは初めてで、オズワルドは少しだけ驚いたように瞳を瞬いたが、直ぐに慌てたように立ち上がってリリーの後を追った。彼女の友人達も、めいめいに荷物を抱えてリリーとオズワルドを追う。人だかりの原因は、やはりと言うべきか何というか、スリザリンとグリフィンドール、壊滅的に仲の悪い二寮の諍いだった。両方とも見覚えがある、片方はセブルス、今でもオズワルドにとっては、微妙な距離を保ったままの知り合いだ。そして、もう片方は、校内でも有名な悪戯仕掛人、その主犯格の二人、ジェームズ・ポッターとシリウス・ブラックだ。直接的な面識はないし、そこまで興味も無いが、これほどの有名人ならオズワルドだって知っている。嗚呼、そうか、そういえば。セブルスはあの悪戯仕掛人から性質の悪い嫌がらせを受けていると、小耳に挟んだことがあったっけ。引っ張り出した記憶を手繰り寄せながら、オズワルドは飛び出したリリーがセブルスを庇って啖呵を切り、悪戯仕掛人の二人に杖を向けているのを見て少し心配そうに眉を顰めた。自寮の、それも女子に攻撃するとは思いたくないが、やはり気がかりでオズワルドは自分のローブへと片手を滑らせ、いつでも取り出せるように杖を握る。けれど、控えた手のひらと違い、実際に動いたのは、何の準備もしていない、ただの手のひらだった。


「あんな汚らわしい『穢れた血』の助けなんか、必要ない!」


 その言葉が響いた瞬間、ぱん、と乾いた音が廊下に響く。誰も彼も、声すら出せずにその場に立ち尽くしていた。彼は、セブルスの頬を叩いたオズワルドだけは、常の無表情を大きく歪めて湧き上がる感情をギリギリで塞き止め、浅くか細い呼吸を早めて大きく肩を揺らしている。リリーは小さく息を飲んだ。
「……っ、」
 オズワルドはしばらくセブルスを睨みつけていたが、両目を見開いたまま一歩も動けずにいるリリーをぱっと振り返り、彼女の手を掴んで走る。
「えっ……!?」
 強く、強く、悔しそうに熱の籠められた手のひらが余りに熱くて、リリーは息を呑む。そのまま彼に従ってどこまでも廊下を走った。観衆の困惑したような声など、今は遠く、二人には聞こえない。眼前のその背中が、どうにも大きく見えて、何故だか泣きそうになる。そうして、どこまで走っただろうか。見慣れぬ、人気のない廊下の端までくると、そこでようやくオズワルドは足を止める。呼吸は先ほどより乱れていたが、それを直す間も無くオズワルドは掴んでいた手首を引き寄せてリリーを思い切り抱き締めた。

「っ、……、……ごめん」
 オズワルドの声は震えていた。全身を包む彼の温度は自分より高くて、少し汗ばんでいて、リリーはどこか夢見心地でその背へと両腕を回す。彼女の腕が自分を囲うのを感じて、オズワルドの肩は一度だけ大きく揺れたが、何も言わなかった。
「っ……ごめん、アンタの友達、俺、叩いた。でも、だって、許せなかったんだ。アンタが貶められたのが、堪らなく許せなかった、言われる前に止められなかったのが、悔しかった」
 オズワルドはしばらく黙っていたが、その内に感情が決壊したように急いた調子で言葉を連ねる。リリーは小さく頷きを挟みながら、声を出さずにその告白を聞いていた。彼の口から「穢れた血」と聞こえた時、胸元を押し潰した冷たい鉛が溶け出していく。今、ようやく、自分は悲しかったんだな、と実感した。リリーの頷きには、少しだけ嗚咽が混ざっていたような気もする。
「生まれ、なんて、関係無い。アンタは強いし、綺麗だし、頭も良いし、何一つ純血の奴等に劣ったりしない。むしろ比べるべくもないほど優れてる。アンタは、俺が知る中で、最高の魔女だよ」
 オズワルドの言葉が、溶けた鉛の代わりに胸の中に降り積もって、瞼が熱くなっていく。抱き締められているのをいい事に、顔を見えないようにして静かに、泣いた。色々な感情が胸の内を渦巻いて、何と言えば良いのか分からない。悲しくて、悔しくて、切なくて、苦しくて、溺れたみたいで、手を離したら水底に沈んでしまうと言わんばかりに、オズワルドへと縋り付く。オズワルドはただ彼女を抱き締めていた。強く、強く、痛いほどに、骨が軋むほどに強いその両腕が、安心した。
「……アンタは、最高の女だよ、リリー。泣くなよ……、いや、泣いても、いい。泣いてくれよ、アンタが楽になれるなら、俺、何でもするから。何でも出来るから、アンタの為なら」
 余りにも真剣で、余りにも熱を帯びた言葉だった。こんな真っ直ぐな感情を、こんな近くで伝えられたのは、多分初めてで、リリーの瞳からは余計に涙が溢れる。もう、途中から、セブルスのことで泣いているのか、オズワルドのことで泣いているのか、分からなかった。
 好きだと言われたことは、何度もある。ジェームズには最早毎日の日課のように言われているし、時々、そんなジェームズの目を掻い潜ってリリーを好きだと言う男子も何人かいた。でも、何も思わなかった。幼馴染であるセブルスに強く当たるジェームズからの告白なんて鬱陶しい以外の何ものでもなかったし、他の人達だって、嬉しいとは思えどその先を考えようとは思えない。好かれたことは素直に嬉しい、でも、ごめんなさい、貴方のことはそういう風には思えない。そうやって断ってきた言葉達が、突然脳裏に浮かんだ。こんな気持ちで、自分を見てくれていたんだな、と思うと、また胸が震えた。ようやく分かった。好きなのだ、オズワルドのことが。好きになってしまった、この一瞬で。胸が熱くて、近くにいるのが恥ずかしくて、でも嬉しくて、触れられているだけで堪らなく苦しい。抱き締められているこの瞬間が、永遠に続けばいいとすら思う。オズワルドは、リリーに好きだと言った訳ではない。でも、オズワルドは何とも思ってない女にこんなことをするような男でないことくらい、リリーにも分かる。自分が彼にとって特別なのは分かるけれど、その種類までは分からなくて、リリーは小さく唇を噛んだ。特別の種類は、何も恋情だけではない。オズワルドがリリーに向けてくれるその特別が、自分と同じであってくれればいい。
「……ありがとう。ありがとう、オズワルド」
 掻き抱いたこの背を、抱き締めてくれるこの腕を、自分だけのものに出来たなら、それは何て幸せなことだろう。



 談話室に戻ったのが何時だったのか、正確には分からない。泣き止んだ後も、まだ戻りたくないリリーの気持ちを察してか、オズワルドはずっと側に座っていてくれた。ずっと、手を握っていてくれた。ぽつぽつと零したジェームズのこと、そしてセブルスのことを、オズワルドは黙って聞いていてくれる。セブルスに無意味な嫌がらせばかりするジェームズが嫌いなこと、セブルスが最近闇の魔術にばかり傾倒してしまっていたこと、お陰でジェームズとセブルスの仲が格段に悪くなってしまっていたこと、どれもこれも思いつくままに話したが、何となく、ジェームズがいつも自分に好きだと言っていることだけは言えなくて、意図的に黙った。変な誤解を、されたくはない。自分は本気で彼を嫌っているとはいえ、ほとんど関わりのないレイブンクローの彼からしてみれば疑いの種になりかねないだろう。リリーが好きなのは、好きになったのはオズワルドなのに、勘違いなんてされたくない。とりとめのない言葉達を、オズワルドはちゃんと聞いてくれた。そういうところが、また彼を好きにさせる。戻るときも、彼はわざわざ東棟のグリフィンドール寮まで送ってくれた。リリーは離れがたかったけれど、夜中まで付き合わせるのもさすがに憚られて、繋がれた手のひらをそっとほどいた。
「……あの、オズワルド、今日は本当にありがとう。……また、明日」
 早くまた会いたくて、また明日、と言った。いままではまたね、と言って別れていたこの変化に、彼は気づいてしまっただろうか。少しだけ恥ずかしくて、居心地が悪くて、指先が無意味に髪を弄る。嗚呼そういえば、今日は余り丁寧に髪の手入れをしていなかった。跳ねてしまっていたかも知れない、明日はもっと綺麗に髪を整えて、それからお化粧も可愛くして……嗚呼、彼の好きな色は何なんだろう。アイシャドウは青?それとも女の子らしいピンク?大穴で紫?口紅は何が好き?ぐるぐると余計な思考が巡る中、オズワルドは珍しく、少し笑ってリリーを見つけた。
「……迎えに、来る、明日」
「……えっ?」
「勿論、その……迷惑でなければ、だけど」
「う、ううん!迷惑な訳ないわ!その、……う、嬉しい、待ってるから」
 意外な彼の言葉に、思わず頬が朱に染まる。これは、脈あり、と捉えて良いはず、だ。リリーは内心でガッツポーズをして、自分の心境が見せる願望か、名残惜しげに去ろうとする彼から目を離さず、はにかむようにして小さく手を振った。
「……また明日、ね」
「……また明日」
 オズワルドが去った後も、リリーはしばらくそこから動けなかった。談話室に戻るときも、何だか夢見心地で、上手く思考が働かない。彼と離れてしまえば、頭の隅に追いやっていたジェームズのこととか、それからスネイプのこととかが中心に戻ってきてしまって、リリーは思わず溜息を吐く。
「あの……エバンズ……」
 談話室には、ほとんど誰もいなかった。誰もいなければ良かったのに、リリーを待っていたのか、今は余り会いたくない人物の声が聞こえて、リリーは思わず顔を背ける。
「……悪いけど、今貴方と話す気分じゃないの」
 ジェームズはいつも、リリーを好きだと言う。その好きの程度がどのくらいか、リリーには分からない。彼はいつも、出会うと軽快に好きだと言うから、判別が付かない。長年続いているから、多分本気なんだろうな、とは思う。でも、今のリリーにも、本気の相手がいる。色々な意味で、今は会いたくなかった。リリーの言葉の本気を悟ったのか、ジェームズはいい夢を、とだけ言って男子寮へと消えていく。気遣いは出来る人なんだな、と思う。どうしてその慮りをもっと発揮してくれないのか、と、リリーは力なく笑った。嗚呼もう頭がぐるぐるする、早く寝てしまおう。明日は彼が迎えに来てくれるのだから、可愛く支度をしなければ。




「……何で君が此処にいるのかな」
「さぁ、アンタにそれを言う筋合い無いと思うんだけど」
 どうしてこうなった。いつもより早く起きて同室の子ときゃあきゃあ言い合いながら身支度を整え、少し浮ついた足取りで談話室から出ると、そこにはジェームズとオズワルドがいてあからさまに険悪な空気が漂っていた。真っ先に降りて来たリリーに気がついたジェームズが「エバンズ、おはよう!今日も君は可憐な花のような美しさだね!」と叫んでいるのを無視して辟易とした様子のオズワルドの元へと駆け寄る。
「ご、ごめんなさい……!待たせちゃったわね、それに、あの……この人に絡まれて……」
「おはよう、嗚呼……別に。毎朝元気だよね、この人」
「元気過ぎるほどにね」
「はぁ!?何で君達そんな親しそうな訳…!?」
 ぎゃんぎゃんと談話室の前で騒いでいる所為で、何だ何だと見物人が集まってしまっている。いや、オズワルドとジェームズだけの時から人だかりはあったのだが、そこにリリーが加わったことでいっそう騒ぎが大きくなってしまった。特に、昨日の騒動を知っている人間からしてみれば、因縁のような三人なのだから噂にもなるだろう。ジェームズが、リリーを好いているのは周知の事実だった。けれど、彼らが揉めたときに、リリーを連れ去ったのはオズワルドだった。その翌日にリリーとオズワルドが待ち合わせなんてしていたら、噂好きでない生徒にも何かあったのだと思わせるに十分だろう。
「行こう、リリー、朝食に遅れる」
「そうね、行きましょう」
「ちょっと!っていうかレイブンクローとグリフィンドールはテーブル違うからね!エバンズ僕と食べようよ!」
 騒がしい。せっかく可愛くしたのに、これではゆっくりメイクを見てもらうことも髪を見てもらうことも出来やしない。溜息を吐いて、早足で大広間へと向かった。


 大広間は今日も生徒で溢れている。ジェームズの言った通り、レイブンクローとグリフィンドールでは座る席も異なるので、二人は大広間に着いてすぐに離れてしまった。当然のように隣を陣取るジェームズを無視して食事を摂りながら、リリーはほとんど無意識にスリザリンのテーブルへと視線を向けた。セブルスは、いない。もう食べ終わってしまったのか、それとも今日は来ないのか。彼のことを考えると、昨日の言葉がどうしても頭を巡る。穢れた血、と、セブルスはリリーをそう呼んだ。ずっと。ずっと、そう、思っていたのかな、と、考えたくもない感情が溢れて、リリーは思わずパンを食べようと動かしていた手を止める。幼馴染、だったのに。リリーはセブルスを、好きだったのに。セブルスは違ったのだろうか。今までの彼との時間が全てその言葉で否定されてしまったようで、堪らなく胸が苦しい。ずっと仲良く、していたかったのに、もう叶わないのだと思うと、涙が溢れそうになって、慌ててゴブレットのかぼちゃジュースを煽った。だって、生まれなんて、どうしようも無いじゃないか。マグルの両親であるあの二人から生まれて、両親と妹であるペチュニアと育ったリリーだったからこそ、リリーなのだ。その全てを、よりによってセブルスに否定されて、裏切られたような苦しみが胸を押し潰す。セブルスは、未来の死喰い人だなんて噂される集団と、ここ最近ずっとつるんでいた。リリーが何度言っても、止めてくれなかった。闇の魔術自体も嫌いだが、そこまではまだ良い。昔からセブルスを知っているリリーだから、ただ、闇の魔術が好きだというだけなら、分かり合えない好みはあっても問題無く付き合いを続けていられただろう。でも、彼の交友関係は、駄目だ。彼らはリリーを根本から否定する。生まれというどうにもならない部分で、否定し、拒絶し、侮蔑する。許せなかった。リリーにだって、プライドはある。いや、そのプライドは、多分常人より高いものだと言っても良い。そんなもので否定されて、黙って差別に甘んじていられる性質じゃない。そんな純血主義の一団とセブルスが仲良くするようになってから、リリーの頭の中は疑問でいっぱいだった。どうして、どうして、ねえセブルス。私を否定して、侮蔑して、差別する人達を、どうして許容してしまうの。どうして、他人を傷つけることを楽しむ人間と、関係を築けるの。苦しかった。悲しかった。寂しかった。自分はセブルスにとってその程度なのだと突きつけられたようで、どうしようもなく胸が痛かった。自分の信じていた、セブルス・スネイプという人間が、死んでいくようだった。それが、昨日で決定的になってしまった。セブルスにとって、自分は被差別側の人間なのだと、突きつけられた。リリーは、プライドの高い人間だ。差別されても、それでもいいと、誰かに寄り添える人間では無かった。多分、許すことは、出来るけれど。例えば、今、セブルスが、純血主義の一団と手を切って、もう彼らとは付き合わない、酷いことを言ってごめんと、そうリリーに謝ったなら、多分、リリーは許せた。言われた言葉は悲しかったけれど、それよりもセブルスが戻ってきてくれて嬉しい、と、彼を抱擁出来た。だけどそれは、現実的には有り得ない。例え謝ったとしても、セブルスがあちらと付き合ったままでは、もう駄目だ。リリーはもうセブルスを信じられない。行動の伴わない言葉を信じられる期間はもうとっくに過ぎた。生まれた亀裂は二人の立ち位置を崩して、別々のところへと追いやってしまった。

 小さく頭を振って、セブルスのことを思考回路から振り払う。次に、隣で話しかけてくるジェームズを無視して、レイブンクローのテーブルへと視線をやった。いた。オズワルドの姿を直ぐに見つけて、沈んだリリーの心は少しだけ持ち上がる。あの時。セブルスに拒絶されてしまったあの時、自分を引っ張り上げてくれたのは、オズワルドだった。脚元が崩れるような感覚から、リリーを救ってくれた。生まれなど関係ない、リリーは素晴らしい人間だと、手放しで自分を受け入れてくれた。側に、いてくれた。憎からず思っていた相手にそんなことをされて、嬉しくないわけがない。自分が彼を好きになるのは必然だとすら、リリーは思った。オズワルドは優しい。オズワルドは自分を認めてくれた。オズワルドは許容してくれた。オズワルドは、リリーのことを考えてくれた。彼はどこまでも平等だった。何をすれば、返せるだろう。彼が与えてくれた、あの湧き上がるような安堵感を、どうすれば返せるのだろう。そんなことを考えていると、不意に、目が合った。オズワルドはリリーを見て小さく手にしたチキンを揺らす。それだけで、こんなに簡単に舞い上がってしまうこの幸福を、いつか彼にも返せたらいい。


 リリーとセブルスが大きく揉めるのではないかとオズワルドは心配していたが、その予測は外れて二人は完全に交友を断った。リリーは、もうセブルスとは付き合い切れないと思ったのだろう。本当は、セブルスはリリーに謝りに行ったが、リリーは決して許さなかった。いや、許せなかった。言葉だけの謝罪など、もう聞きたくなかった。例えセブルスがリリーだけは「穢れた血」と別物だと告げようが、そんな特別、リリーは嬉しくもなんともない。幾ら彼が言葉を重ねようと、他を差別するセブルスの態度を、もうリリーは許せない。高潔で、悪を許さぬその気高さがあったからこそ、きっとオズワルドは彼女を好きだった。
 あの日、あの時。セブルスがリリーを「穢れた血」と呼んだ時。オズワルドは本当は、あんなことをするつもりではなかった。一応、セブルスとオズワルドは、友人とは呼べないにしろ、ただの知り合いよりは親しい筈の関係だ。リリーには決して言えないことだが、正直言って、オズワルドは純血だのマグルだのといった諍いに余り興味がない。興味がない、というのは良い意味では決してなく、つまりはどうでもいいのだ。誰が差別されようが、誰が傷つこうが、誰が憤ろうが、オズワルドは構わない。だって、オズワルドには関係ない。だからセブルスと一緒にいたし、彼がスリザリンの、所謂純血主義者のグループと付き合っていたって一向に構わなかった。だって、どうでもよかったから。オズワルドは一応、純血と認識されている家の子供で、彼らの差別の対象には入っていなかったから。自分さえよければ、それでよかった。


 それなのに、どうして。どうしてあんなにも自分が憤ったのか、オズワルドには分からない。何がそんなに悔しかったんだろう、何がそんなに悲しかったんだろう。――――嗚呼、そうか。彼女、だったから。リリー・エバンズという、オズワルドにとって、どうでもよくない人間だったから。だから、あんなにも感情が揺さぶられた。彼女を傷つける何もかもが、許せなかった。彼女を害する何もかもから、守ってやりたいと思った。自分以外に、初めて気に掛けるものが出来た。他人の為に憤り、涙し、悲しむことの出来るリリーが、好きだった。自分にはない、その優しさと強さ、そして高潔さが、堪らなく眩しかった。だけれども同時に、自分は決してグリフィンドールにはなれないだろうなぁ、とも思う。彼女を連れ出した勢いで結構な事を言ってしまったが、リリーは、こんな勉強するだけしか能の無いつまらない男より、もっと彼女と比叡するような勇敢な……そう、同寮の男の方が、いいんじゃないか、なんて余計なことばかり考えてしまう。でも、リリーは基本的に聡明な女性だ。あんなことをしてしまった以上、もう既に、オズワルドが彼女に特別な感情を抱いていることくらい、バレているだろう。その上で、迎えを断らなかったのだから、少なくとも拒絶はされていない筈だ。リリーは、自分に好意を抱く男をいたずらに煽って、弄んで、愉しむ類の人間ではない。別にそういう上手な女の子が嫌いという訳ではないけれど、彼女に限っては、そこで惚れた訳ではない。何も言わないままぬるま湯のように日々を過ごすか、オズワルドは悩んでいた。どうしたらいいだろう、関係を壊すのも憚られるが、このまま黙って日常へと戻っても、どうせその内耐えられない瞬間が来る。彼女に触れられずにはいられないその瞬間に、自分が何かしてしまわない内に、けりを付けてしまった方がいいのではないか。ぐるぐると巡るその思考は、しかしある日のリリーの一言によって崩れてしまった。

「……え?」
「あの……その、だから、もしよかったら……一緒に、ホグズミード、行きましょう?」

 抱えた本を取り落しそうになったが、ぎりぎりのところで留まった。予想外の彼女の誘いに、きゅう、と胸の中が痛くなる。気付けばオズワルドは、瞳を伏せてどうにも言い逃れの出来ない決定的な台詞を口にしていた。
「……二人、なら。一緒に、行く」
 そう言った言葉の意味を、多分、彼女が分からない訳が無い。
「っ、……ええ、喜んで!」
 花咲くように笑うリリーの、その華奢な手を取って、引き寄せた。あの時とは違い、優しく、その気になればいつでも抜け出せるような弱さで彼女を掻き抱く。リリーは拒まなかった。
「……あの、さ。俺、アンタのこと……好き、なんだけ、ど……」
 情けないくらいに、乞う声が震えそうになる。願ってしまう。どうか、どうか、頷いて欲しいと、祈ってしまう。自分がこんなにも彼女を欲していたのだと、思い知ってしまう。ふわりと香る彼女の香りが、痛いくらいにオズワルドの心臓を締め付けた。
「恋人として、一緒に行ってくれる?」
 返答が返るまでの数秒間は、多分今日一番長かった。少しの間を空けて、リリーはそっと顔を上げ、オズワルドと視線を合わせる。その頬は淡く薔薇色に色づいていて、気恥ずかしそうに瞳が揺らいでいる。殆ど反射的にオズワルドの心臓が高鳴った。ぎゅう、と、リリーを抱きしめる腕に力が篭る。
「ほ、ホグズミードだけじゃなく、て……もっと、たくさん……何処にでも、貴方と一緒に、行きたいわ……貴方の、恋人、として」
 嗚呼、可愛い、もう駄目だ。好きが溢れて、もう駄目だった。オズワルドの頬が赤く染まる。何度好きと繰り返してももう足りない、零れそうな感情を全部呑み込んで、オズワルドはリリーに口付けた。
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