鎮魂


 霧深い森の奥にその修道院は鬱屈と佇んでいた。まるで教会を囲むように建てられた無数の十字架が酷く不気味で、ここを通るたびにいつも寒気がする。数キロ下の補整された道に馬と荷台は置いて来た。獣道を踏みしめて担いできた荷を一度地面に置いて、エイジロウは小さく息を吸い込み、こんこんとドアを叩きながら大きく声を張り上げた。
「食料、お届けに上がりましたー!」
 エイジロウは麓の町に住む異邦の青年だ。父と母はこの周辺の生まれでは無く、母親に至ってはこの国の人間ではないらしい。幸いにも、彼自身の見た目はこの国に馴染んだもので、生まれた時から此処で暮らしているお陰で言語にも困ったことはない。唯一、名前だけが、エイジロウを異国の血を引く人間だと知らしめる要素だ。余り隠したくはない両親からの賜りものだが、余所者を嫌う傾向にある地方で生きていくにおいては、時には偽らざるを得ないこともある。今は、ありふれたこの国の名前で暮らしている。町の人間は皆良い人だ。突然現れた余所者のエイジロウにもよくしてくれたが、やはり、暗黙の了解というものが存在する。古くからこの町で生きる人間と、数年前に突然住み着いた素性の知れない若い青年、どちらが厄介ごとを引き受けるかなんてのは、分かり切った話だろう。この町の場合、任される厄介ごとが、これだった。月に一度、大量の食糧を荷台に詰め込んでこの修道院まで送り届ける。道のりの三分の二ほどしか馬車を使えず、残りは険しい山道を自力で歩かなければならないという道中の厳しさもさることながら、この修道院事態に蔓延る独特の不気味さが、厄介ごとと呼ばれる原因の最たるものだろう。鬱屈とした森の中に佇む修道院は、元はどこかの貴族のお城だったらしい。何人も修道女が暮らしているはずのそこには何故か人の気配というものが微塵も感じられず、所狭しと並べ立てられた十字架が一際不気味さを演出する。墓標、という訳ではないのだろう。人の名前も何も彫られていないそれが何のために修道院を囲んでいるのか、エイジロウは未だに知らない。何と無く、聞いてはいけないような気がして、今日も十字架を避けて歩いて来た。苔むした階段を上がって辿り着いた大きな扉の前で声を張り上げて待ってはみたが、一向に返事が返らない。変だな、と、厭な胸騒ぎがした。いつもは、こうしてエイジロウが扉を叩けば、数分以内に誰かしらが応対に来る。無口な年配の女性だったり、お喋りな若い少女だったり、顔を出す人間はまちまちだが、こうも長く待たされるようなことはなかった。おかしい。この仕事を引き受けてから、もう数年だ。とっくに礼拝の時間は把握しているし、今日もその時間は避けてある。女子修道院である為、この扉の先は男子禁制だ。そもそも、中から閂を開けて貰わねば、中には入れない。それを分かっていながら、エイジロウは扉を押した。押して、そして扉を、開けてしまった。

 薄汚れた埃の臭いがする。陰気な城内部に蔓延するかび臭い独特の異臭と、何かの肉が腐る臭い。水滴が落ちる音が、何処かから響いている。目の前の光景を、咄嗟に認識出来なかった。
「……え?」
 何故か開いた扉の先では、灰色の石畳が赤く濡れている。何かがぶらぶらと宙に揺れている。上から絶えず、赤が滴る。エイジロウは、そのままゆっくりと視線を持ち上げた。
 持ち上げて、しまった。

 縄の軋む音が大袈裟に鼓膜を揺らす。生々しい音を立てて、どす黒い何かが石床に落ちた。肉、嗚呼、そうだ、肉だ。既に腐敗した白い何かがエイジロウの足許までゆっくりと転がってくる。辛うじて視認できる黒い円が、白の球体から虚ろにエイジロウを眺めていた。頭上でカラスが鳴いている。零れた何かを啄んで、二羽のカラスがじっとエイジロウを見た。目の無い腐敗した頭部がゆっくりと縄に揺られながらエイジロウを見下ろす。嗚呼、頭をカラスに食べられて、目玉が落ちたのか。状況を認識した途端、大きな音を立てて肢体が頭上から石床へと転がった。大きな物音に驚いたのか、二羽のカラスが飛び立ち空いている廊下の隙間から曇り空へと羽ばたいていった。どうやら、腐敗した肉が首の縄に引き裂かれて落ちたらしい。
 それは、余りにもおぞましい腐乱死体だった。恐らく、この上の部屋から縄を吊るして飛び降りたのだろう。首を吊って、死んでいたところをカラスに食べられたらしい。初めて目の当たりにした鮮烈な死の有り様に、思わず腰を抜かして尻餅をつく。
 修道女が、一人、首を吊って死んでいた。


 死体を見付けて、放っておくことも出来ずに食糧庫に寝かせて逃げるように町まで戻って来た。三週間前の出来事である。何とか他の修道女に知らせようと何度も声を張り上げたが、いつも通り修道院は静まり返っていた。扉は開けてしまったが、本来修道院は男子禁制の場である。招かれもしないのに、中には入れない。仕方なく、エイジロウは腐りかけた死体を引っ張って、いつも食糧を入れている地下の一室へと運び込んだ。保存をきかせる為にいつも冷えた温度を保っているそこなら、多少は腐乱も抑えられるだろう。運び役のエイジロウが入ることを許可されている唯一の場所だ。ここなら外からも入れるし、一緒に食糧も置いておいたから、食糧を取りに来た誰かに気付いて貰えるだろう。冷たい食糧庫の床に寝かせて、十字を切ってその場を後にした。

「俺が見たのはそんだけだ、他には特にねえな」
 町で一番の賑わいを見せる酒場で、バチカンから来たという二人の神父―――片方は見習いらしいが―――を前にエイジロウはつい三週間前のことを思い出せる限り詳細に語って説明した。自殺した修道女のことを調べに来たらしい。確かに、思い返せば不可解な話だった。動転していて言われるまで気付かなかったが、あんな薄気味悪い森の中に居を構えて祈りを捧げるような修道女だ。町中にだって幾らでも修道院はあるのに、娯楽も何もない空間にわざわざ好き好んでいくなんて、よほど敬虔な信者なのだろう。キリスト教では、自死は大罪だ。神の意志に背く行為とされているから、シスターや神父の自殺などそうそう聞かない。緑の髪をした神父、もとい見習い神父が、エイジロウから聞いた情報を事細かに羊皮紙に記しながら何事かをぶつぶつと呟いて考えこんでいる。もう一人の神父は、顎に手を当ててじっと黙り込み、やはり何かを考えこんでいるらしかった。伏せられた赤い眸が酒場のランプに照らされてゆらゆらと揺れている。少しして、顎に当てていた手を下ろし神父が立ち上がった。
「考え込んでてもしゃあねえ。……テメエ、そこまで案内しろ」
「え?修道院にか?」
「他のシスター共に話を聞く、それしかねえだろ」
 見習い神父はその言葉にようやく俯いていた頭を持ち上げて賛同するように頷いた。
「……そうだね、とにかく、そこに行ってみないと。すみません、案内、してもらえますか」
「嗚呼、それは構わねえけど……気をつけろよ、結構、獣道だから」
 二人の頼みにエイジロウは快く頷いて立ち上がった。支払いを済ませ、直ぐに向かうという二人の言葉に頷き家まで案内して荷台に乗せ、三週間前と同じルートでまた馬を走らせる。途中から徒歩に切り替え、程なくして夕暮れが夜に食われ始めた頃、三人は漸く件の修道院に辿り着いた。空を覆う暗雲の隙間から夕陽が滲み出し陰気な城を薄い橙に染め上げている。死体を見つけた扉の前に立ち、エイジロウは軽く深呼吸をしてから、大きく扉をノックした。きっちり三回、響いたノックの音が消えるよりも早く、内側の閂が外れる音がして重厚な扉がゆっくりと押し開かれる。
「どちら様でしょうか」
 見たところ、まだ若い少女のようだった。鈴の鳴るようなか細い声が響いて、伺うような視線が三人を順繰りに辿っていく。エイジロウが何かを説明するより前に、神父がエイジロウを押し退けて前に出た。
「オイ、お前、此処のシスターか。修道院長はどこにいる」
「どちら様でございましょうか」
「バチカンから来たモンだ、先日の自殺事件について、話がある」
「……承知致しました。少々お待ち下さい」
 不遜な態度での応対にエイジロウは始終ハラハラしていたが、交渉は滞りなく進んだらしい。少女は一度身を引き、扉を閉めて奥へと走り去った。少しばかり、痛い沈黙がその場を支配したが、幾許もせぬ内に先程の少女がまた駆け戻って来て、三人に向けて扉を開け放った。
「どうぞ、修道院長のところにご案内致します」
 三人が中に入ると、再び閂が閉められる。徐々に薄暗くなる闇の気配を感じながら、三人は少女の後を追って奥へと進んだ。
 先日の血の跡は、何故かそっくりそのまま、石床に残っていた。



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