それが貴方の幸せだとしても


 静かな水の音が辺りに響いている。霧がかったような視界の中で、その社だけは妙に鮮明に見えた。せせらぎの音に混じって、琴の音が聞こえる。
「……僕は……」
 沢田綱吉と話していて、噂を追って、それから――――それから、どうしたんだっけ?混乱した記憶を手繰り寄せる前に、ぴちゃん、と、水滴が跳ねる音がして雲雀は反射的に振り返った。
「……君」
 視線の先に、一人の女が立っている。長く、黒い髪を揺らして、水面を映し込んだような不思議な瞳が真っ直ぐに雲雀を見ている。真っ白なそのかんばせが、彼を捉えた途端心底嬉し気に綻んだ。
「嗚呼……!」
 長い着物を引き摺って、彼女が駆けてくる。重たそうなそれにもたつきながら、彼女は思い切り雲雀に飛び付いた。
「逢いたかったわ……!」

 会いたかった。
 逢いたかった。
 遭いたかった。

 反射的に、彼女を抱きとめる。柔らかくて、滑るような絹髪が、雲雀の頬を掠めた。水の匂いが、鼻腔を擽る。何もかもが引き金となって、雲雀の記憶を呼び覚ましていく。嗚呼、そうか、ずっと。


「……あいたかった」
 逢いたかったのだと本能が先に叫ぶ。彼の記憶を封じていた何かが、ばらばらに砕け散って瓦解していくように夢想した。思い出した、何もかも。あの日、雲雀は小学校の校庭にいた。騒がしい同級生が集団になっているのが気に食わなくて、今と同じようにトンファーで全員殴り飛ばしたところで、中心にいた死にかけのヘビに気付いたのだ。ヘビは、黒い鱗と綺麗な水色の瞳を持っていた。ぐったりと力なく地に伏せるその生き物を、雲雀は無言で掴んで、神社の草むらに放してやった。
「ばかだね、つぎはみつからないようにしなよ」
 群れは嫌い、弱い生き物も嫌い。でも、そのヘビは群れてないし、弱くもなかった。一匹で行動し、敵には容赦なく噛み付き絞め殺すその生き方は、嫌いじゃなかった。だから、放っておかずに、放してやった。
 その次の日、校庭の隅に座っていた雲雀のところに、昨日のヘビがやってきた。またこんなところに来て何をしているんだと眉を顰める雲雀を前に、そのヘビは小さく鳴いて神社の奥へとゆっくり這っていってしまった。まるで、雲雀を誘うように、時折後ろを振り返るから。だから、雲雀は、ヘビを追いかけて。何処に行くのか、何をしているのか、気になって。そうして。
 雲雀は、小学校から消えた。一瞬の出来事だった。

 辿り着いた先は神社ではなかった。神社に似た造りではあったものの、それらしき参拝所はなかった。どちらかと言えば、昔の貴族の邸宅に思える。広い屋敷の中には誰の気配も無い。ただ、せせらぎの音だけが聞こえている。何かに誘われるように、雲雀は奥へ奥へと向かっていった。


「……待っててくれたの、ずっと」


 今、現実の雲雀がいるこの部屋で、あの時幼い雲雀は彼女を初めて見た。助けてくれてありがとうと笑う彼女の瞳は、間違いなくあのヘビのものだった。不思議と、雲雀は彼女の言葉を直ぐに信じた。彼女は自分を"みずち"と名乗った。
「水落。落ちる水と書いて、みずちよ」
「交わる虫のほうじゃなくて?」
「詳しいのねぇ、うふふ。そっちは私の、何と言うか……もう一つの名前よ。貴方にとっての、人、みたいなものなの」
「みずちって、へびからりゅうになるあいだのなまえでしょ。じゃあ、あなたはかみさま?」
「ふふ、そうよ、昔の神様。本当に詳しいわね、ええと……君の名前は?」


 嗚呼、そうだ、確かに、雲雀が言った。鳥の名前だと、あの時確かに、彼が言ったのだ。


「ぼくのなまえは、とりのなまえだよ」
「教えてくれないの?」
「かみさまになまえをおしえてはいけないって」
「……ええ、そうね、じゃあ……大きくなったら、私と結婚して?結婚するのなら、名前を知ってもいいでしょう?」


 思い出した、何もかも。あの時、みずちの名乗った彼女のいる屋敷で、一年過ごした。帰れないならここにいてもいいよと彼女は言ったけれど、もう雲雀は分かっている。大きくなった今なら、彼女が帰れなくしたのだと、もう分かる。そして、神様の住む場所に滞在を許され、神様に伴侶を乞われた。
「……僕の名前は、雲雀」
「雲雀、くん?」
「雲雀、恭弥だ」
「……うふふ。本当に、小鳥さんの名前ね」
 あの時、幼い雲雀は頷いてしまった。結婚もよく分からなくて、何となくの曖昧な知識だけで、いいよと言ってしまった。彼女のことは、嫌いではなかったし、雲雀が頷いたあとの花開くような笑みは、とても好きだとさえ思った。
 名前を教えたのは、雲雀なりの答えだった。良いよ、結婚しよう。懐かしいせせらぎの響く屋敷の中で、そう言って雲雀は笑った。




 生まれ育った自分の町に帰ってきているというのに、綱吉は何だか落ち着かなかった。並盛中学を卒業して約十年、綱吉は、結局ボンゴレファミリーのボスをしている。あれだけ嫌がっていたのにとんだ心変わりだ、と、今でも思う。別に、特別な理由があった訳ではないけれど、色々なことを考えて、結局彼は此処に居る。短い休暇のつもりで帰って来て、帰る為にぶらぶらと駅に向かって歩いている最中、ふと綱吉は母校の前を通りかかって立ち止まった。校舎は満開の桜に彩られている。はらはらと雨のように散る桜を見て、綱吉は何だか奇妙な違和感を感じた。
「……あれ」
 何だか物足りないような、そんな感じだ。そりゃあ、あの頃過ごした校舎とは異なるのだから、違っても当たり前だ。あの日あの時、共に学生生活を過ごした級友たちはもういない。でも、違う。そうじゃなくて、何と言えばいいのだろう。何かが足りない。改築でもしたのだろうかと思ったところで、ふと、廊下を歩く黒い誰かの姿を見かけた。多分、先生だろう。黒いスーツを肩に引っ掛けて、ふわりと靡かせて堂々と闊歩している。
 それが切欠になって、綱吉の記憶が物凄い勢いで逆流してくる。
「……どうして、忘れていたんだろう」
 強い人だった。怖い人だった。鮮烈な人だった。暴虐的な人だった。怖ろしい人だった。
 でも、頼もしい人だった。偶に優しい人だった。
 あんなに強烈な印象を残す人を忘れていたなんて信じられなくて、綱吉は知らずに両手で顔を覆う。どうして、忘れてしまっていたのだろう。どうして、彼を忘れられたんだろう。

 並盛中学風紀委員長、雲雀恭弥。
 綱吉の、雲の守護者と呼ばれていた人。
 いつの間にか消えてしまっていた、不思議な人。多分、きっと、彼はあの女性に――――"みずち"に、連れていかれたのだろう。十年の間に多少は使えるようになった超直感が、そう教えてくれる。

 それが、あの人の幸せだったとしても。それでも、人間でいて欲しかったと思うのは、それは自分のエゴなのだろうか。もう直ぐ並盛を出てしまう。そうすれば、きっと、また自分は彼を忘れてしまう。歳を取り、成長して、大人になっていく自分とは違う――――彼は、ずっと、あのままで、綱吉が青春時代を過ごしたこの町に在り続ける。それはきっと、綱吉よりも遥かに長く生きていく、という意味ではないのだろう。雲雀恭弥という存在は、多分ずっと前に――――もしかすると、彼が消えた十年前では無く、その前から。彼が神隠しに遭ったという十数年前に、きっと、死んでしまっていたのだろう。だから異質で、だから異様で、だから彼は死を惹き付けて……そうやって、これからも存在していく。やがては、あの女の人と同じ、概念の存在になるのかもしれない。噂話の中に紛れて、遠い地で彼の存在を感じる日が来るかもしれない。あの人を忘れてしまっても、それでも、せめて噂を聞いて寂しいと感じられればいい。
「……さよなら、ヒバリさん」
 次に遭う時には、自分はきっと彼の顔も忘れているのだろう。それは寂しいなぁ、と、綱吉は泣くように笑った。




「ねぇパパ、しってる?ことりのおばけのはなし!」
 子供のはしゃいだ声を聞いて、彼は柔らかな声で返事をしながら立ち止まった。なぁに、と返してやると、子供は嬉しそうに話し始める。
「ことりさん、まっくろなことりさん!よるにおおぜいでかたまってるとねぇ、かみころされちゃうんだって!」
 その子が言葉を続ける前に、何故だかその"ことりさん"が取るであろう行動が予想出来て、彼は驚いたように口元を抑えた。何故だろう、分からない、分からないけれど――――何だかとても、懐かしくて、怖くて、訳の解らない気持ちが溢れて、彼は必死に嗚咽を噛み殺した。歯が軋むその痛みは、頭を鈍器で殴られるようなリアルな痛みを思い起こさせる。嗚呼そういえば、昨日、同窓会の葉書が来ていたっけ。不参加に丸を付けてはいたが、まだ送り返してはいない。帰ったら直ぐ、丸を消して参加に変えて送ろうと固く心に決める。不思議と無性に、中学時代の友達に会いたくなった。
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