鳥の名前


「私の小鳥を知らない?」
 背後からか細いおんなの声に引き止められて、綱吉はもつれるようにして立ち止まった。傾けた傘がぱちぱちと雨粒を弾いている。雨の音に掻き消されそうな声は、それでも彼の耳にしっかりと届いた。
「……小鳥?」
 答える声に潜んだ戸惑いなど素知らぬ様子で、女はもう一度、「私の小鳥を知らない?」と繰り返した。黒髪の綺麗な女である。俯いている所為で顔は見えないが、黒々とした髪は今時珍しいまでに長く、腰の辺りを優に超えている。嫋やかな指先が所在無さげに胸の辺りで重ねられていて、いかにもか弱げな様子であったが、どうにも奇妙な気配を感じてならない。着ているものが、最近は余り見なくなった着物の所為だろうか。綱吉は一歩だけ後退ってから、ごくんと唾液を呑み込んで女へと向き直る。薄暗がりの、通学路の事だった。女の傾ける番傘から、綱吉のものよりも大粒の雨だれが落ちている。
「あの……小鳥って、何ですか?その、逃げちゃったりとか……」
「逃げる……?ええ、そう、そうね……行ってしまったの、私の小鳥。悲しくて、私……ただ待っているのは、寂しくて……一人は、嫌だったの……」
 誰もいない通学路に、女の声だけが響く。これはまずい、と悟るのに、さほどの時間はかからなかった。綱吉は引き攣った声を上げてもう二、三歩後ろに下がる。これはよくないものだ、と本能的に分かった。理解してしまった。彼の中に潜む生来の勘が、逃げろと脳髄を揺さ振るような警鐘を鳴らす。
「あ、えっと……それじゃあ、あの、俺……帰ります、ね、あの……が、頑張って下さい……!」
 後ろを振り返らずに、逃げた。一目散に、家まで逃げ帰った。あんなに恐ろしいものがこの世にいるという、その事実が余りに恐ろしい。駆け込むように飛び込んだ家の中の、普段通りの騒がしさが、何だか泣きそうなほどに安心した。


 けれど、この綱吉の一件以降、並盛町で「私の小鳥を知らない?」と問いかけてくる女の話題でもちきりとなる。
 多分、一番最初が綱吉だった。彼が女を見て数日後、同じクラスの河村賢人が興奮した様子で山本にその話をしていたらしい。直接聞いた訳では無かったが、昼休みに山本がそう話してくれた。
「この季節に怪談話って、ちょっと季節外れだよな?」
「ばっか、怪談話を夏限定にしてんのは人間の都合だろ。向こうはそんなん考えちゃいねーよ」
「そういうもんか?」
「そういうもんなんだよ」
 いつも通りの二人のやり取りをよそに、綱吉は顔を青くして先日のことを思い出した。思い出したくも無いのに、無理矢理にこじ開けて、あの日の記憶が出てきてしまった。綱吉の記憶と、河村の記憶はぴったりと一致した。してしまった。だから分かる、彼は嘘を吐いてなどいない。
「……十代目?どうしたんすか?」
「ツナ、どうした。お前、顔、真っ青だぜ?」
「はっ!……ま、まさか具合でも悪いんですか!?」
「……獄寺君、山本……」
 河村は、彼女の質問には答えなかったらしい。綱吉と同じで、意味が分からなかったからだ。私の小鳥、と言われても、どんな小鳥かすら彼女は言わないのだから、鸚鵡なのか、文鳥なのか、はたまた一般的ではない鳥なのか、何も分からないから探しようがない。知っていたとしても、それを判別する手段がない。でも、今日、河村の話を聞いて、何人かは面白がっていた。自分が出会ったら知っていると言ってやるのだと息巻いていたいた奴もいた。そんなのは駄目だ、分からないけど解る、知らないけれど識っている。
「まずい、と、思う……俺も見たんだ、会ったんだよ、河村の言っていた変な女……確かに、小鳥を知らないかって聞かれた。上手く言えないんだけど、あれ、多分……凄くよくないものだと思うんだ」
 綱吉の表情が青ざめていた所為か、二人は居住まいを正して彼に向き直った。綱吉は少し縺れる舌を何とか諌めながら、二人に先日の女性の事を話した。

「……そんなことがあったんすか」
「無事でよかったなぁ、ツナ、やっぱりそいつ、幽霊だったのか?」
「それは……分からない、でも、どっちしろ普通じゃないと思う。あんな怖い人、俺、初めて見たかも知れない。何て言うか……ザンザスより、どっちかというと未来の白蘭寄りの怖さだったかな。何してくるか分かんない、っていうか……」
 か細く、華奢な女性だった。でも、例えば綱吉が彼女を殴って倒そうとしたと仮定して、どうしても、勝てるイメージが湧かない。女性を殴るなんて出来ない、なんていう精神的な問題では無い。例えば、相手を京子に置き換えた時、綱吉は男女の力の差を考えて、怪我を負わせてしまうから出来ない、と思う。殴ったら彼女が地面に倒れてしまう映像が如実にイメージ出来る。ハルやクロームでも同じだ。でも、彼女は違う。彼女が殴られて倒れる姿が、どうしてもイメージ出来ない。逃げなければ、と本能的に思う。
「言ってることもよく分からなかったし、危ない人じゃないといいけど……」
「……その前に、そいつ、生きてる人間だったならいいんすけどね……」
「こ、怖いこと言わないでよ獄寺君……」
 あの薄ら寒さは、正直幽霊だった方がある意味納得してしまう。そんなことを考えてしまった自分自身にぶるりと身震いして、綱吉は放りっぱなしになっていた弁当箱をのろのろと片付けた。
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