型紙の心臓を鳴らせ

リドルが病弱という捏造設定有り





 その少年が廊下を歩く時、誰もが皆一斉に振り返っては何かに導かれたように道を開ける。紐で括り付けられ、そしてついと引っ張られたように身体が動くのだ。それをさも当然のように受け止めて、少年は微笑む。わぁ、と広がった甘やかな恋の溜息を素知らぬ顔で掻き分けて、そして姿勢よく歩き去るのだ。ぴんと伸ばされた背筋は冬の水面のように張り詰めていて、嫋やかな仕草は奇妙に艶めかしく、しかしそうと感じる自分が浅ましい生き物であるかのように、彼の瞳は酷く寒々しい。劣情を抱くことさえ躊躇わせる、不可侵の美。まるでミロのヴィーナスのようだ。マグル出身の生徒の多くは、そしてとりわけ富裕層出身の生徒は、こぞって彼を芸術品に例えただろう。トム・マールヴォロ・リドルという名の少年には、絵画的な美しさがある。誰もに好かれる柔らかい性格を持ち、周りを女子生徒に囲まれ、ホグワーツ一の人気者と名高い天才生徒でありながら、告白を受けたという噂が一番多い生徒という訳ではないのが何よりの証拠だ。

 うつくしすぎて、手が届かない。

 余りに整い過ぎた美貌は相対すればぞっとするほどで、最早触れることさえ躊躇われる。俗物的な恋情をぶつけるなどもっての外だ。彼はもっと違う、有象無象の一般市民とはまるで異なる、遥か遠い高みにいるのだと、誰もが多かれ少なかれ考えている。だから、触れられない。だから、告白出来ない。特別は特別のままで、天高く飾られているのが一番うつくしいのだと、誰もが無意識に知っていた。


 うつくしく蠱惑的な容貌、誰もがひれ伏す高い知能、そして生誕と同時に母親を失いマグルの孤児院で育ったという影のある過去。そんな神秘性を抱かせる背景が揃った上に、さほど身体が強くないという儚さを加えれば、最早完璧だ。膨大過ぎる魔力に身体が耐えられていないのだろう、と、誰かが言う。そんな現実味の無い噂話が半ば本気で信じられるほどには、彼の魔力も知能も桁外れで、青白い面立ちが哀愁帯びて微笑むだけで誰もがそれを、真実と疑わない。
 トム・マールヴォロ・リドルは神性を持った生徒だった。



「本当に面白い認識だと思うよ、私は」
「……黙れ、このクソハゲ野郎」
「ほらほらリドル、か弱い天才少年がそんな言葉遣いをしてはいけないよ。折角黙っているだけで誰もが勘違いを加速させてくれる便利な美貌なんだから、有効活用をしないと」

 深夜の男子寮で、荒い息を押し殺しベッドに沈み込むリドルを、アブラクサスが暢気に見下ろしていた。か細い呼吸音は常より早くて、赤らんだ頬が血の気の引いた肌と対照的で背徳的なまでになまめかしい。熱の所為か、しっとりと汗ばんだ肌は最早暴力だ。アブラクサスに同性愛の気は無いけれど、嗚呼これは確かに世の女性が魂を抜かれたみたいに見惚れるな、と奇妙に納得してしまった。要するに、病弱な所為か生死の境が近いのだと思う。死の危険が近いと蠱惑的になるだなんて俗説もあるほどだ。

「嗚呼くそ、いらいらする、何が神秘的だ、何が薄幸の美少年だ。こんな満足に動かない身体のどこがいい」
「何もかも、君の美貌の所為だと思うよ」
「こんな顔面、欲しけりゃくれてやる」
「嗚呼、それは魅力的な言葉だ。でも愚鈍な男がその見目だったからって、今の君より人気者になるだなんてありえないだろうね」
 もう一つのベッドに腰掛けて、アブラクサスが笑う。熱っぽい吐息を吐き出しながら、リドルは視線だけでその男の顔を睨み付けた。さら、と、白銀の髪がローブを流れる。丁寧に手入れされたプラチナブロンドはリドルの髪よりも細く、絹の様な存在感を放っていた。組まれた長い脚が、上品な衣擦れの音を零して戻される。


「……そういえば、彼女はまだ戻って来ないのかな?」
「……、…どうせ、談話室で他の奴らに捕まってるんだろ」
「嗚呼、そうかも知れないね。何せ君は学校一の人気者だから、見舞いに来たがる生徒が多くて大変だ」
 そう言って笑った途端、荒っぽい調子でドアが開けられて、息を切らせた女子生徒が飛び込んできた。音に反応して、二人の視線が入口に集まる。少女は肩を揺らしながらぐったりと床に沈み込み、次いで気迫の無い瞳でぼんやりと視線をベッドの方に向けた。


「……取って……来たわよ……」
 片手にはタオルと水差し、そしてボウルが。もう片手には小さめのバケットが握られている。アブラクサスは形ばかりの笑みを浮かべて仰々しく両手を広げ組んでいた足を地面に戻した。
「やぁナマエ、お帰り」
「はいはい、そういうのいいから。手伝いもしないで白々しい。これ、頼まれてたやつ」
 ナマエはのろのろと身体を持ち上げると荷物をリドルのベッドの傍に放り投げるように床に落とし、そのまま帰ろうと踵を返す。
 でも、その前に、リドルの華奢な手がナマエのローブを掴んだ。

「……?何、」
 質問攻めに遭った所為か、ナマエは少々機嫌悪そうに振り返る。けれどそんな様も無視して、リドルは視線でベッドサイドを指し示した。
「好きなの、持っていけ」
「……くれるの?」
「食べ切れないし、甘いものは好きじゃない。ただし手作りには注意しろよ、どこの馬の骨とも知れない女の虜になったって知らないからな」
「はは、悪いけどそんな趣味ないから既製品だけ貰ってく」

「でも既製品でも、時々変な呪文かかっているよねぇ」

「………」
「………」
 アブラクサスの言葉に、リドルもナマエも黙った。そして二人揃って、山積みになっている贈り物に視線を向ける。
「燃やそう」
「そうだね、それがいい」
 ナマエの提案に即答し、リドルは寝返り打ってしっかりと彼女と視線を合わせた。余りに深い深淵の瞳とかち合って、ナマエは無意識に瞳を揺らした。彼のこの瞳は、苦手だ。時折見せる炎が揺らめいたみたいな赤い瞳も勿論苦手だけれど、この通常時の黒壇でさえ、何だか眺めていると深海に沈んでしまった気分になる。気付いたら周りは真っ暗な海底で、どこにも見知った物は無くて、そして当たり前だけれど誰もいない。そうしてリドルが、リドルだけが、そんな底冷えする暗闇の中から、唯一助けの手を伸ばしてくれる存在のように見える。その手を、取ってしまいそうになる。怖い目だ。


「……」
 焦点を合わせないようにするナマエに、リドルは鼻で笑って瞳を細めた。
「怯えてるのか?」
 しんそこ馬鹿にしたような声音だった。ちがう、と言いたかったのに、ひゅっと息が詰まって言葉が喉の奥に絡まる。怯えている。違う、怯えている訳じゃない。でも怖い?――――分からない。その眼は怖いし見ていたくはないけれど、リドル自身が怖いかと問われたら、また別だ。でもそれを上手く説明できるほど、ナマエは口が達者な訳でも無い。僅かに唇を震わせるナマエを見上げるその笑みは楽しげで、だけど酷く薄ら寒かった。熱が出て身体に熱を抱え込んでいる癖に、温度が無い。そういう顔は、多分、怖いよりも怯えよりも苦手よりも、きっと。"嫌い"だ。

「……嫌いだよ」


「っ、ふ……ふ、…あっはははははははは!!!」
 ナマエが辿り着いた解答を馬鹿にしたように甲高く笑う。けたけたと肩を揺らして、心底楽しそうに、そして心底蔑むように、だけどいっそ慈愛染みているかの如く、細まった瞳孔が一直線にナマエを射抜いた。

「でもお前は、結局嫌いな僕に従うんだな?」
「そうだね」
 リドルの全てが嫌いな訳じゃないけれど、かといって好きな箇所がある訳でもない。でも強いて言うなら、風邪や熱に魘される最中にやけに饒舌になるこの無意識の癖は、嫌いじゃなかった。


 ふらふらしていて、きっと身体は極限まで怠くて、今すぐ眠ってしまいたいほど自分の脆弱な身体にイラついている癖に。ナマエが帰ろうとするとすると必ず話しかけていることに、きっとこいつは気付いていないんだろう。
 寂しい、構え、なんて、素直に言えるこいつだったなら、最初からナマエは怯えなかったし、従うどころか嫌いにすらなかった。
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