03

その男が思いつめたような顔をして校長室へと入ってきたときのことを、ダンブルドアはありありと覚えている。ちょうど、校長とナマエの件について話し合っているところだった。こんこん、と控えめなノックの音がして、透き通るような甘い声が扉越しに室内へと響く。


「校長先生、少し失礼してもよろしいでしょうか」
「おおリドル、どうかしたかね」
「はい、……実は、大事なお話がありまして」


許可され、室内へと立ち入ったリドルは、真剣な顔をして学校を退学したいと告げた。驚嘆に最早声も出ない校長に代わり、いち早く正気に戻ったダンブルドアが何故かと問えば、彼は少しだけ言い淀んだ後にゆるりと柔らかに笑って瞳を細める。彼にしては珍しく、質問の意図から少しずれた解答だった。でもきっと、それも意図したものなのだろう。


「……ナマエは、彼女はミョウジの後継者です。あの家は男尊女卑の傾向が強いと以前に聞きました……もしも女の儘だったなら、自分は学校になど行けず、年頃になったらさっさと婿を取らされ観賞用にされるのがいいところだ、と。彼女が女性とバレてしまった以上、もう後継者で居続けることは難しいでしょう。であれば、連れ戻される危険性の方が高い」
「……、…すると、つまり。トム、君は、ナマエ・ミョウジの性別に気付いておった訳じゃな」
ダンブルドアの鋭い言葉にも、柔らかな空気を崩さぬままに、リドルは頷く。その空気は、何だか異様なまでに凪いでいて、一種の不可侵性をさえ感じさせた。


「はい、知っていました。……知っていて、黙っていました。相応の罰は受ける心積もりですが、退学してしまえばそれも関係なくなってしまいますね」
「トム、トム。……ならば一つ聞かせておくれ。君の退学は、ナマエ・ミョウジの為かね」
ダンブルドアの質問を聞いて、一瞬だけリドルは瞳を瞬いた。


「……いいえ」
そう言って、整った唇が、大きく弧を描く。
「僕の為です」
綺麗に、綺麗に、リドルが笑う。
「僕の為に、ナマエと行く。……これをナマエの為だと言うのは、あんまりに押しつけがましいじゃあないですか。だから、全部、僕の為です。僕は、僕の為にしか動きません、それは先生もご存じでしょう?」
微笑みの中に冷たい刃を隠し持って、薄ら笑むその容貌は、ぞっとするほどに歪に美しい。美しいが故に、おぞましい。背筋が凍るような、そんな笑みだった。ようやく混乱から立ち直った校長が一瞬怖気づいたように怯むも、直ぐに少し焦ったように早口で言葉を捲し立てる。
「いや、しかし、しかしだな。……君は賢い、一時の感情だけで、そう早計な判断をすべきではない。君は、間違いなく偉大になれる……それをここでふいにしてまで、それでも行きたいと望むのか?」


「……僕はもう、大抵の魔法使いより賢いし、知識もあります。確かにここの、積み上げられた叡智は魅力的ですが……でも、それだけだ。僕はもう独学でも学んでいける、確かに時間はかかるだろうけれど、それもまた一興だと思いませんか」


その、瞳が。まるで熱い熱でも孕んでいるように見えて、ダンブルドアは一瞬、見惚れた。


「僕は自由だ。僕は優秀だから、望めばきっと、何にでもなれる。――――僕は今、誰より優れた魔法使いなんかより、ナマエにとって、唯一無二の人間になりたいと思いました。歴史に名を遺す魔法使いにはこれから先だってなれる可能性はいくらでもあるけれど、彼女を守るには今しかない。今、彼女の心を守らなくて、いつ守るんですか。卒業してからじゃ遅いんです……彼女が助けて欲しいのは、他でもない、今なんです。時間が経てば、彼女は自分自身で折り合いを付けてしまう。その後じゃあ、遅いんです。だって僕たちは、今一番心が柔らかい時期です……今しか、無いんだ」


熱い。熱くなって、溶けていく。少年の剥き出しの感情に、今初めて触れているのだと、ダンブルドアだけが気付いていた。きっと、当の本人ですら、今現在、自分の本心を曝け出している自覚はない。


「……だから、行かせて下さい。ホグワーツは、入学も退学も自由でしょう?止められても出て行きますが、どうか、僕の感情を、僕の選択を、認めて下さい」


誰より優秀な少年が、何もかもを放り捨てて、ただ一人を選んだ。それがどれだけ凄いことなのか、きっと選ばれた少女は気付いていないんだろう。でも、それでいいのだと思う。そういう少女だから、きっと彼は選んだ。守りたい、だなんて感情を憶えた。人生を投げ捨てて、一生と引き換えに、彼女の心だなんてちっぽけなものを守った。

一人きりで帰るのはきっと心細いだろう、悔しいだろう、哀しいだろう。
今まで後継者として敬われてきたのが引きずりおろされて、どうしようもない性別なんかで見下されるのは余りに苦しいだろう。
そんな中に放り込まれても、でもきっと、ナマエは何だかんだで自分の中で折り合いを付けて生きていける人間だ。傷ついても、それを表には出さない、プライドの高い人間だ。でも、だからって、哀しくないわけじゃない。傷つかないわけじゃない。




「……救われたんです、あの日、僕は確かに。彼女は僕の世界で一番綺麗に見えていた、彼女に出逢って、世界は確かに美しくなった」
校長室を出る直前、独り言染みてリドルが呟く。

救われた、なんて大袈裟なことは思わない。リドルは誰にも救われない、そんな他人任せの人間ではない。でも、敢えて彼らの前では、その言葉を使った。
「だから今度は、僕が彼女の世界を守る――――他人を傷つけるしかしてこなかった人間不信の孤児が掲げるには、それなりに感動的な理由でしょう?」


そう言って笑ったリドルの顔は、魅力的な取り繕いを全て引き剥がした、年相応の少年のものだった。






2017/04/01 April Fool's Day
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