噂話


 ある梅雨の日のことである。その日は記録的な大雨だった。おまけに、雨だけでなく恐ろしく蒸し暑かった。豪雨なので窓も開けられず、先日まで雨の所為で肌寒かったので、エアコンも正常に稼働していなかった。付けると妙な音がするというので、全面的に使用禁止になったという不運さだった。余りに蒸し暑いので、誰も彼もがぐったりと突っ伏しているし、今日ばかりは教師もだらしない生徒達に余り口煩く注意をしなかった。むしろ、彼らの方が参っていたようにすら思う。とにかく酷い、雨だった。そんな雨だったものだから、勿論、グラウンドを使用する部活――――野球や、サッカーなどは部活中止で、体育館はバスケ部やバレー部に取られていたものだから、自主練も出来ずに大抵の部員は早めに帰宅したように思う。その中で、彼だけは学校に残っていた。一人教室にいた理由は大したものではない、単純に、課題を忘れてちょうどいいからと残されていただけだ。
 苦手な数学のプリントを解き終わった頃には、どのくらいの時間が経っていただろうか。運悪く、彼の教室の時計は昨日から壊れて取り外されているため分からない。辺りは薄暗くなっていたが、雨の所為もあるため思ったより遅くは無いのかも知れない。とにかく、周囲は暗かった。グラウンドを使う部活が無いため、学校自体も静まり返っていた。こんな雨の日に、わざわざ残ろうと思う生徒も少ないだろう。いるのは職員室の先生か、体育館の部活生か、あるいは図書館の当番か、そんなものだったと思う。誰も居ない廊下を、彼はのんびりとした足取りで歩く。彼の教室は四階で、一番上にあった。職員室は二階の反対側なので、歩くとそれなりの距離がある。咥内は本当に、静かだった。

 三階に差し掛かった頃だろうか、彼は雨音の中に、何か甲高い音が紛れているような気がして、ふと顔を上げて周囲を見渡した。何か、風のような、ひょうひょうとした音が流れている。強い雨音の中に掻き消されそうだったが、辺りが静かなので、その音は奇妙によく聞こえた。小さな好奇心で、彼はその音の出所を探して周囲を見て回った。別に、大して興味があった訳ではない。数分探して、見つからなかったら大人しく職員室に向かう心積もりだった。けれど、彼は見つけてしまった。気付いてしまった。音は、窓の外では無く、内側から響いている。そして、徐々に大きくなっている――――徐々に、彼に近付いている。何故かは分からないが、彼は殆ど反射的に"やばい"と感じた。激しく硝子を打ち付けるような雨音がさらに強くなる。逃げよう、と思うその前に、それは彼の前に現れた。
 それは、女だった、と思う。思う、という曖昧な表現が混じるのは、その気配が余りに冴え冴えとしていた所為だった。それは、何の前触れも無くそこに現れた。彼の目の前にある廊下の突き当り、階段のある辺りを、すうっと横切ったのである。
 そんな筈はない、まさか、そんな。あの階段の向かい側には、壁しかない筈なのに。
 ぞわりと背筋を震わす彼の耳元で、またひゅう、と風が抜けるような音が響く。雨の音がする。激しい雨音が、彼の鼓膜に叩き付けられる。彼の様子を見に来た教師が声をかけるまで、そこでずっと佇んでいた。雨はもう、随分と静かになってしまっていた。


 雨の日に女を見る、という噂は静かに満ちるように広がっていた。大抵、それは決まって静かなところに現れる。基本的にはただふっと現れて消えていくだけだが、時々話しかけてくることもあるらしい。何かを知らないかと聞かれるらしいが、雨の音が酷くて何を探しているのか聞き取れないのだそうだ。
「ねぇ、貴方……  を、  して、しまったの……知らない?」
 水の落ちるような、静かな声でそう問いかけるのだという。彼の見た女は着物を着ていたが、どうやら普通の洋装を時もあるらしい。黒髪で、前髪が長く顔は見えないが、異様に青白い肌と血の気のない唇をしているのは共通しているようだった。
 噂は大抵の怪談話の例に漏れず、梅雨時から夏の終わりまで流行って、そしてゆるやかに衰退した。秋になると雨が減ったというのも大きいかもしれない。それとも、あの女が探し物を見つけて満足したのだろうか。するすると波引いていったあの女のことを憶えている人間は、もうあまりいない。それでも、どうしても、彼は、あの日見た女の寒々しい温度を忘れられないでいる。もう雨は雪に変わる、そんな季節になってしまった。黒曜中に通う少年は、雪降る窓を見詰めて小さく溜息を吐いた。


 同じ噂話が、時を置いて並盛でも流行った。あの頃から、どれくらい経っただろうか。今回もそう時を置かずに噂は消えたが、それから何度か、ぽつりと雨が落ちるように女は現れた。決まって、並盛か、黒曜にしか、その噂は流行らない。女はピンポイントでこの二つの土地にしか来ないらしい。その拘りはよく分からないが、他の場所では今まで一度も聞いていない。女は一体、何を探しているのか。何処から来て、何を求めているのか。誰にも分からないままに、今年も怪談の季節がやってきた。

「なぁ知ってる?雨の日にさ、女が出るんだってさ……」

 噂は人を伝い、人と人との間を辿って、少しずつ形を変えて蔓延していく。黒曜中学を卒業し、並盛高校に進学していた彼は、懐かしい噂を聞いてふと足を止めた。嗚呼、そうか。彼女はまだ探しているのか。時間という概念を忘れたようなその存在そのものに、何故だか酷く寂しい気持ちになった。
 早く、彼女の探し物が見つかればいい。今日も雨は止まない。
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