夜を飼い慣らした悪魔

 夜よりも暗い暗闇があるのなら、きっと今のことだと本能的に思った。前も、後ろも、右も、左も、上も、下も、何も無い。ただ暗闇がそこにあるだけである。何もない暗闇の中に、ナマエは一人立っていた。いや、立っているのか否かも定かでは無い。それだけ、ナマエを取り巻く闇は深かった。何も見えないその中からどうにか出ようと足掻くも、今自分がどういう体勢なのかすらよく分からない。

 どのくらいそうしていただろうか。ふと、ナマエは正面にちらつく微妙な灯りを見つけて小さく息を飲んだ。
「     」
 吐息のような声が聞こえたが、何と言っていたのかは分からなかった。誰かが灯りを持っている、顔は見えないが、恐らく男性だ。長いローブを着て、片手にランタンを持ち、暗闇を我が物顔で歩いている。ナマエは咄嗟に、彼に灯りを貰おうと思い、そちらへと駆け出した。しかし、一向に追いつく気配がない。目視してさほどの距離があるとも思えないのに、どれだけ歩いても彼との距離が縮まらない。どうして、と呟いた筈なのに、その声も霧に溶けだしたように音にならなかった。すると今度は、ランタンを持つ男がゆっくりと足音もなく、滑るように闇の中を歩いてこちらへと向かってくる。嗚呼、これで火が貰える。そう思った途端、奇妙な浮遊感に包まれて、ナマエは意識を浮上させた。


「……あれ?」
「どうしたの?」
「今……あれ、何の夢を見てたっけ」
 明るい陽光の差し込む教室で、ナマエはそうっと頭を持ち上げる。寝起きの頭は何だか奇妙にぼやけていて、何の夢を見ていたのか、いや、さっきまで眠っていたのかさえ分からなくなる。視界の隅でオレンジの光がちらついた気がして、ナマエは咄嗟に眼を擦った。
「今何か……あ、いや……何でもない」
 気の所為、か、寝惚けていたのだろうか。言いかけた言葉を呑み込んで、時計を見上げる。そろそろお昼休みが終わろうかという時間帯だった。

 あれ以来、何だか同じ色の光ばかり見つけ続けている。最初は自宅の窓だった。その日、偶々父親は一週間前から出張で、母親は夜勤に出ていた。滅多にない一人きりの夜に帰宅すると、ナマエの部屋の窓に何かが浮いていた。ぎょっとして二度見するともう光は消えていたが、あれはオレンジの光だったと思う。
 次は授業中に校庭で。その次は帰り道の交差点で。また次は部屋の窓から見える公園で。至る所に、オレンジ色は現れた。気味の悪い話だが、それが見えるのは決まってナマエが一人の時だ。しかし、心霊的なものか、と言われると、ちょっと違うと思う。こんな話誰も信じてはくれない気がして、ナマエは誰にも言うことなく、時間だけが過ぎ去っていった。


 夢を見ている。
 夢である、と最初から分かる、非常に稀有な夢だった。夢の世界はまた、前後左右、そして上下に至っても闇で埋め尽くされ、一寸先も分からない。立っているのか座っているのか、はたまた、本当に自分という存在が此処にいるのか。それさえも危うくなるような暗闇だった。だというのに、ナマエには一向に恐怖心というものが浮かんでこなかった。以前も同じ夢を見たから、こうして灯りを持った人が来てくれると、本能的に知っていたからかもしれない。
「      」
 相変わらず、彼の声は聞こえない。聞こえないけれど、何かを話している、というのはよく分かる。ローブを着た男はナマエにランタンを差し出してこう言った。
「ちゃんと振り返ったら、灯りをあげる」
 そこで目が覚めた。


「……変な夢」
 今度は夢の内容も憶えている。嗚呼、そういえば、あの日教室で見た夢にも、彼が出て来たんだっけ。ちゃんと振り返ったら灯りをあげると、彼は言った。ただの夢だ、と思えどさっぱり意味が分からなくて、どうにも釈然としない心地が胸中に居座る。カレンダーを見て、そういえば今日はハロウィンだったな、と思い出した。


 トリックオアトリート、なんて、今日一日でもうどれだけ聞いたか分からない。完全に日本語発音のそれはあちらこちらで飛び交っていて、ナマエの鞄を徐々に軽くしていく。流石に学生故に仮装は無かったが、数人がハロウィンらしい髪飾りやアクセサリーを付けているのを見かけた。馬鹿な男子達が教室でシーツを被ってお化けごっこをしているのが見つかって怒られているのを尻目に、ナマエは友人達と雑談に興じていた。今日一日で獲得したお菓子を並べて、放課後の教室を占領し、どうでもいい話を次から次へと交わしていた。隣からはまだがみがみと怒られている声が聞こえていたが、そんなのは些細な事だ。
「それで、伊藤からチョコ貰ってたら、山中に見つかって没収されてさぁー」
「そういやバレンタインも山中に捕まってなかった?」
「そうなんだよね、何か去年から生活指導の先生厳しくなってる気がする」
「確かに……バレンタインは何とかって人が殺された日、だとか、ハロウィンはただ仮装する日じゃない、とか色々ぼやいてたっけ」
「誰が?」
「山中、と、中谷」
「あー、めんどくさい生指のツートップ」
「バレンタインはともかく、ハロウィンってそういや、結局何の日?」
「何だっけ、ヨーロッパのお祭り」
「死者が帰って来る日だっけ?」
「あ、そういえばこないだ、ハロウィンの言い伝え色々調べてたんだ、私。案外怖いのが多いなって思ってたけど、そういうイベントだったから怖いのばっかだったんだ」
「言い伝えって?」
「あのね、確か、後ろで足音が――――」
 友人が口を開いた、その時だった。無遠慮に教室の扉を開ける大きな音がして、ナマエ達は反射的に飛び上がる。
「こらお前達!もうとっくに下校時間は過ぎとるぞ!」
「やべっ、中谷だ!走れ!」
 飛んだ怒号と同時に全員が駆け出す。荷物は纏めていてよかった、そんな暢気な思考が一瞬浮かんだが、それも直ぐに霧散してしまう。薄暗くなった夕暮れの中をただ走る。校舎中を覆い尽くしてしまうそのオレンジ色は、最近よく見るあのオレンジ色に酷似していた。そういえばあのオレンジ色は、ハロウィンでよく見るあのかぼちゃのランタンによく似ていたっけ。


 走って、走って、途中で家の方向が別れてしまう友人と離れて駆けると、ようやく先生の姿は見えなくなった。はぁはぁと荒くなった呼吸を整えて、ようやく塀へと背中を預ける。みんなは上手く逃げ切っただろうか。暗い通学路には誰の姿も無く、まだ街灯が点く程の時間でも無い所為か、絶妙な暗さを保っていた。今日に限って誰の声も無く、ただナマエの影だけが不自然に長く伸びている。それを見詰めていると、不意に友人が言いかけていた言い伝えの続きが気になって、ナマエは無意識に携帯を取り出していた。


【そういえば、最後に言ってた話、足音が何なの?】


 それだけ彼女に送って、そのまま通学路を歩く。返事を気にして手に握ったまま自宅へと向かっていれば、途中で後ろから足音が響いた。
「……え?」
 確か、さっきまで、この辺りには誰もいなかった。足音は近い、とてもではないが、どこから歩いてきた人のものではないだろう。ぞくり、と、ナマエの背筋に冷たい汗が落ちた。何で、どうして。後ろにいるのは、一体、"何"?
 ぎゅっと鞄を抱えて唇を噛み締める。立ち止まる訳にはいかない、止まったら、追いつかれてしまう。走るのも駄目だ、気付いていると気付かれたら、まずいかもしれない。ナマエはばくばくと脈打つ心臓を抑えながら道を急いだ。歩を進める道には相変わらず誰の気配も無い。何の物音もなく、ただ背後の足音だけがナマエの聴覚を支配している。

 もう、どれだけ歩いただろう。もう少しだ、もう少しで広い商店街に出る。あそこは平日の昼間でもそれなりの賑わいを見せているから、人がいないなんてことはないだろう。大丈夫、大丈夫。そう言い聞かせながら、ナマエは交差点を曲がって。そして、硬直した。目の前には先程まで通り抜けてきた通学路が伸びている。嗚呼、何故、どうして。今まで通っていた道はどうなっているのか、パニックになったナマエは足音のことも忘れて。
 振り返ってしまった。


 どこまでも続くオレンジの世界。絵の具を塗り伸ばしたようなその色は余りに鮮烈で、住宅街の上に広がる広い空には、顔のようなものが浮かんでいた。咄嗟に、ナマエはハロウィンのかぼちゃを思い出す。嗚呼そうだ、あの色は、あの顔は、ハロウィンのランタン――――ジャック・オー・ランタンだ。真っ直ぐにどこまでも続く通学路の先に、一人の男性が立っている。夜を象徴する黒を身に纏って、死の代弁者のように、昼と夜の境に……この世とあの世の境に立っている。翻ったローブの中で、彼の持つジャック・オー・ランタンが嗤っていた。男はナマエにランタンを差し出して、笑った。

「振り返ってしまったね」


 かつん、と、甲高い金属音がして、ナマエのスマホが地に跳ねる。交差点を曲がって来た乗用車のライトに照らされて、メッセージを受信したその画面が明るく浮かび上がる。ナマエの友人の名前と、最後に送ったメッセージの返答が届いていた。



【ああー、あの続き?それはねぇ。"足音がしても、絶対に、振り返ってはいけないよ。死者に、連れていかれてしまうから"】


 薄暗い通学路には、もう誰もいない。
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