正義のなきがらを抱いている

レギュラス救済未満、タイムスリップ要素を含みます
レギュラスの彼女が彼の死後リドル世代に飛んでしまうお話





 スリザリン寮の景観は35年前でも何も変わらない。相変わらず陰鬱な気配を滲ませて、その空間を薄暗い湖の中に横たえている。ナマエは溜息を吐いてカーテンを閉め、そのまま靴音を響かせて自室を後にした。


 ナマエ・ミョウジがこの時代に飛んだのは、今からちょうど半年ほど前のことだった。その日の気温は恐ろしく低くて、そして、最愛の彼の訃報が届いた日だったと、今でも強く覚えている。簡素な言葉だった。

"残念ですが、レギュラス・ブラック様がお亡くなりになられました"

 そう言う使用人の顔に感情なんて微塵も無くて、焦って飛び出した先にいた両親も不愉快そうに顔を歪めていた。
「何と言うことだ、ブラック家の跡継ぎが帝王に背くなど」
「怖気づいたのでしょう、嫌だわ、まさか彼が」
 ――――死んだ。
 彼が、レギュラスが死んだ。目の前が真っ暗になる、という感覚は本当だったのだ。使い古された言葉ではあったが、確かにあの時のナマエの現状を説明するのに、この上なく適切な言葉であったとも言える。ナマエは眩暈を覚えてその場でよろけ、瞬く視界に耐え切れなくなって、そのまま倒れた。


 そして、目が覚めるとホグワーツだった。
 そこからの経緯は長くなるので割愛する。ただ、未だ校長では無かった頃のダンブルドア先生に出会い、幸いにも未来から飛ばされてきたという事実を信じて貰えたお蔭で、こうして今もホグワーツに通っている。
 帰る方法を、探さなかった訳ではない。帰れなかった、というのも、間違いでは無い。ただ、それだけが真の理由ではなかったようにナマエは思う。多分、結局。ナマエは怖いのだ。レギュラスのいない時代に帰ることが。そして、正しい時代に戻ったときに、レギュラスがいないのだと実感してしまうその瞬間が。怖くて怖くて、仕方がない。

「……帝王様。嗚呼……帝王様、闇の帝王様、我らが唯一の、ご主人様。どちらにいらっしゃるのでしょう、貴方様は、この時代に……いらっしゃるのでしょうか……」

 レギュラス・ブラックは光栄にも闇の帝王にお仕えする死喰い人の地位を手に入れておきながら、帝王に恐れをなして逃げ出そうとし、その結果誰かに殺されたのだと聞いている。そんな筈は無かった。レギュラス・ブラックは、ナマエ・ミョウジの恋人である。家系図を辿れば遠い親戚に当たる二人は家公認の仲でもあったし、ブラックの血を僅かでも引いた純血家系のナマエは、正式な発表こそないものの彼の両親にも未来の嫁として認められてもいた。それだけの深い仲であったからこそ、知っている。いや、そうでなくとも、彼が闇の帝王に心酔していたことは有名だったのだ。恋人だったナマエはより深くレギュラスの帝王に対する想いを聞いていたし、彼は死喰い人というものがどういう集団であるのかも、何もかもきちんと理解していた。レギュラスは、そんなに知性のない、権力だけを求める下劣な人間では無かった。そんな彼が、帝王を裏切る筈がない。きっと誰かに諮られたのだ。ブラック家の跡取りであり若くして死喰い人となった彼の地位を妬む人間など幾らでもいる。


 この時代、レギュラスは未だ、生まれてはいない。当然だがナマエもだ。つまり、まだ、レギュラスは死んでいない。
 ――――助けられるかもしれない。そんな考えに行き着いたのは、半ば必然だった。元の時代に戻るのは必須目的ではあれど、飛ばされた時間そのままに戻っては意味がない。何とか帰る時間をずらして、レギュラスが死ぬ前に……それも、出来るならば誰かにレギュラスが陥れられる前に戻れないだろうか。ここ最近のナマエの思考回路はそればかりに占められていて、授業、睡眠、食事以外の自由時間はほとんど図書館に篭り切りになっていた。何らかの偶然で、こんな過去にまで飛ばされたのだ。また偶然に、元の時代に戻されてもおかしくはない。それまでに、対抗策を見つけなければと、ずっと必死だった。
 だから、正直。ナマエにとっては迷惑なのだ、何かと構ってくる、この、甘い面立ちを携えた、トム・リドルという男子生徒は。


「やぁ、ミスミョウジ。今日も君は図書館かな」
「ごきげんようミスターリドル。ええそうよ、図書館。忙しいから邪魔しないで」


 一体全体、何だっていうのか!
 この男はナマエの行く先々に現れて何かと理由を付けて話しかけてくる。最初は勿論有り難かった、学ぶ内容はさほど変わっていないとはいえ、授業の進み具合は違ったものだから世話を焼いてくれるこの優等生の好意を有り難く頂戴していたし、その優等生の容貌がおぞましい程に整っているとなれば、女性である以上嬉しくないわけがない。だがそれでも、ナマエの心に思う男性は、レギュラス・ブラックただ一人だ。例外的に闇の帝王や両親、そして未来の義両親になるはずだったオリオン様やヴァルブルガ様ならどんなに忙しくてもそちらを優先するだろうが、たかが顔が整っている優等生というだけでは、今のナマエにとって何の価値も無い。
 彼の取り巻きがいる場ではあまり強く拒絶も出来ないが、二人きりとあれば容赦なく振り切らせてもらう。邪魔だ、帰れ、どっか行け。オブラートに包むのは数ヵ月前に諦め、嫌悪の感情も剥き出しにそう追い払っても、彼は意にも介さない。何でだ、マゾなのか、どういうことだ。ちやほやされすぎて冷たくされるとときめいちゃう性癖に目覚めたのか。だったらそう言えばいいと思う、彼に好かれるためなら世のお嬢さん方はこぞって彼の理想の女王様になるべく奮闘するだろうから。


「いや、残念ながらマゾという訳では無いかな。どちらかというと虐めたい」
「心を!心を!読まないで!変態!貴方の性癖なんか聞いてないわよ!」
「さすがに不名誉な誤解をされてるようだったから、訂正しないとと思って」
「サドだって褒められた性癖じゃないから!公言しときなさいよ!貴方の取り巻きが喜んで奴隷になってくれるでしょうよ!」
「飼い慣らす過程のいらない家畜は詰まらないとは思わないかい?」
「いやあああ止めてそんなマニアックな性癖の話聞きたくない!」
「犬も馬も言う事を聞かせるまでの過程が楽しいんだ。嗚呼安心してくれ、ただのペットの話だから」
「この流れでただの動物の話だと思えるとでも?!」
「ところで、人間の分類は何だったっけ」
「誰か!取り巻きは!どうして取り巻きはいないのよ!!」
「置いてきた」
「連れてきて!私の為に!」


 嗚呼いとしのレギュラス、尊敬する両親とオリオン様ヴァルブルガ様、そして敬愛する帝王様。こんなのがホグワーツ始まって以来最高の天才だなんて認めたくありませんただの猫被りで性悪変態サド野郎じゃねえか。


「私に!関わらないでちょうだい!私は忙しいのよ!!」
 未だに後ろを追って来るリドルをきっと睨み付けて大きく肩を揺らし、そのまま踵を返して図書館に向かう。今度はリドルは、追いかけては来なかった。不気味なほどにうつくしい、薄っすらとした冷たい微笑みだけが、ナマエの立ち去った廊下にずっと残されている。

 嗚呼、こんな奴に構っている場合では無い、早く早く、レギュラスを助ける方法を見つけなければ。幾らあいつが頭が良いって言ったって、天才的だと言ったって、闇の帝王に敵う筈は無い。あんな男、例え帝王が欲しいと言ったって、ナマエは反対だ。半年しか、いや、正確には本性を知ってから数ヵ月しか経っていないが、それでもはっきりと分かる。あれは我が強すぎて、誰かに従うタマでは無い。どうせここはナマエの時代から35年しか遡っていないのだ。あれだけ頭がいいと持て囃されているのだから、元の時代でも生きているならまずもって帝王が見つけるだろうし、くたばっているとしたらざまあみろだ。だから関わりたくない、早く、早く。解決策を見つけて、帰らなければ。







 スリザリン寮の景観は今日も薄暗い。誰もが寝静まった深夜、時折ぱちりと音を立てる暖炉の傍に腰掛けながら、リドルは分厚い専門書を読み流すように視線を滑らせていた。静まり返った談話室に、彼以外の姿は無い。
「……何の用だ、アブラクサス」
 ぱち、と、放り込まれた薪が音を立てて燃え尽きる。それを合図にしたように、無人の室内でリドルが静かに声を上げた。

「……いいや、特には。でも何故彼女なのか、とは気になってね」

 ぼんやりとした灯りで辛うじて足元が見えるだけの階段の奥から、神々しいプラチナブロンドが揺れ出た。リドルは元から気付いていたかのように、ちらりとも視線を寄越さず黙する。アブラクサス、と呼ばれた彼はそのまま歩を進めてリドルの傍まで歩み寄り、ふぅ、と、軽い調子で溜息を吐いた。

「どうして彼女にはあんな対応を?」
「少し、面白くて」
「……面白い?嗚呼まぁ、確かにこんな時期というか、こんな学年では珍しいとは思うけれど……」

 不思議そうに首を傾げるアブラクサスを横目に、リドルはようやく本を閉じてついと視線を上に上げた。必然的に下から見上げるようなその瞳には、相変わらず何の感情も滲んでいない。硝子玉みたいに、綺麗な瞳だった。強い意思は感じるけれど、それが何かは分からない。一番厄介な類の強さだ。

「知りたいか?アブラクサス」
「そうだね、是非とも。何がそんなに、お高くとまっている君の気を引いたのかな」
「……単純なことさ」
 リドルの、細くて白い指先がアブラクサスの額を指差す。面白そうに釣り上がった口角とは対照的に、薄っすらと細められた瞳の温度は冷えたままだ。

「あれは、闇の帝王に心酔し、隷属する下僕だ」
「……まさか。彼女は女子生徒にしては珍しく、君を嫌っているだろう?」
「そう、ナマエ・ミョウジが仕えているのは僕じゃない。さぁ考えろ、アブラクサス。こんな中途半端な時期に、学年に、転校してくる魔女が通常の事情だと思うか?答えはノーだ、嗚呼、一年生だって分かるさ。そしてあれの主人は闇の帝王だ、さらに最後。……先日あれが借りていた本は、時間と空間の転移について」


 そんな、まさか。
 アブラクサスの瞳が驚愕に見開かれる。珍しいものを見たリドルは機嫌よさそうに、けれど同時に馬鹿にもするように鼻で笑って、ソファに投げ出してあった己のローブを乱暴に肩に引っ提げる。

「……自分が心酔し、敬愛し、崇拝していた帝王が、ずっと邪険にしていた男と同一人物だと知ったら。あの女はどんな顔をするかな?」


 そして必死に探している、裏切り者の恋人を救う手立ても、リドルにはおおよその検討は付くのだと知ったら。どんな顔で、自分の前に立つのだろう。どんな表情で、どんな言葉を吐き出すのだろう。嗚呼、楽しみで仕方がない。あの強固な信念に固められた心は、どれだけ揺れ動くのか。悪趣味な遊びに興じている主人が肩を揺らしながら男子寮に消えゆくのを見守って、アブラクサスはもう一度、大きな溜息を吐いた。嗚呼、全く。未来の闇の帝王様は、未来の下僕にもまるで容赦がない。
ALICE+