象牙の鈍足

 赤い瞳が好きだ、と思う。
 どこを見ているのか分からない、ただ、厭世的というには少し瑞々しい。赤というのは情熱的な色だ。食事に彩を加えるには赤を入れろとよく言うし、見ていると何となく、昂揚を憶える。赤い瞳が好きだ。その、苛烈な赤を宿す癖に、正反対の知性に満ち溢れた、矛盾ばかりの男が好きだ。赤司征十郎という、その人が好きだ。

 端的に言って、赤司征十郎は矛盾した男だと思う。名家の御曹司だというその立ち居振る舞いは控えめに言っても周囲の人間とは一線を画していたし、容姿も頭脳も何もかもが一級品だった。でも、別に彼自身がそれを鼻にかけているということはない。多少の取っつき辛さはあれど話してみれば案外気安く、馬鹿みたいな雑談にも興じてくれる、非常に出来た男だった。年頃の男子中学生らしくAV女優の名前をけっこう知っていたり、タレントの誰が好みか何て俗っぽい話を気兼ねなく話せた。でも、かと思えばまいう棒の味さえ知らなかったり、電車の乗り方さえ覚束無くて、その不安定さにはっと意識を引き戻される。嗚呼、こいつは自分達とは違う世界の人間なんだな、と、思い知らされる。何となく、それが赤司の引いた境界線なんだろうな、と思った。


 折原紗雪と赤司征十郎が出会ったのは、春の日差しがベールのように降り注ぐ四月の事だった。紗雪の方は入学当時から有名だった赤司のことを一方的に知っていたけれど、だからといって面識があった訳では無い。積極的に関わりにいく必要性も感じていなかったから、関係性は同学年の男女というだけだ。それが、二年になって、同じクラスになった。そればかりか、一か月後の席替えで隣り合わせになったのだった。赤司は、いつもの人好きのする笑みを浮かべて「よろしく、折原さん」と笑った。完璧に象られたその笑みは頬にかかる陰影さえも美しくて、思わず紗雪は瞳を細める。よろしく、と返した声がきちんと温度を保っていたか、紗雪は覚えていない。何がきっかけだったのか、何をきっかけとしたのか、それは定かではないけれど、赤司と紗雪はそれからぽつぽつと話をするようになった。気が向くと赤司は紗雪に何処から仕入れてきたのか分からない雑学を教えてくれる。
「デカイヘビっていうヘビがいるんだけど、実は全くでかくないんだ」
「ネコって鎖骨がないらしいよ」
「チュッパチャプスのあのロゴ、デザインしたのはかの有名なサルバドール・ダリなんだよ」
 紗雪はそれを聞いて、へぇ、とか、ふぅん、とか気の無い返事を返すことが大半だったけれど、赤司は別段気にした風でもないらしかった。話の内容そのものに重きを置いていた訳ではないのだと思う。多分、赤司は、そういうくだらない話を意味なく口にするという行為そのものに意味を見出していた。彼は知識をひけらかして得る優越感なんかに微塵も価値を感じていない。紗雪は、多分彼のそういうところが好きだったし、有り体に言えば愛してもいた。
 折原紗雪は赤司征十郎のことが好きだった。
 その気持ちを表に出したことは無い。そもそも長い間、紗雪自身もそれを自覚していなかった。赤司の方は、どうだか分からない。もしかしたら、友人が自分に向ける友愛以上の何かを感じ取って上手にそれから逃げていたのかも知れないし、案外懐に入れた人間には情を見せる人間だから、それに気を取られて気付かなかった可能性もある。何せ、赤司にとっての紗雪とは、多分女子で一番の友達であった自信があるので。関係を壊したくなくて黙っていた可能性も無くは無い。赤司は紗雪をとても大事にしてくれた。ただ、友人とは言っても、休日に一緒に遊んだ記憶は無い。話をするのは休み時間の短い間だけで、放課後は彼は直ぐに部活に行ってしまったし、昼食も一緒に食べた記憶は少ない。でも、気が向くと食堂に誘ってくれた。赤司は時々、何の前触れも無く「折原さん、お昼を食べよう」と財布を揺らす。それに二つ返事で頷く日もあるし、先に他の友人と約束していて7断らざるを得ない日も勿論あった。けれど、断っても、互いに気まずくなることは決して無かった。それは逆もまた然りで、紗雪の誘いを赤司が断っても、二人の空気は何も変わらない。絶妙な距離で保たれた二人の関係は、二年生の途中で赤司に彼女が出来ても何ら変化が訪れることは無かった。

「……そういえば。彼女が出来たんだ、俺」
「え、そうなの?おめでとう、こないだ言ってたマネ?」
「うん、辛い仕事なのに、文句一つ言わなくて、いつも明るくて。妙にやっかみを受けやすい立場で、女子同士で何だか揉めていたみたいだけど、誰にも頼らなくて……ずっと笑ってる、可愛くて、いい子だな、って思って」
「へぇー、赤司君がベタ褒めするなんて珍しい。いい子なんだね、マネ多すぎてちょっと誰だか分かんないんだけど、私知ってる?」
「どうかな……いや、多分一度も同じクラスになってないんじゃないか?」
「そっか、ええと、おめでとう、大事にしなよ」
「勿論」

 彼女が出来た、と言われて、何か感じたかと言われれば、正直そんなことはない。驚いて箸を持つ手は止まったが、よく言われるように胸が痛くなったとか、締め付けられるように感じたとか、そういうことは全く無かった。自分と赤司にあるのは友情だと、ただ愚直に信じていたのだ。二人で食べる昼食はそれからもずっと続いたし、雑談の中に時々彼女の話が混じるくらいで、何も変わらなかった。三年生になってまたクラスが離れても、赤司は時々紗雪のクラスにやってくる。そして財布を揺らして、言うのだ。
「折原さん、お昼を食べよう」
 三年生になって赤司の一人称が変わっても、二人は変わらなかった。でも、一度だけ、紗雪は赤司に尋ねた。

「……イメチェン?」
「は?」
「一人称。前、"俺"だった」
「嗚呼……」
 赤司はいつもと同じように、上品に持ち上げていた箸を下げて紗雪を見た。食器と擦れる小さな音がして、細い箸はテーブルへと揃えて置かれる。
「元々僕らは二人いた、それが入れ替わっただけさ」
「あ、何だっけ、二重人格ってやつ?」
「そう、賢いね」
「ってことは……えーっと、今の赤司君は、副人格?」
「……どうかな。お前が知っている"赤司"が副人格かもしれないよ」
「あ……ごめん」
 傷つけた、と思った。貴方は二人目だ、と言われるなんて、誰だっていい気はしないだろう。俯く紗雪に、赤司は小さく笑う。
「……別に怒ってない。お前は、何と言うか……"僕"にも態度を変えないな」
 誰しも僕を見て複雑そうにするのに、と自嘲染みて口端を吊り上げ、再び箸を上げて食事を再開する。小さく切られたハンバーグが丁寧に口へと運ばれていくのを眺めながら、紗雪はぼんやりその整った顔を眺めた。綺麗な顔をしている、といつも思う。知性に揺らぐ赤い水面は、なるほど確かに金色へと変わっていた。
「そう?皆神経質になり過ぎだね。赤司君、昔からずっと、こんな感じなのに」
 その言葉に、赤司は少し驚いたように瞳を見開いた。大きな瞳が零れ落ちんばかりに見開かれ、その驚嘆をありありと伝えた。
「……そうかい?」
「うん。赤司君て、いい人だけど、時々なんか、冷たいし。結果主義みたいなとこあるし。潔くてかっこいいと思うけどね」
 赤司は少しだけ黙って、その後、下手くそに笑った。出会った頃と同じ、照れ臭そうで、何処か寂しそうな笑い方だった。

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