廊下の風は室内と比べて冷たい。冷えた空気がリドルの頬を撫でて、そして走り去ってしまう前に、思わず壁に寄りかかって頭を押さえた。


 何だ、今のは、一体何だったんだ。
 所謂虐めの現場だ、それは解る、でもそうじゃない。そんなもの、ホグワーツでも何度も見た。孤児院でだって幾度も見た。そうじゃない、自分が気にしているのは、そうじゃなくて。

「……僕はあれを知っている」

 身体が自然に動いていた、途中から呑み込まれたように、最初からプログラムされていたように、感情が動いていた。退屈だって?そんな訳がない、あれを初めて見たのだとしたら、情報の欲しい自分が、そんな理由で、あの場にいることを面倒臭いと感じる訳がない。もっと記憶に焼き付けて、あの光景の意味を探る筈だ。そして彼女、エイミーといったか。ミランダやアリッサは名前が出るまで分からなかったのに、彼女の名前は自然に出て来た。思い返せばその辺りから可笑しかった。僕はあれを知っていた?そして、何らかの理由で、バスの少女と同じように、あの光景を忘れていたのだとしたら、それは。


「……思い出せない…」


 思い出せない、何も、ただの一つも思い出せない。今まで極力思い出さず、避けていた孤児院時代の記憶を改めて引っ張り出そうとすれば、碌な記憶が残っていないのだとむざむざと突き付けられた。生まれた頃から孤児院にいた、物心ついた頃から魔法が使えた、それ以外は?


「……ダンブルドアが孤児院に来た、そうだ、あれはいつだった?そう、夏、夏だ。あの日僕は……何をしてたっけ?」


 ぼんやりと記憶をなぞるだけだった頃は確かに覚えていたと思ったのに、詳細を探ろうとすれば途端に霧散していってしまう。覚えていた筈の他の子供の顔も詳細が思い出せない、名前さえ一つも出てこない、リドルには孤児院の記憶が殆ど残っていなかった。それに気付いたとき、余りの事実に茫然と佇み、その唇からは抑えきれない笑気が零れ出していた。


「ふ、ふふ……はは、……あっはははっははは!!!!」


 かたかたと肩を揺らし、吹っ切れた様に思い切り笑い出す。今この時ばかりは、執拗に追いかけてくる廊下の笑い声も沈黙していた。痛い程に身を貫く沈黙の中で笑い続け、その内ゆっくりと笑い収まっても、リドルは肩で息をし、そのままずるずると床に座り込んでゆく。丁寧に石膏から削り出されたような手のひらで、イコンの天使の様に精巧に描き出された面立ちを覆い隠す。


「僕には過去の記憶が無い」


 もう認めざるを得なかった。此処で何をしていたのか、どうやって過ごしていたのか、思い出そうとすればするほど欠落していく。今まで、自分が記憶だと思い込んでいたものは、全て虚構だった。
 自分の記憶は、此処にあるのだろうか。歪に歪んだこの孤児院が何なのか、それは解らない。けれど、失っていた筈の記憶が存在していたということは、何らかの形で関係していることは明らかだ。もう、出て行こうとする意志はリドルの中には無かった。何かに憑りつかれたように、記憶への執着が脳内を占めている。脱力していた腕を力なく持ち上げて、瞳を開いた。変わらぬ、閑散とした孤児院の廊下が視界に映る。でも、その廊下は少しずつ歪んで、その内奇妙に絢爛になった。少しずつ少しずつ、院内が歪んでいく。リドルはそこから動かなかった。



 何分経ったか、或いは何時間か。吐き出す吐息が白くなった頃、漸く重たい身体を持ち上げる。探しに行かなければ、そう、自分の記憶を。歩きながら、鞄に突っ込んだ絵本を取り出す。「リトルプリンセス」と書かれたその絵本は、また文章が増えていた。



「リトルプリンセス」
 むかしむかしあるところに かわいい少女がおりました
 少女はいつも 赤いばらの姫と一緒でした
 ある日突然に パパとママがしんでしまいました
 赤いばらの姫もいなくなり 少女はひとりぼっちになりました
 そして少女は しらないお家に連れていかれました

 お家には こわいあくまが住んでいました
 少女は あくまにおびえて毎日くらしていました

 ある日 少女のもとに
 やさしいやさしい おうじさまが現れました
 おうじさまは少女をたすけ出し
 おうじさまのおうちに 連れていってくれました



「……王子様、って、あいつは僕を、そう呼んでいたな」
 この絵本に出てくる"おうじさま"は、自分と、そして彼女と、何か関係があるのだろうか。自分がそんな柄では無い事は、リドルは自分で良く知っている。でも、そう呼ばれたということは、何かしら意味はあるのだろう。彼女も孤児院の子供だったとしたら、昔にそう呼ばれていたのだろうか。しかし、その割には、あの階級表に書かれていたリドルの階級は公爵だったし、王子という役職も存在していなかった筈だ。謎が謎ばかりを呼び、今のところ、殆ど解決した疑問が無い。

 この孤児院の状況は何なのか。
 消えた大人は何処に行ったのか。
 最初に接触してきたあの少女は誰なのか。
 どうして記憶が無いのか。
 先程会った男性は誰なのか。

 今のところ、優先して解決すべき疑問はこのぐらいだろうか。細かいところで言うならば、名前の書かれていなかった"薔薇の姫様"と"薔薇の王様"が誰なのかも気になる。廊下は寒い、リドルは真っ直ぐに歩みを進めて、自分の部屋へと向かった。何だかとても、眠たい。ベッドに倒れ込んで、ゆっくりと瞼を落とす。こんな場所で眠ってはいけない、だなんて警戒心は、ついぞリドルの中には浮かばなかった。

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