三階の廊下を歩いていると、何処からか子供の声が聞こえて来た。先程までのような笑い声では無い、歌っているような、朗読しているような、滔々とした声だ。足音を潜め、声の方へと足を向ける。意識を集中して、その声が紡ぐ内容を聞いた。複数人が一緒に喋っているようなその声は、とても聞き取りにくい。



 昔々あるところに
 不幸な少女がおりました

 少女は幸せさがして クローバー畑へ

 一つ葉のクローバー探したけれど
 道に落として 見つからない

 ニつ葉のクローバー探したけれど
 影に隠れて 見つからない

 三つ葉のクローバー探したけれど
 魔女が隠して 見つからない

 四つ葉のクローバー探したけれど
 不幸な少女にゃ 見つけらない



「……」
 随分と暗い歌、いや詩だ。何かしらの情報になるかと思ったが、そんな事は無かった。先程の絵本といい、この詩といい、如何にも此処には陰鬱ばかりが溢れている。まぁ、仕方のないことか、と一人心地た。こんな場所に、碌に希望なんか無い。ハッピーエンドに憧れるには、此処の人間は現実を知り過ぎた。リドルも同じだ。目の前を横切っていく青い蝶に、幸せの青い小鳥を思い出した。青い鳥なんている訳が無い、リドルは知っていた。
「……幸せなんて何処にもない、僕に青い鳥は来ない」
 そんな事、とっくの昔に知っていた。指で摘まんだ青い蝶は力なく触覚を動かし、やがて黙った。目的の蝶を捕まえたところで、そういえば自分は自室に向かっていたことを思い出し、少しの間立ち止まって考え込む。さて、蝶は捕まえたが、自室を見てくるのと箱に蝶を放り込んでくるの、どちらを優先すべきだろう。


「ふふ、ははは」
「待ってよ、あはは」


 思考に沈み込んでいるリドルの耳に甲高い、けれど潜めた笑い声が聞こえて、はっと顔を上げた。廊下の角に、二人の少女が駆けていったのが見える。一瞬だったので、見覚えがあるか否かまでは解らなかったが、その代わり、彼女たちが何かを落としたのははっきりと見えた。一端、考えていた二択は頭の隅に追いやって、落ちた何かを確かめに行く。赤い絨毯の引かれた床に落ちていたのは、どうやら鍵のようだった。蝶を持っているのとは反対側の手でそれを拾い上げると、上に小さなハートのような装飾が施されているのが分かった。何処の鍵か、全く見当も付かないが、まぁ拾っておこうとポケットに放り込む。少女達の姿はもう見えなかった。
 階段を降りながら、長い間素手で蝶を掴んでいるのも鱗粉が付着して不快だったので、先に箱に放り込んでしまうことに決めた。他とは違う絢爛なその扉の前に戻っても、扉に何か変わった様子は無かった。少しの間、観察するように扉を見つめたが、何も起こらないので軽く肩を竦めて蝶を箱に放り込んだ。一秒、二秒、三秒。大体その位の間を空けて、鍵の開く音が聞こえた。取っ手を掴み、確かに扉が開く事を確認して、リドルは踵を返す。きらきらと輝く青い鱗粉に汚れた指を鬱陶しそうに払って、自室へと向かう。


 リドルの部屋は、特別変わったところも無かった。部屋が足りずに他人の部屋になっているという事もなく、物も少ない。かなり埃を被ってはいるが、記憶にある構造そのままだった。此処には特に何も無さそうだったので、必要そうなものだけ、拡張した小さな鞄の中に放り込んで、着替えや教科書といったものはトランクごとこの部屋に置いていく。随分と軽くなった肩を解すように一度回して、リドルは再び廊下に出ようと取ってを掴んで扉を開けた。

「っ……!?」

 そして瞬時に、杖を構えた、扉を開けた先に、背の高い大男が佇んでいる。
「誰だ!」
 喉元に杖を突き付け、脅すように低い声を出すも、男は一向に意に介さない。それどころか、リドルの存在にさえ気が付いていないように、ぼんやりと虚空を見つめていた。訝し気に眉を顰めながら、リドルは警戒を崩さず男から距離を取る。しばらく、膠着状態が続いた。緊張を解いたのは、男の方からだった。
「……ああ……、……おはなしを、そう、おはなしをね、かかなければ……」
「……おい、僕の声が聞こえてないのか?」
 はぁ、と、リドルが溜息を吐く。その時一瞬、彼は視線を男から外した。その一瞬で、男の姿が消え去る。そして代わりに、男の佇んでいた廊下には、絵本のようなものが落ちていた。既に不可解な現象に慣れてきていたリドルは、それを無言で拾い上げてページを開く。タイトルには、「不幸なクローバー畑」とある。中身はどうやら、先程子供達が朗読していたものと同一のようだ。あの子供は、これを見て読んでいたのだろうか。とりあえず、最初に少女に渡された「リトルプリンセス」と作りがとてもよく似ていたので、類似品だと判断し一緒くたに鞄に放り込んでおく。自室の扉を閉めて、今度こそ怪しい貢ぎ物の扉へと向かった。


 扉はきちんと開いていた。いつでも杖を出せるように服の中に忍ばせて、背後に誰もいないことを確認し、警戒しながら薄暗い中へと足を進める。扉の中にも、外にも、やはり人の気配は無かった。リドルを呑み込んだ扉は、重々しい音を立てて閉まった後、入口に赤いクレヨンの文字が浮かび上がる。

「 おかえり おうじさま 」

 既に中に入ってしまっているリドルには、文字を見ることは出来ない。誰にも見られない赤い文字は、やがてほどけるように消えていった。

ALICE+