失くした記憶


 雲雀は偶に楽器を触る。普段、鈍器を持って易々と振り回し自分よりも屈強な男達を大勢地に沈めている男とは思えないほど繊細に、細い指先で静かな音を出す。ピアノやヴァイオリンといった、ある意味メジャーな楽器でなく、嗜む人間の限られそうな琴を弾くと聞いた時は、ディーノは思わず仰け反りそうになった。
 余りに、似合わない。それなのに、雲雀の奏でる音はどれもこれも、何処か神聖だった。どんな楽器でどんな音を出しても、何処と無く旋律が和風に偏る。神社で流れている音に似ている、と思ったが、音楽には余り詳しくないので何の曲かは分からなかった。神聖に聞こえるのに、何処か禍々しい。両極端な色を併せ持つこの曲は一体何なんだと問いかけたが、雲雀の返答は素っ気無いものだった。
「……さぁ、何だろう」
「何だろうって……そればっか弾いてるんだから、気に入ってるんじゃねえのか?」
「知らないよ。でも、僕はこの音を知っているから」
 だから弾くのだという。その曲の名も譜面も知らず、記憶だけを頼りに手を動かす。

「……ずっと前に、聞いたような気がするんだ。誰かが弾いていた気がする。雪の日に、縁側で……僕の、前で、その人が……その、人が、僕を……」
「……恭弥?」
「……、…思い、出せないんだ」
 吐息混じりの声が切なげに震える。雲雀はついに琴から手を離し、俯いて力なく床に座り込む。髪に隠れて、表情は見えなかった。ディーノは、雲雀が泣いているように錯覚して、思わず追いかけるように床に腰を下ろして彼が弾いていた琴へと視線をやった。重たそうなそれは随分と品が良い、多分、高級品だろう。この学校に琴部があるとは聞かなかったから、もしかすると彼の私物なのかもしれない。
 雲雀は一通り黙り込んだ後、また手を伸ばして琴を弾き始めた。相変わらず、俯いていてその表情は分からないが、少しだけ音が変わった。何だか物悲しい音になった、と思う。
「……水の音を憶えている、静かな音」
「水?」
「そう、せせらぎの音。水の落ちる、静かな音。そこにこの旋律が混ざる……綺麗な音だ」
 雲雀の言葉を頼りに、ディーノはその音を想像した。雪の降る日、縁側で誰かが琴を弾く。女性のような気がした。庭には小さな川が流れていて、さらさらと水が踊り、そして滝のようになって池に落ちる。日本的な屋敷の中だろうか。女性が部屋の中を覗き込むと、そこには雲雀がいる。幼い雲雀が、もう一つの琴を触っている。女は小さく笑って、琴を弾く手を止めた。

 ディーノの想像と全く同じタイミングで、唐突に、雲雀は演奏する手を止めた。余りの一致に驚いて言葉を失うディーノが声をかける前に、彼が口を開く。
「……そこは雪が降っていた。春も夏も秋も無い、少なくとも僕がいた、あの一年間だけは……」
「何だって?」
「冬にしか、行けないのかもしれないね」
 意味の解らない言葉ばかりを羅列して、雲雀は今度こそ演奏を終えた。
「貴方、もう帰って」
「は!?」
「いつまでいるのさ、そもそも部外者は立ち入り禁止だよ」
「お、お前なぁ……」
 いつも通りの彼の言葉に、脱力するというより安心したのだと言ったら、やっぱり彼は笑うのだろうか。笑ってくれていい、どこにも行かなければ。生意気で、いつまでも人に懐かなくて、一向に自分を師匠と認めてくれる気配のない、この可愛くない弟子を、それでもディーノは憎からず思っていた。だから、よくわからない何かを追いかけて、冬になったら何処かに行ってしまいそうなその気配が薄れるまで、ディーノはその場から動けなかったのだ。


「……早く、雪が降ればいいのに」
 ディーノを叩き出した後の部屋の中で、雲雀は一人、ほとんど無意識に声を出して呟く。早く、冬になればいい。何もかもを呑み込んでしまいそうな、あの静寂に包まれた銀世界が懐かしい。雲雀はそっと、窓の外に視線をやる。眩しい太陽が容赦なくグラウンドを温めている。部活生が汗を流しに、水道で水を浴びていた。まばゆい光が陽光に煌めく。まだ冬の気配も感じられない、初秋のことだった。
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