醒めるとそこには夢があった

死ネタ、人種差別、精神異常、若干の痛い表現有り
夏.目漱/石箸「夢十/夜」のオマージュ要素を含みます
そこはかとなくメリーバッドエンド





 桜の木の下には死体が埋まっているらしい。
 ふぅん、と、今しがた聞いたその話を、興味無さげに聞き流す。実際、自分にはどうでもいいことだった。でも彼女は気分を悪くした風でも無さそうに、控えめに笑って感情の機微を悟らせないような曖昧さで頷く。そのうちにミセスコールの甲高い、忙しない声が彼女を呼んで、その女は足早にそこから去って行った。

「……桜、」
 聞いたことはある、日本という国にある、薄桃色の花の名前だ。嗚呼そうだ、そう言えば、彼女はその、日本出身だったっけ。


 ナマエ・ミョウジという日本人がウール孤児院で手伝いとして雇われているのはこの辺りでは有名な話だった。余り表立っては話題に出されないが、そろそろ戦争になるだろう敵対国の人間が生活していれば、おのずと噂話の対象にもなる。小さい頃から英国で育っていた所為か、英語にさほどの不自由もないが、完璧とまでは言い難く、加えて黄色人種特有の黄色がかった肌と、質の違う黒髪、そして平坦な顔立ちと揃っていれば、誤魔化すのは不可能だろう。
 彼女は幼い頃に唯一の肉親である父親を失って、この孤児院に預けられたと聞いた。別に積極的に探った訳でも無いが、世情が世情だけに、彼女の情報は嫌でも耳に入って来る。成人に近い年齢にはなったが行く宛てもなく、このご時世では働き口とてあるはずもなく、結局孤児院の手伝いという形で落ち着いているらしい。リドルがここに産み落とされた頃に、もう彼女はここにいた。


 ナマエは、他の子供達に避けられがちなリドルによく構う。今だってそうだ、一人本を読みながら窓の外を眺めていたリドルに音も無く歩み寄って、そしておもむろに、桜の話をし始めた。彼女の話は、面白くはないが、別段退屈でもない。ただ、少なくとも、同年代のくだらない話に付き合っているよりは、よほど有意義であるようには思えた。でもためにはならない。有体に言って、雑談、世間話の域を出なかったのだと思う。彼女の世界はこの孤児院しか無かったのだから当然だ、ナマエには学も無ければ経験もない。リドルを満足させるに値する、学術的な話など出来得るはずもない。
 敵対国の子供だ、と誰かが言う。確かにそうだ、ナマエはイギリス人では無い。人種の所為で罵られている彼女を何度も見た。リドルはそのたびに、彼女にバレないように密かに嘲笑う。嗚呼、馬鹿らしい。


「ねぇトム、潮が満ちるのはどうしてか知っている?月よ、月が呼んでいるの」
「下らない、遠心力と万有引力の関係だろ」
「ば、ばん……?」
「万有引力。そんなのも知らないの、そこらの本に書いてあるだろ」
「ううん……私、そんなに難しい本は読めないから……トムは読んで理解出来るんだねぇ、凄いなぁ」


 年下に馬鹿にされても、からからと笑っている女だった。誰に馬鹿にされても、罵られても、蔑まれても、彼女は笑っている。リドルは彼女にさほどの興味も持たなかったけれど、でも、一度だけ聞いてみたことがある。
「君は、何が楽しくて笑っているの?」
 その言葉を聞いた途端、ナマエは今まで浮かべていたへらへらとした笑みをぶちんとハサミで断ち切ってしまったように表情を根こそぎ削ぎ落として、虚ろな瞳でリドルを射抜いた。初めて見るその表情に、ようやく興味をそそられたようにナマエへときちんと向き直る。

「結果何も変わらないのなら、笑っていた方がマシだよ」

 ナマエはそう言って、初めて笑わずにリドルを見た。それは、笑っているよりよほど彼女らしい。ナマエのことなど何も知らないけれど、直観的にそう思った。そしてその瞬間に、彼女の言葉を思い出す。下らない雑談の中で、唯一彼の中に残っていた言葉だった。


"桜の木の下には、死体が埋まってるんだって"


 桜という薄桃色の儚い花の下には死体が埋まっていて、だからあの花はあんなに美しく咲き誇るらしい。そして死体の血を根こそぎ咲かせ尽くしてから、嗚呼忘れていたとばかりに青々とした緑を茂らせるのだろう。

 リドルは手を伸ばして、ナマエの首へとそっと触れた。
「……?トム?」
 薄い肌の下で、青い血管が脈動している。
「……桜の木の下には、死体が…」
 とくん、とくんと、リドルの手のひらの下でいのちが蠢いていた。
「トム……っ、!?」



 桜の木の下には死体が埋まっているのなら、死体を埋めれば桜が咲くのだろうか。薄桃色をした、うつくしい日本の花。誰かのいのちを奪って、吸い尽くして、晴れ晴れと咲き誇るその花を、見たいと思った。
 眼下に倒れ伏す人だった物を見下ろした。日本の花に相応しい、凹凸の乏しい幼げな体躯が冷たい床に無様に転がっている。リドルのまだ幼い白皙の手が呼吸を奪っても、ナマエは抵抗しなかった。流石に、大人に近い彼女に本気で抵抗されれば、いかに男女の差があるとはいえこうも簡単にはいかなかっただろう。リドルは今でも、何故彼女が受け入れたのかその理由が分からない。


 夜が明ける前に、女の身体を抱えて、静かに庭に出た。孤児院の庭を突っ切って、森と隣接した地面に深い穴を開ける。本来なら、何か道具を使わなければ身の丈以上の深さなど早々掘れはしないが、生憎とリドルは普通では無かった。こうなれと願えば、それは大抵叶えられる。
 深い穴に、女の身体を投げ入れる。綺麗に横たえて、まるで羽毛のように土を振りかけた。丁寧に、丁寧に、リドルは穴を元に戻す。そうしてすっかり元通りの地面に仕立てあげた後、女の在処を忘れてしまわないように、大き目の石を土の上に置いた。墓石のようだった。出来上がった風景に満足して、踵を返す。孤児院で丁寧に手を洗って、そうしてベッドに潜り込んだ。桜はいつ咲くのだろう。





 こんな夢を見た。
 腕組みをしてベッドの端に座っていると、仰向きに寝た女が、静かな声でもう死にますと言う。女は黒い髪を枕に敷いて、輪郭の柔らかな顔をその中に横たえている。真っ白な頬の底に温かい血の色がほどよく差して、唇の色は無論赤い。到底、死にそうには見えない。しかし女は静かな声で、もう死にますとはっきり言った。自分も、確かにこれは死ぬな、と思った。そこで、そう、もう死ぬの、と上から覗き込むようにして聞いてみた。そうよ、死ぬの、と言いながら、女はぱっちりと眼を開けた。大きな潤いのある眼で、長い睫毛に包まれた中は、ただ一面に真っ黒だった。その真っ黒な瞳の奥に、自分の姿が鮮やかに浮かんでいる。

 自分は透き通るほど深く見えるこの黒眼のつやを眺めて、これでも死ぬのかと思った。それで、不意に枕の傍へ口を付けて、死なないよね、大丈夫だよね、とまた聞き返した。すると女は黒い眼を眠そうにみはったまま、やっぱり静かな声で、でも、死ぬんだもの、仕方がないわと言った。
 じゃあ、僕の顔が見えるかいと一心に聞くと、見えるかいって、ほら、そこに写ってるじゃないの、とにこりと笑って見せた。自分は黙って、顔を枕から離した。腕組みをしながら、どうしても死ぬのかなと思った。





 そこで目が覚めた。
 はっとして身体を起こすと、窓から差し込むまばゆい陽射しのお蔭で、今が朝だと知った。どんな夢を見ていたのか、もう思い出せない。桜はまだ咲いていない。

 ナマエ・ミョウジがいなくなったと騒ぎ立てる孤児院の連中を横目に、リドルは何一つ変わらない日常を送っていた。嗚呼、うるさいなぁ。日本人というだけであれだけ彼女を疎んでいた癖に、今更何を騒ぐのだろう。孤児院の窓から外を見つめる。印の石は、あの夜から変わらずあそこに転がっている。桜はまだ咲かない。





 こんな夢を見た。
 ベッドの端に座って、もうすぐ死ぬらしい女を眺めている。どうしても死んでしまうのだろうかと思って、ただ見つめていると、しばらくして、女がまたこう言った。
「死んだら、埋めて欲しいの。大きな真珠貝で穴を掘って。そうして天から落ちて来る星の破片を墓標に置いて。そうして墓の傍で待っていてよ。また、逢いに来るから」
 自分は、いつ逢いに来るのと聞いた。
「日が出るでしょ。それから日が沈むでしょう。それからまた出るでしょ、そうしてまた、沈むでしょう。――赤い日が東から西へ、東から西へと落ちて行くうちに、――ねぇ、待っていられる?」
 自分は黙って頷いた。女は静かな調子を一段張り上げて、「百年、待っていて」と思い切った声で言った。
「百年、私の墓の傍に座って待っていて。きっと逢いに来るから」
 自分はただ待っていると答えた。すると、黒い瞳の中に鮮やかに見えた自分の姿が、ぼうっと崩れて来た。静かな水が動いて写る影を乱したように、流れ出したと思ったら、女の眼がぱちりと閉じた。長い睫毛の間から涙が頬へ垂れた。
 ――もう死んでいた。





 何だか最近、ずっと同じような夢ばかり見続けているような気がする。孤児院の窓から見える景色は今日も変わらない。桜はまだ咲かずに沈黙を保った儘でいるが、リドルは短気な性質にしては随分と大人しく待ち続けていた。今日も桜は咲かない。





 こんな夢を見た。
 女に墓を作れと言われたので、自分は庭へ下りて、真珠貝で穴を掘った。真珠貝は大きな滑らかなふちの鋭い貝だった。土をすくうたびに、貝の裏に月の光が差してきらきらした。湿った土の匂いもした。穴は、しばらくして掘れた。女をその中に入れた。そうして柔らかい土を、上からそっと掛けた。かけるたびに真珠貝の裏に月の光が差した。
 それから星の破片の落ちたのを拾って来て、軽く土の上へ乗せた。星の破片は丸かった。長い間大空を落ちている間に、角が取れて滑らかになったんだろうと思った。抱き上げて土の上へ置くうちに、自分の胸と手が少し暖くなった。

 自分は苔の上に座った。これから百年の間こうして待っているんだなと考えながら、腕組みをして、丸い墓石を眺めていた。そのうちに、女の言った通り日が東から出た。大きな赤い陽だった。それがまた女の言った通り、やがて西へ落ちた。赤いまんまでのっと落ちて行った。一つと自分は勘定した。
 しばらくするとまた唐紅の太陽がのそりと昇って来た。そうして黙って沈んでしまった。二つとまた勘定した。
 自分はこういう風に一つ二つと勘定して行くうちに、赤い日をいくつ見たか分からない。勘定しても、勘定しても、しつくせないほど赤い陽が頭の上を通り越して行った。それでも百年がまだ来ない。しまいには、苔の生えた丸い石を眺めて、自分は女に騙されたんじゃあないだろうかと思い出した。





 奇怪な老人に導かれて魔法の学校に入学してから、数年が経った。相変わらず、変な夢は見続けているし、年に一度帰って確かめても、桜はまだ咲かない。目覚めたときには何の夢だったかもう忘れてしまっているけれど、あの夢を見た後は、何故か決まって、桜のことを考えた。もう、孤児院では桜が咲いてしまっているだろうか。それともまだ眠り続けているんだろうか。逢いに来ると、言った癖に。自分は彼女に騙されたんだろうか。桜はまだ咲かない。百年はまだ来ない。



 ついに一度も桜は咲かないまま、リドルはホグワーツの卒業を迎えてしまった。酷い女だ、逢いに来るって言った癖に、嘘を吐いて、騙して。それともまだ百年は経っていないのだろうか。嗚呼そうか、そういえばまだ百年ではないのか。分からない、分からない。そういえば、逢いに来ると彼女が言ったのはいつだっけ。
「……いつまで待てばいい?」
 百年だ。百年、待てば逢いに来ると、確かに彼女はそう言った。

 いつ?

「……ナマエ」
 女の名前を、呼ぶ。早く桜が咲けばいい、早く逢いに来て欲しい。リドルは荷物を抱えたまま孤児院に戻った。トランクを置く手間も惜しんで、その足で印の石へと向かった。



 すると、どうだろう。星の破片で作られた墓石は何処かへといってしまっていて、代わりに大きな大木がどっしりと居を構えていた。ふらふらと、咲き誇る桜の木へと歩み寄る。すらりと揺らぐ枝の頂きに、心持ち首を傾ぶけていた蕾が、ふっくらと花びらを開いている。薄桃色の花が揺蕩って、骨に堪えるほど匂った。そこへ遥かの上から、ぽたりと露が落ちたので、花は自分の重みでふらふらと動いた。自分は首を前へ出して冷たい露の滴る、一番近しい桜色の花びらに唇を落とした。自分が桜から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬いていた。「百年はもう来ていたんだな」と、この時始めて気がついた。


「約束通り、逢いに来たよ」
 女の声に振り向くと、幼い時分に絞殺したときのまま、彼女が桜の下に佇んでいた。透けるような肌が病的で、そこに淡い桜色の花弁が散ると、何だか堪らない気持ちになる。
「……ナマエ」
 震える声で、彼女の名を呼んだ。リドルは桜の木を知らない、見たことも無い。狂った彼の精神が見る幻覚にしては、いやに精巧に作られた虚像だった。

「トム」

 ナマエが手を伸ばす。リドルは何の迷いも無く、彼女の手を取った。いや、正確には、取ろうとした。けれどそれは叶わずに、伸ばされた互いの手は虚しくすり抜ける。
「……逢いに来てくれたんじゃあなかったの?」
 リドルは少しだけむっとして、ナマエをねめつける。ナマエは笑った。
「だって、トムは人間だもの」
 だから触れないんだよ、と当たり前のように語る彼女に、それもそうかと思い直す。彼女は桜なのだ。リドルは目を閉じて、数歩先へと歩を進め、咲き誇る桜の大木へと手を伸ばす。瑞々しい幹を撫でて、ほう、と息を吐いた。彼女の感触がする。


 リドルは何の迷いも無く、トランクから授業で使っていた切れ味の良いナイフを取り出した。ナマエはただ黙って見つめている。桜の舞い散る幻想の中で、青く光るナイフを光に翳した。
 ナイフに負けず劣らず、青白い光を持つ肌へと、惹かれ合うようにナイフを宛がう。ぐちゅ、と、嫌な音がして、切っ先は彼の喉を貫いた。ぽたり、ぽたりと、溢れ出た血潮が地面を汚す。鮮烈な赤を吸収するように地面に染みて、心なしか桜の桃色が赤く色づいた気がした。リドルは自らを貫いたナイフを無造作に引き抜き、地面に投げ捨てて後ろを振り返った。醜悪に彼女が笑う。自らを殺した男に復讐した女の、悦びの顔だ。応えるようにリドルも笑って、ようやく触れられるようになったその身体を乱暴に掻き抱いた。


 恨み辛みで構わない、未来永劫憎んでくれても構わない。でもずっと、欲しかった。彼女の死体で咲き誇る桜を見たかったはずなのに、長い間待ち続けた執念は歪みに歪んで、そして捻じれた。可笑しな夢に惑わされて、桜になった彼女に逢いたくなった。待っていてと言った。逢いに来ると言った。だから、ずっと、逢えることを夢見て。桜になって、恨みを晴らしに来てくれる日を、ずっと。待っていた。

 嗚呼、捕まえた。何も感じなかったナマエ、殺されても自分を責めず、咎めず、何にも思ってくれなかったナマエ。人ながら桜にされて、人ならざるものにされて、無理矢理に引き摺り出された憎悪にうっとりと瞳を細める。やっと、こっちを見た。さぁ早く、誰かに見つかる前に、この死体をあの日のように埋めてしまわなければ。事切れた自分の身体を見下ろして、リドルは笑った。


 桜の木の下には死体が埋まっている。
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