薔薇のかんばせ

 最近、どうにも頻繁に貧血を起こす。何か特別なきっかけがあった訳ではないが、時々倒れるのだ。倒れる、といっても然程深刻ではない。医務室にお世話になった時、常勤で勤めている医者が「典型的な貧血ですね、そこまで重症ではありませんが、とにかく鉄分をなるべく取って、偏った食生活は控えて下さいね。それでも改善しないようでしたら、薬を飲まれた方が良いかと」と、穏やかに教えてくれた。貧血。どうにも自分には縁遠い言葉だ。はぁ、と曖昧な返事を返してその場は立ち去ったが、心当たりが全くない。元々、ナマエは生まれた時から健康体だった。少々やんちゃをしていたので怪我は絶えなかったが、病気らしい病気をした記憶はほとんどない。偶に風邪を引くと、両親がこぞって明日の雨の心配をする程度には健康体だった。

「私、貧血なんだそうですよ、恭弥さん」
「貧血……?健康体の君が?無茶なダイエットでもしたのかい」
「それが、心当たりが全くなくて……何が悪いんでしょう、健康的な食生活を勧められましたが、これ以上健康的にすると最早病院食になります」
「嗚呼、そうだね……君好き嫌い皆無だもんね」

 久し振りに会った恋人の膝にお邪魔して大きく溜息を吐く。彼は、ナマエのお腹に手を回して、割と適当そうに返答を返した。おまけに、自分の偏食具合を棚に上げて、暢気に欠伸を零している。この男は好き嫌いが多い癖に、どうしてこんなにも精悍に育ったのだろう。知っている限り、まずニンニク料理が大嫌い。五感が人より優れている所為で、どうにもあの臭いが駄目らしい。同様に臭いのきついものは大概駄目だが、一番苦手なのはニンニクだと言っていた。加えて、基本的に肉しか食べない。それも、血の滴るくらいのレアを好んでいる。彼と焼肉を食べに行くと、いつもお腹を壊さないかひやひやするのだ。そういえば、昼間に会うといつも眠そうだなぁ、とぼんやり考える。あと、無神論者と言って憚らない彼は、教会も嫌いだ。揃いも揃っていもしない神に縋るのか滑稽で堪らないらしい。何となく彼の特徴をぼんやりと思い返して、頭上にあるその整った面立ちを見上げる。
「……」
「……?なぁに?」
「綺麗な顔をしているな、と」
 夜の闇を溶かし込んだような黒髪、黙っていても怜悧な印象を抱かせる切れ長の瞳、シャープな顎のラインには髭なんて見当たらず、薄い唇から紡がれる低いテノールは、いつだってナマエを夢中にさせた。

 雲雀恭弥、というその男は不思議な男である。半年ほど前、彼は会社の飲み会で酔っぱらって道を間違え、繁華街へと迷い込んだナマエを助けてくれた。タチの悪いキャッチに捕まっていたところを救い出してくれた彼は酔った頭にはただのヒーローにしか見えず、あんまりにも好みの顔をしていたので、酔いに酔ったナマエが半ば無理矢理に連絡先を聞き出したのだった。
 そして、翌日。酔いの醒めた頭で昨夜の出来事を思い返し、真っ青になって謝ったナマエに彼は笑って、面白いからとお礼とお詫びを口実にしたデートを受けてくれた。何度か逢瀬を重ねるうちに、ナマエは彼の見てくれだけでない魅力にすっかり夢中になって、つい数ヵ月前に告白したところ、無事彼の了承を得て現在の関係に落ち着いている。
 先述した通り、雲雀恭弥は不思議な男だ。ナマエは、未だに彼が何の仕事をしているのかよく分からない。少し前までイタリアにいたらしく、仕事の関係で日本に戻ってきたという言葉から、多分いいところに勤めてはいるのだろう。いつも黒のスーツで、たまに、いい匂いがする。良い匂い、と言うと、香水か何かのように思えて、浮気を疑うことに繋がりかねないが、彼の場合はそうでもない。香水とは違う、生来の香りとでも言えばいいのか、清廉さと妖艶さを併せ持った、独特の香りがする。成人男性にこんな表現をするのも少し憚られるが、無垢な少女と妖艶な大人の娼婦が一緒に存在している、そんな空気を持っている。性のせの字さえ知らぬような純粋な少年のように潔癖な黒を身に纏うのに、一度スーツを脱ぎ捨ててしまえばそこには獣染みた情欲が潜んでいる。剥き出しの性根は、時に薄ら寒ささえ感じさせるほどに凄艶だ。ナマエは時々、雲雀の美しさに気を取られて息も出来ない。大人と子供を行ったり来たりする、不思議な男。ナマエは、そういえば彼の日常を構成する何もかもを知らない。

「……そういえば、恭弥さんって、普段何をしているんですか?」
「何、突然だね」
「突然、気になって。趣味とか、休日の過ごし方とか、色々……」
 雲雀は少しだけ考え込むように視線を落とした。ちらちらと冷たい炎がちらつくような瞳が、少しだけ和らいでナマエを捉える。
「……仕事が、昼夜問わず不規則だから。空き時間もばらばらだね、休日らしい休日は少ないけど、余り家からは出ない」
「へぇ、意外です。インドア派ですか?」
「人混みは嫌いだから。趣味は、強いて言うなら読書だね。気になったことは調べたい性質だから、文献を読んで一日終わることも多い」
「成る程……」
 多分、彼の言う読書は、一般人の言う読書とは少し違う気がする。微妙な気持ちを抑えながら、ナマエは雲雀へと背中を預ける。彼の身体は、いつも少しだけ冷たい。
「……眠いの?」
「うん……」
「いいよ、寝ても……ゆっくり眠りな」
 彼の声が、何だかぶれて二重に聞こえる。急速な眠気に抗わぬ儘、ナマエは彼の腕の中へと身体を預けた。



 甘く優しい心地が心臓を満たす。身体の底から、何か不思議な快感が湧き上がって、ずっとこのまま彼に身を委ねていたいとさえ思った。
 ……彼?嗚呼、私、今、何をしていたんだっけ?

 そうっと瞼を持ち上げる。赤い月がそこにあった。

「……恭弥、さん?」
 赤い、赤い瞳。ナマエの声にびくりと震えた睫毛は夜に溶け込むように暗い。ナマエが寝ていると思い込んでいたのか、底光りする瞳は少々驚いたように見開かれていた。顔を上げた所為で、今まで隠れていた彼の口元が露わになる。陶磁器のような真白の肌には、べったりとした赤が張り付いていた。余りに鮮烈なその赤は逆に現実味を失くし、絵の具のようだった。
「あ……、」
 口元を濡らす、赤。いつもの青灰色と異なり、底光りする瞳も、その唇を濡らす赤と同じ色をしていた。雲雀の唇は戦慄くように震えていて、その表情は珍しく、何とも言えない複雑そうな色に満ちていた。罪悪感のような、驚きのような、はたまたそのどれとも違うような、初めて見るその顔は彼を別人のように思わせる。
「……どうして、君」
「え?何、何ですか、これ……私、どうして……」
 首筋を伝う、生温い感覚。それが赤い――――赤い、自らの血であると認識した途端、夢見心地だった感覚が一気に冴えわたる。何これ、どうして、何故。どうして、彼が自分の血を啜っているのか。こんなの、まるで。吸血鬼、のような。


「……ごめん」
 雲雀の声が小さく響く。いつの間にか、室内は薄暗く日は沈んでしまっているらしかった。彼は俯いてその赤い瞳を隠し、手の甲で口元を拭って乱雑に肌を汚す血潮を取り除く。はぁ、と零れた吐息が、何だか妙に艶っぽかった。

「ごめん、我慢出来なかったんだ。……本当は、君の身体が不調になる前に辞めるつもりだった。君の貧血は、多分僕の所為で……どうしても、欲しくて。一度口にしたら、止まらなくて……」
 苦し気な雲雀の呼吸は次第に荒くなり、髪の隙間から覗く深紅の瞳に背筋が寒くなる。雲雀はしばらく何かを耐えるように自らの腕を抑えていたが、そのうちにぎり、と鋭い歯牙を噛み締めてナマエの腕を掴み乱暴に床へと押し倒した。
「っ、ごめん……」
「待っ……っ、ふ、ぁ……!」
 何を、と問う前に彼の顔が首筋へと埋められ、一瞬の痛みの後、腰が崩れ落ちそうな快感が身体中を駆け巡る。血を奪われているのだ、と気付くのに酷く時間がかかった。耳を塞ぎたくなるような水音が首元で響いて、反射的に逃れようと身を捩ったが冷たい腕がナマエを囲い、押さえつけて身動きを取れなくする。次々と奪われていく血液に血の気が引いて、このまま全身の血を奪い尽されてしまうのではないかなんて恐ろしい考えが脳裏に過ぎった。
「っはぁ……ナマエ、もっと、……もっと、欲しい、」
 壮絶な色香を孕んだ声音が肌をなぞる。怖くて、恐ろしくて、今すぐにでも逃げ出したいのに、彼に求められるままに何もかも差し出したい。二律背反の気持ちが胸中に渦巻いて、我知らず涙が溢れた。
「ふ、……恭、弥、さ……」
 零れた声も、まるで情事中のように甘く、縋る様になってしまう。引き寄せられるように、雲雀は首筋から顔を上げて唇を重ねる。深く、確りと重なった唇は熱く、ねめった血潮の味に満ちている。血の味のキスは長く、ようやくと離れた頃には、ナマエは既に息も絶え絶えだった。それでも雲雀はまだナマエに乗りかかり、赤く血濡れたような双眸で潤んだ瞳を覗き込む。この瞳に見つめられると、何もかもがどうでもよくなっていく。彼に血を吸われたことなんて、些細な出来事のように思えてしまう。

「……ごめん」

 こんなに雲雀が謝るなんて、初めての体験だった。どうして謝るんですか、と問いかけたくて、でも、あんまりにも彼が悲痛な顔をするから、それも出来なくて。何も言えずにいると、雲雀は先程よりも柔らかな手付きでナマエを抱き上げ、膝に乗せてぎゅうっと強く抱きしめる。
「……、…ごめん」
 もう一度、雲雀は謝った。その声は甘く、ぼろぼろとナマエの脳髄を溶かしていく。先程思い切り血を吸われたことなんてまるで無いように、ナマエは雲雀へと擦り寄って背中に腕を回す。
 雲雀は、未だ赤く染まった瞳を伏せて背中のシャツを強く掴む。普段滅多に使わない力は加減が分からず、どこまで支配すれば彼女という存在を保ったまま、彼女を手に入れられるのか分からない。
 吸血鬼には、魅了の力がある。獲物となる人間を惹きつけ、自らの意思で血を提供してくれるように、根本を惑わしてしまう力を持っている。雲雀は基本的に、少々色香を増して惹き付ける程度にしか力を使ってこなかった。吸った後は自らに関する記憶を消してしまうのが常で、こうやって一人に執着して血を奪うなんて初めてのことだった。我慢できなくなって、眠るナマエから血を奪ったあの時から、こうなる覚悟はしていたのだけれど。

「……君が好きだよ」
 だから、許して欲しい。こんな狡い力を使って、君を手に入れてしまうこと。きっといつか、君の時間を止めて、夜の世界に引き摺りこんでしまうこと。
 許して欲しいと乞いながら、正気の君に自分の正体を晒すことも出来なくて、ごめん。
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