なんて上品で汚らわしい

「某貴婦人の花葬列」番外編
児童虐待、嘔吐表現、連想させる程度の性描写があります





 薄暗い廊下の奥で、すすり泣くような吐息が漏れていた。僅かな光源が、薄ら開いたドアの隙間からひっそりと流れ出している。ナマエはその扉の前を通るたびに息を止めて、存在を殺して、気配を薄くして足早に通り過ぎる。
 嗚呼、嗚呼。汚い汚い汚い汚い。汚い。



 今日もロンドンの空は暗い。一雨きそうなぐずる空模様を眺めながら、ナマエは隣で熱心に難しい本を読み込むリドルの方へとぐたり、身体を投げ出した。
「つまんないわ、リドル」
「君も本でも読んだら?」
「やぁよ、リドルの読んでるご本つまんない」
「じゃあこっち」
「……絵本……馬鹿にしてる……」
「ここには両極端な本しかないからね」
 ひら、と軽い調子で手を振って、リドルは再び開いていた本へと視線を落とす。この年頃の少年が読むには余りに似つかわしくない、小難しい学術書に意識を取られているのか、隣でむすりと不機嫌そうに頬を膨らます少女の動向にはついぞ視線がいかなかった。少女、ナマエは大きく溜息を吐くと、仕方がないとでも言うように再び窓の外へと視線を戻す。どんよりとした雲が、重たげにロンドンの空に浮いていた。



 覚えている憶えている覚えている。
 熱っぽい吐息、浅く短い呼吸音、蠢く肢体、這いずる指、滴る粘着質な液体、仰け反る華奢な背中、突き上げる腰の動き。
 おぞましいおぞましいおぞましい。



 最近、ミランダ・ベイルの表情が暗い。陰鬱な面持ちで、時折薄暗い空を眺めては溜息を吐く日々が続いていた。けれども、ナマエは調和を保つ必要最低限の会話のみで、彼女の憂鬱の原因には深く触れようとはせずに傍を立ち去った。リドルに至っては端から興味すらないようで、今日も分厚い学術書を読み耽っている。はぁ、と、重たい溜息が、孤児院の廊下に溶けて消えた。


「……何か知っているんだろう?」
 ミランダ・ベイルの憂鬱が続いてしばらく。日に日に元気の無くなっていくその様にいい加減飽き飽きしたのか、リドルはうんざりとしたようにベッドに腰掛けながらナマエに視線をやった。ナマエは一瞬、びくりと肩を揺らしたが何も答えず蹲って、首を振る。
「嘘を吐くな、お前の様子を見ていれば直ぐに分かる」
 リドルは、ミランダを心配する風に繕われた声に満ち溢れた現状を心底疎ましく思っているらしかった。ナマエは少しだけ黙ったけれど、やっぱり同じように、けれど、今度はもう少し力なく、首を振る。

「……、…ナマエ」

 傷ついたヘビをあやすような柔らかな声が、艶めく唇を割ってとろとろと零れた。ナマエの肩が先程より大きく揺れる。俯いたまま、いそいそとベッドに座るリドルの足元まで這い寄って、ぽすりとシーツに顔を埋めた。傍らでシーツに沈む少女の丸い頭に手をやって、いささか乱暴な調子で髪を撫でやる。ナマエはしばらくそのまま俯いていたが、やがて諦めたように長く深い溜息を零した。


「……、…私…」
「うん」
「……私、見ちゃって……ミランダが、その……」
 ナマエはそこで一度言葉を切り、そうして今度は今までとはうって変わったはっきりとした口調で言葉を続けた。

「汚い」


「汚い、汚い、嗚呼、汚いの。やだ、嫌だぁ、リドル、りどる。おとな、おとなは、きらい」
 蒸し暑い熱帯夜みたいな光景が脳内をぐるぐると駆け回る。おとなの男がミランダを押さえつけていた。ミランダは泣いて、でも何かに耐えるみたいに唇を噛み締めて、泣くまいと表情を悲痛に歪ませて、その細い脚の合間からは赤と白が滴っていた。
「おとなに、なりたくない」
 泣きそうで、だけどミランダと同じように泣くまいと耐えるナマエを、リドルはただ無感情に眺めていた。



「……何を見た?」
 ナマエが落ち着いた頃合を見計らって、もう一度、今度はより直接的に問いかける。噛み締めていた薄い唇を震わせて、ナマエは何度か、言うべきか悩むようにはくはくと唇を上下させる。リドルは辛抱強く、彼女の言葉を待っていた。
「……、…私…」
「うん」
「ミランダを、…せんせい、が……」
 ナマエはそのまま言葉を萎れさせてしまったけれど、みなまで言わずとも、続く言葉は容易く導き出せた。大筋を理解したリドルは小さく溜息を吐いて、俯くナマエの背を叩き自らの方へと来るように促す。ナマエは存外に素直に従った。


「お前は、大丈夫」
 芯のある言葉だった。リドルの胸に飛び込んで抱き着き、華奢な腕に囲われながら、ナマエは黙って嗚咽混じりに頷く。
「あいつらに、僕やお前を害する勇気なんかないさ。そうだろう?皆、僕の機嫌を損ねたら殺されるとでも思ってる。実際、やろうと思えばきっと、容易い。ウサギも人間も大差ない……だから、大丈夫」
 異端の力を持つリドルは、子供達だけでなく大人にさえも畏れられ、そして疎まれている。逆らえば、ビリーのウサギのように殺されると、本気で怯えている。ピーターを殺したのが誰か、怯え故に誰も大人には告げ口をしていないけれど、犯人が誰かなんて火を見るよりも明らかだろう。そして、そんなリドルが一定の興味を持って構っているのは、この孤児院の中でナマエだけだ。その間にあるのが酷く歪な絆であっても、そんなのは誰にも見抜けない。


「……リドルは、」
「何、」
「リドル、も、……大人には、ならない?」
 ミランダを犯した、汚くておぞましい、大人に。大人という恐ろしい、生き物に。たった一人の、ナマエの大切な王子様が、そんな生き物になってしまったらと思うと、ナマエは怖くて怖くて仕方が無かった。
「ならないよ」
 リドルは悩む暇も無く、即答する。
「ほんとう?」
「本当」
「ぜったい?絶対絶対絶対、大人になんか……あんなバケモノになんか、なっちゃわない?」
「ならない、君が望むなら」
 念押しするように繰り返すナマエの頬に手を添えて、リドルはそっと囁く。悲しい生き物。彼にとってのただ一人どころか、ただ一匹にさえなれない、けれど大切な、ヘビ。間違えて人になんか生まれてきてしまった、リドルだけのいとおしいペット。彼が檻から救い出した、可哀想なヘビ。知らず知らずのうちに互いを縛り合った、哀しいヘビ。
「だから、君も、」


 大人になんてならないでいてあげるから、永遠に自分だけの、可哀想なヘビの儘でいて。





「……だいすき、」
 安堵したように、ナマエはへにゃりと笑う。やっと元気になったか、と、半ばぶっきらぼうにそう言って、リドルはナマエはベッドに放り出す。ナマエはまるで気にしてないようにきゃあ、と甲高く笑って、寝転がったまま、ベッドの端に腰掛けるリドルの裾を引いた。
「うふ、うふふ。だぁいすきよ、おうじさま」
「その王子様っていうの、止めろ」
「やぁだ。だって、貴方は私を助けてくれたんだもの」
「……気まぐれだよ」
「うん。……うふふ。……リドル、リドル」
 しつこいほどに名前を呼び続けていると、ややあって、ようやく諦めたようにリドルは肩を竦め、ナマエの傍に寝転んだ。すかさずその腕の中に転がり込めば、大人しく迎え入れてくれるのが嬉しくて、また忍び笑いを漏らした。

「もういいだろ、早く寝よう」
「うん。……おやすみなさい、リドル」
「おやすみ、ナマエ」





 誰もが寝静まった孤児院の一室で、憂鬱を通り越してもはや陰鬱とでも呼べそうな面持ちの儘に、ミランダ・ベイルは苦しげに嘔吐を繰り返していた。胃の中のものをありったけ吐き出しては、苦し気に肩を揺らして、そして僅かに身体を震わせながら自らの下腹部に右手を添える。
「ちがう、ちがう、ちがう、ちがう」
 同じ言葉だけをずっと繰り返して、虚ろな目で浴槽へと凭れかかる。嗚呼汚い、汚い、おぞましい。救いはない、青い鳥はどこにもいない。青い鳥は来てくれない。


 おうじさまがいてくれたなら、よかった。

 公爵夫人は、いずれ王様の元に嫁ぐんだよって誰かが言っていた。聞きかじっただけの、子供の浅い知識。嫁ぐなら公爵令嬢なんじゃあないの、なんて、思ったりもしたけれど、確証はないから言わなかった。
 王子様は優しいの。王様は厳しくて怖いの。
 そうだね、ここの王様は、怖くて冷たいね。でもあの子は、彼を王子様と呼ぶ。私の王子様なんだよって、楽しそうに、無垢に、無邪気に、五月の陽気みたいに楽しそうに笑う。


 王子様は、二人もいない。
 王子様は、たった一人しか助けない。
ALICE+