水落


 雨が降っていた。土砂降りの雨の中、彼は傘を忘れて慌てて住宅街を駆け抜ける。今日は随分と遅くなってしまった。望んで入った部活動だったが、こうも毎日遅くまで練習が続くと、偶に憂鬱になる。特に、こんなに天気の悪い日はなおさらだ。早く帰ろう、お腹も空いたし、今日の夕飯は確かカレーだ。幼い弟が今日は小学校の行事で泊まりだから、自分好みの辛口にしてもらえている筈だ。思考回路を巡らせながら足を踏み出した瞬間、背後から突然女の声に話しかけられて驚いたように立ち止まった。
「ねえ、わたしの小鳥を知らない?」
 誰もいないと思っていたが、気付かなかっただけだろうか。随分と陰気そうな女が、雨の下に静かに佇んでいる。俯いていて表情は伺えないが、美人そうな気配を漂わせている。彼女は、今時珍しい番傘を掲げていた。
「……え?小鳥?」
「そう、わたしの、かわいい小鳥」
 そこで、彼は先日の会話を思い出した。雨の中、話しかけてくる女がいて、その女はこう問いかけてくるのだ。私の小鳥を知らない?と。そこまで思い出して、ふと口をついたのは、その噂話をしていた彼が言ってやると息巻いていたその言葉が、自然に自らの唇から零れ落ちる。
「……あ、なたの、名前は……?」
 聞いてしまってから、何を言っているのだと思い直した。でも、彼女は聞かれたことが嬉しいとでもいうように雰囲気を和らげてぱっと顔を持ち上げた。女性は、綺麗な顔をしていた。外国人だろうか、瞳は澄んだ青をしている。いや、青というより、水面だ。透き通った水の色をしており、ヘビかネコのように瞳孔が縦に細い。彼女が身じろいだことで、さらりと絹のような黒髪が揺れた。
「嬉しいわぁ、名前を聞かれるなんて、あの子以来」
「……あの子?」
「うふふ、いやね、もう諦めたつもりだったけれど、こうやって聞かれるのはいくつになっても嬉しいものね」
「あの……」
「嗚呼、ごめんなさい、嬉しくて、つい。うふふ、私ね、……私の名前は、"みずち"よ」
「みずち……」
「あの子の名前が知りたいわ。小鳥の名前の、可愛い子。ふふ、もし、彼に出会ったら、私が会いたがってるって伝えてね」


 曰く、徘徊する女の名前は"みずち"というらしい。
 曰く、彼女は小鳥の名前を冠した誰かを探しているらしい。
 曰く、探している誰かは、男らしい。


 女の噂は、流れ落ちる水のように並盛町に広まっていった。"みずち"の噂が蔓延してから暫くして、綱吉は意外な人物から、意外な場所で声をかけられた。
「君、女の幽霊に話しかけられたんだって?」
「へっ?」
 声の主は雲雀だった。それだけでも相当に驚くというのに、場所が駅前のゲームセンターだったので、綱吉はついに幻覚でも見たのかとぱちぱちと瞬き、ついで目も擦ってみたがそれでも目の前に佇む人間が消えてくれる筈もなく、反応が遅いという理由で一発殴られた後、彼はようやく本題に入った。
「女の幽霊、確か……"みずち"だっけ?君も彼女を見たんだろう」
「あ、えっと……はい、見ました」
 彼が怖くて直ぐに即答したが、同時に、何故こんな話を、という疑問が湧き上がる。基本的に、彼は自分の町の風紀と戦うことだけにご執心だ。群れていると言って咬み殺される時以外、綱吉は彼から話しかけられた記憶などほとんどない。最近は色々と滅茶苦茶なことに雲雀ともども巻き込まれていたから多少の会話こそあったものの、今はそんな非常事態でもない、ごく普通の日常生活である。死ぬ気にならなければ戦えもしない綱吉など、彼は虫けら程度にしか見ていない。挙句、話題が話題だ。雲雀がオカルト方面に興味があるとは余り思えない。訝しげな綱吉の態度からそんな疑問を拾い上げたのか、雲雀は彼の腕を引っ張って人気のない路地裏へと引っ張り込んで再び言葉を紡いだ。
「……詳しく聞かせて、その話。色々な噂が飛び交ってて、どれが真実か、もう分からない。訳なら後で話してあげる」
「え?あ、はい……えっと、俺が見たのは……」
 どこか切羽詰まったような雲雀の態度に、綱吉は慌てて先日の一部始終をなるべく完結に彼に語った。
「……なるほどね、君が見たのは着物で、黒髪の女。目は分からない、番傘を差してた」
「はい、あ、でも、次の日、うちのクラスの河村が話してたのを聞いた限りは、その時は普通の洋服だったみたいです」
「和服と洋服、目撃証言としては大体半々だね。名前が分かったのは少し後だったみたいだけど……」
「俺、怖くて……あんまり話もせずに逃げ出しましたから、その所為ですかね?小鳥っていうのも、逃げたペットのことかと思ってました」
「それが、今では鳥の名前の誰か、ってことになってる。一応、これを聞いたのもうちの生徒みたいだから、信憑性はある解釈だね」
「雲雀さん相手に嘘を吐ける並中生なんて早々いませんからね……」
 一通り話が終わったところで、綱吉は雲雀を見上げた。
「……あの、」
「……、何でこんなことを聞くのか、だろ」
「う、……はい……あの、でも、言いたくなかったら……」
 伺うような、申し訳なさそうな、気遣うような、何とも言えない綱吉の瞳を見下ろして、雲雀は鬱陶しそうに溜息を吐く。どうでもよさそうに、次ぐ言葉を吐き出した。
「……僕は記憶喪失だ」
「え!?」
「一年分の記憶が抜けてる、彼女の名前を聞いて、酷い頭痛を起こした――――何かを、思い出せそうだった。思い出せる気がした。だから、追いかけてる、それだけ」
 普段、どちらかと言えばゆったりと喋る彼にしては珍しく、矢継ぎ早に言葉を重ねて、そのまま踵を返した。黒の学ランが翻って、空気を冷たげに裂く。ひらひらと揺れるそれは、まるで鳥の翼のようだった。

 そういえば、彼の名前も鳥の名前だったと――――綱吉は、今更ながら思い出した。そして、それが、彼が雲雀を憶えていられた、最後の瞬間だった。
ALICE+