神隠し


 雲雀は何かを忘れているらしい。それは、雪の日に関係があるらしい。それから、琴も演奏するらしい。あと、縁側にいるらしい。
「……うーん、さっぱり分かんねえなぁ」
 先日、彼の口から語られたワードを思い浮かべながら、ディーノはがしがしと頭を掻いた。辺りはすっかり陽が暮れていて、学校帰りかバイト帰りか、制服姿の学生達の姿がちらほらと見受けられた。彼らの影が長く伸びて、道端の草木へと溶け込んでいく。まだ、ここには雪が降りそうにない。何とも言えない心地を抱えて、ディーノはその場に立ち尽くしていた。しかしぼんやりとしていられたのもつかの間で、僅かな微睡みは飛び込んできた声に直ぐに切り裂かれることになる。
「おっ、ディーノではないか!こんなところで何をしているんだ?」
「お、……おお、お前か、了平。吃驚したぜ、こんなところで何をしてたんだ?」
「夕方のロードワークをな、本当はもう少し早く帰るつもりだったのだが、そこでヒバリと会ってつい話し込んでしまったのだ」
「え……恭弥と?お前、あいつとそんな仲良かったのか」
「おお、まあな!時々家に行っているぞ」
「……お前は、無事なんだな」
 雲雀の周りの様々な出来事を思い返して、ディーノは思わずそう呟いた。了平はその言葉を聞いて、ふと表情を暗くさせる。
「……知っているのだな、あいつの噂を」
「噂?」
「何だ、知っているのではなかったか?あいつの周りでは、よく人が怪我をするという話だ」
「いや、知っているというか……しばらく修行に付き合っていた時にな、あいつの周りは、やけに怪我人が多かったもんだから……まぁ、そっちじゃねえ妙な話は聞いたけど」
 そう、雲雀の周りには、怪我人が多い。異常なほどに、異質なほどに――――それなのに、雲雀だけは飄々とした調子でそこに立っている。大勢の屍を踏み越えて、辺りに舞い散る血潮など、何でもないように。
 ディーノは少しだけ、雲雀が怖かった。いつか彼の周りで、死人が出てしまうのではないか、なんて妄想が頭の隅に巣食って、取れないのだ。この場合の死人、は、彼自身が直接手を下した場合の死人、ではない。彼が誘発しているのかと思うほどに頻発する、その奇妙な怪我人の連鎖が、いつか悪化してしまわないか。いつか、彼の周りは死体だらけになってしまわないか。そんなことを杞憂する。馬鹿らしいことだとは、分かってるけれど。はぁ、と、ディーノは溜息を吐いた。
 どこか沈んだ空気を纏うディーノに気付いたのか、了平は少し考え込んだ後、躊躇いがちに口を開いた。
「……神隠し、の方か」
「何だ、そっちも知ってんのか」
「嗚呼……これは、俺の両親達の間で出回っていた話だから、本当かどうかは分からんが……」
 了平はそう前置きをして、人目を憚るように声を潜めた。彼のそういった態度が少しだけ意外で、ディーノは瞳を細める。
「……ヒバリは、小学校の時に、神隠しに遭ったらしい。学校で、ふと目を離した隙に。どう考えても消える筈の無い場所から姿を消し、そして一年後に戻って来た。だから奴は、一応俺達より一年歳上ということになるな」
「……ってことは、お前と恭弥は、小学校は違うのか?」
「嗚呼、あいつは確か、私立の学校に行っていた筈だ。学校自体は、この並盛にあったと思うが……そこまでは、俺も詳しくは知らん」
「そっか、ありがとな、ロードワークの邪魔して悪かった」
 気にするな、と言って、了平は再び走り出す。その背が見えなくなってしまうまで見送って、ディーノは来た道をまた引き返した。頭上の雲は薄暗く、重たげで今にも雨を落としそうに見える。何故だか、雲雀に会わなければならないと思った。


 応接室に入ってすぐ神隠しの話を切り出すと、雲雀は存外にあっけからんと「そうだよ」と肯定した。突然の訪問に小言を言うでもなく、彼は持っていた万年筆をくるりと回して眺めながら視線を空に飛ばした。
「と言っても、僕にその記憶は無いけどね」
「……記憶喪失か」
「そんなものだ」
「お前が前に言ってた、忘れてる感覚ってのは、もしかしてその一年のことなんじゃないのか。琴の音も、何らかの理由で世話になってた家の人間が弾いてたとか……」
「嗚呼、可能性は高いだろうね。それ以外に心当たりもないし」
「……お前、何でそんな簡単に……んな事情で一年遅らせたら、色々大変だったんじゃないのか」
「……は、今更」
 そこでようやく、雲雀はディーノに視線を向けた。きゅっと瞳孔が細くなって、昼間の猫のように真ん中が縮こまる。ディーノは一瞬ぎょっとして彼の顔を二度見したが、もう彼の瞳は元の妙に丸っこい黒目に戻っていた。凝視されることに訝し気にしながらも、数回唇を震えさせただけで、何も言わずに言葉を続ける。
「確かに色々と面倒だったけど、別に大して前と変化はない。……元々僕は、集団には馴染めない性質だったからね。一応、言っておくと、僕から出たんじゃない……最初は、弾かれたのさ」
 最初からここまで破天荒な訳では無かった。その気質は確かに唯我独尊で誰の手助けも必要としない潔癖なまでの気位で構成されていたが、生まれた時からこうした性質が露見していた訳では無い。静かに彼が語り出す幼い記憶は、ディーノを驚愕させるに十分だった。


 雲雀は、元々大人しい子供だった。大人しいと言っても大人が好む類の大人しい、では無い。酷く静観な子供だった。おおよそ子供らしい事をした記憶は無く、外で駆け回るよりその年頃の子供にしては随分と小難しい本を読んでいるのが好きだった。厳格な家で、通常の子供が与えられる絵本や勉強本といったものが皆無だった事も影響しているのかもしれない。妙に難しい本を己の力だけで読解していく事に慣れ過ぎた雲雀は、絵本だなんてあんまりにも馬鹿馬鹿しくて手を付けることさえしなかった。義務教育とされる小学校に入るまでは幼稚園や保育所になんて世話にならず、家の使用人が面倒を見ていたものだから、随分と不遜な子供に育ってしまっていた。そういう態度こそが求められる家柄だったんだ、と小さく彼が付け足す。
 けれどそれは、随分と格式ある小学校に通ってもなお、異端とされる気質だった。協調性のきの字も無い、他者などまるで慮らず、世界の全ては自分の思い通りとばかりに動き回る。実際、彼には生来の才能が備わっていたから、また厄介だった。例えば格式あるマフィアのボスをして底なしの成長と言わしめる戦闘能力、言い換えれば運動神経。未来の世界では一人未知の匣を研究し世界中を飛び回ることの出来る頭脳。他人の手を借りることを群れると称してよしとしない彼が全てを一人で賄っていたのは明白で、だとすればある程度の言語能力と研究知識をあの歳で持っていたという証明に相違ないだろう。所謂文武両道のその才は、幼い頃から遺憾なく発揮されていた。多分彼は、日本の教育方針にとことん合わない気質だった。飛び級制度でもあればとっくに勝手に進んでいっただろう、それが無かったから、今もこうして自分勝手に此処に留まっている。
 外に出る事は出来なかった、と、また静かに彼は付け足した。留学するには色々と付随したしきたりや何かが重たく、また、雲雀は勉学に然程興味を抱くことが出来なかった。それよりも、好きな町で、好きなように振る舞っているのが、よっぽど楽しいと思っている。

 話の途中で、どうして普通の公立中学校にいるんだ、とディーノが問いかけた。雲雀は、まるで、その質問こそを待っていたんだとでも言うように、薄い唇にほんのわずかな笑みを上乗せてまた静かに唇を開いた。
「僕は此処が、好きだから」
 その理由を、彼は語らなかった。代わりに、小学校ではイジメに遭った、とおおよそ彼らしくない言葉を淡々と続けた。イジメ?とディーノが困惑している間に、雲雀は指先で机を指差して笑みを深める。
「最初は机に、花を。次は上履きに、泥を。引き出しにゴミを。教科書に水を。体操服に落書きを。鞄に雀の、死骸を」
 圧倒的な異分子を、小さな子供は殊更に、恐れた。そして排除しようとした。
「下らない、悪戯さ」
 そう言った雲雀の顔は微笑にも関わらず、暗澹たる闇の中に沈むか細い極光にも思えるほど、鮮烈な彩色に彩られていた。
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