象牙の鈍足

 そんな紗雪の決意は、奇しくも出会って数分で打ち砕かれた。
「やぁ、久し振り、折原さん。元気だったか?」
「うん、久し振、り……?」
 言語化出来ない不思議な違和感に、思わず言葉尻が掠れる。赤司は分かっていたかのように笑って、「……やっぱり君には見抜かれるか」と諦め混じりに零した。紗雪が何かを言う前に、少し急いたような赤司の声がそれを遮る。
「別れたんだ、彼女と」
 あっけからんと言われた言葉に、紗雪は静かに瞠目した。赤司は何とも言えない、笑みになり損なったような複雑な表情で僅かに視線を下げる。アスファルトが少しだけひび割れて、そこから瑞々しい青葉が覗いていた。もう冬も深まって来たのに、逞しく都会の下で生え栄えている。
「……取り敢えず、カフェにでも入ろうか、長くなりそうだから」
 赤司の言葉に従い、二人でコーヒーのチェーン店へと入った。


 互いに一つずつ注文を済ませ、余り混み合ってはいない店内の奥へと腰を落ち着ける。優雅に正面へと腰掛けた赤司は、一口コーヒーへと口を付けてから、ついと視線を動かし紗雪を見た。
「さて……何から話そうかな。何から聞きたい?」
「ええと……じゃあ、質問。別れたって、そもそも中学の時に、二人って別れてなかったっけ?」
「嗚呼、うん。言ってなかったんだが、実は去年のウィンターカップの時に、復縁していたんだ。気付いているかもしれないけれど、入れ替わっていた人格が元に戻ってね。それで、まぁ、彼女は"僕"を余り好いてはいなかったから……"俺"に戻った事で、もう一度やり直そうってことになったんだ」
「成る程、おめでとう……でも、ないか。別れたんだもんね。ええと、何、またもう一人に変わっちゃったとか?」
「いや……そうではなくて、ね。戻ったんだ」
「ん?」
「戻ったんだよ、最初の"俺"に……一人に、戻ったんだ」
 喧騒がばちんと途切れた気がした。
「……え?」
 赤司の言葉が単語の羅列だけでぐるぐると頭を巡っている。意味を汲み取れ切れず、紗雪は抜けた声を漏らして彼をじいと見詰めた。穏やかな美貌がこちらを見つめ返している。知っている筈なのに、何故だか別人みたいなその面立ちに、思考より本能が理解する。
 そうか。もう、あの赤司は、いないのか。三年間、話し続けていた赤司は、否、赤司達はもういない。一人に戻って、消えてしまった。消えてしまった、という表現はよくないのかもしれない。でも、その時紗雪は、確かに赤司は消えてしまったんだと感じたし、そう感じて零れてしまった涙を見ても、赤司は困ったなぁ、というようで笑うだけで、何も咎めはしなかった。
「……記憶が、感情が消えた訳じゃない。俺達は一度に二人出る事は出来なかったから、ちゃんと一貫して続く記憶として、全部きちんと残ってる。そして、一人に戻ったからこそ、俺はもう彼女とはいられないと思ったんだ」
 赤司はそう言って、一度コーヒーを飲んだ。思い出すのは、ジャバウォック戦を勝ち抜いたあの日。"俺"でも"僕"でもない"赤司征十郎"に戻ったあの日の、あの突き抜けるような感触。泣いてしまいたかった。目の前の少女のように、何もかもかなぐり捨てて寂しいと泣いてしまいたいほど、からからに渇いた喉は寂寥感と喪失感に泣いていたのに、赤司は結局それを言葉にすることは出来なかった。ジャバウォック戦を見守っていた彼女へと視線を移す。彼女は泣きながら、赤司を見ていた。真っ直ぐで痛いほど純粋な瞳が赤司のたましいを一直線に貫く。

 彼女が、好きだった。柔らかく笑うその笑顔を、守りたいと思っていた。
「……だめだよ、」
 掠れた声が歓声に紛れて掻き消える。駄目だった。一人に戻った途端、かつての"僕"が感じた胸を裂くような痛みまで一緒くたに戻ってきてしまって、嗚呼もう駄目なんだな、と思った。彼女の事が、大好きだった。彼女だって、赤司が好きだった。でも赤司は、彼女のその勝利を余り重視しない価値観にたまに苛立ちを覚えたし、彼女は赤司の勝利に傾倒し過ぎる衝動を認め切れないでいた。それが決定的な分かれ道だったんだと今なら分かる。
 だって、赤司だって、人間だ。自分の信念を捻じ伏せてまで、自分を否定する相手と付き合い続けたいとは思わない。赤司の場合、付き合いはそのまま結婚も視野に入るのだからその程度は一般人と比べても歴然だ。抑え込んでいた本心を否定する相手と、どうやって安寧を築くと言うのだろう。赤司だって、安寧が欲しい。否定され続けて人生を生きるなんてうんざりだ。そして同時に、そんな酷なことを愛した彼女に強いることだけはしたくないと強く思う。赤司と共に居続ければ、彼女はずっと、自分の魂を痛めつける赤司の価値観を肌で感じ続けなければならない。それは、きっと、辛いだろう、苦しいだろう。だから、赤司は、手放した。
「……ごめん。俺は、君との未来を、思い描けない」
 好きだった。大好きだった。殴ってもいい、恋人よりも自分が可愛いのかと罵ってくれてもいい。全部、甘んじて受け止めよう。幸せになってくれなんて無責任なことは言わない、俺を忘れてなんて思いやりのない言葉も紡げない。ただ、君の未来に、安寧があればいいと思う。
「……さよなら」
 一人に戻ったあの特別な日の夜、赤司は特別な人を手放した。


「……赤司君らしいね」
 吹き荒ぶ風が散らした木葉を視線で追いながら、紗雪は小さくそう零した。窓の外では子供が母親に連れられて何かを叫んでいる。向こうからやってきた父親らしき影を見つけたところで、紗雪は赤司へと焦点を戻す。ぼんやりと外を眺めながら、紗雪はぽつぽつと語られる赤司の話に耳を傾けていた。曰く、赤司は、ジャバウォック戦の後、その足で観客席に居た彼女に会いに行って、その夜のうちに別れたらしい。彼女は帝光時代、変わってしまった赤司のやり方に賛同出来ず、別れを告げた筈だった。その後一年時のウィンターカップを経て元に戻った彼とよりを戻したかのように思えたが、人格が統合された今、否定されもう着いていけないと言われた人格も赤司という人間の一部に戻ってしまい、価値観が違う相手とは未来を見れないと、今度は赤司の方からそう言って振ったのだと言う。何とも赤司らしい理由だった。
「俺はね、折原さん。完全に賛同してくれとまでは言わないけれど、結婚するなら、俺の価値観に少なくとも不快感を持たない人であって欲しいと常々思っていたんだ。同時に、俺が不快感を抱かない価値観の人であって欲しいとも願ってる」
「喧嘩するから?」
「いいや。疲れるからだよ。社会人になったら仕事をするだろうし、職場できっと、お互いストレスをため込むだろうに、家に帰ってまで嫌な思いをしたくないんだ。帰るべき家は安寧の場であって欲しい。……俺は、どうしても勝利を、結果を、第一に考えてしまう。俺にとって、勝つことは基礎代謝……謂わば酸素だ。それが無ければ息が苦しい。なのに、自分を保つ必須要素を軽んじる発言をされたら、誰だって気分はよくないだろう?平常時なら問題無く我慢出来ても、ストレスが溜まっている時まで同じ対応が出来るとは限らない。疲れた時こそ癒されたいのに、返って嫌になってしまうなんて、そんなの本末転倒だ」

 こんなバスケに、何の意味があるの。
 勝ったってこんなんじゃ、何にも嬉しくないよ。

 かつて涙ながらに訴えられた言葉を思い返して、赤司は苦笑する。余裕が無くなった赤司は、確かに彼女を傷つけていた。彼女の重んじる友情とか、信念とか、そういう大事なものを、ずたずたに引き裂いた。でも、赤司だって、痛かったのだ。押し込んだ本心が呑み込み切れずに顔を出したその瞬間、間違っていると、それは酷いと、非難されて否定される。何だそんなものと、批判を跳ね除けて突き進んでいける理想の自分はもういない。溜め込んだ汚泥のような感情を喰らって、自分を守るために出てきてしまった出来の悪い弟のような本心は消えてしまった。勝利を欲しがる信念だけで行動出来たもう一人の自分とは違い、統合してしまった今は、別人格には振り分けられなかった社会性とか、配慮とか、そういうものも付随している。だって人間だ、そういうややこしいものがバランスよく形成を保って一つの人格が成り立っている。
 自分が駄目になりそうな時、本心が吐露されるその瞬間にこそ、ぶつかり合って譲れなくなってしまう相手とは、もう駄目だった。認めて欲しかった。自分の価値観を、信念を、思いを、否定しないで尊重して欲しかった。

「ねぇ、でもさ、赤司君」
「何だい」
「そういう話、自分のことを好いてる女の子の前で言うの、よくないと思う」
「え……?」
 嫌になるなぁ、なんて茶化した様に笑う紗雪と違って、赤司は心底驚いたように瞳を見開きぽかんとした表情で固まっていたが、紗雪は気にせずに言葉を続けた。
「男女逆にしてみてよ。自分を好きだと思ってる男の子の前で、彼と別れたんだーって哀愁漂わせて言う女の子。どう見ても次の彼氏は決まったって感じしない?」
「いや、そうじゃなくて、待って」
「俺なら君を泣かせたりしない、とか言っちゃったりしてね。嗚呼でも赤司君相手に言うなら、私なら赤司君を否定したりしないよ、かなぁ」
 赤司の言葉なんて無視して続ける。面食らったように唇をはくりと動かす仕草が何だか無性に可愛くて、笑みが零れた。
「……狡いこと言うけどさ、私じゃ駄目かな。別に今は好きじゃなくてもいいよ。ただ、可能性があるなら付き合って欲しいの。駄目?」
 そこまで一気に言い切って、紗雪は一度視線を落とし言葉を区切った。辺りを包む密やかな喧騒は暖房に溶かされてぼんやりと床に沈んでいる。ゆったりとした音楽を背後に、紗雪はまた一口コーヒーを飲んだ。もう一度赤司に視線を戻すと、彼は難しい顔で何やら考え込んでいる。困らせてしまったかな、と一瞬だけ後悔が顔を覗かせたが、それより先に「折原さん」と呼ぶ赤司の声に遮られて反射的に「はい」と返す。赤司は何と言うか少しだけ迷っているようだったが、その内に柔らかな笑みを携えてほんの僅かに紗雪の方へと身を乗り出した。


「……俺はね、折原さん。君の言葉の中で、一つだけ今も忘れられないものがあるんだ。中学の頃、俺が二重人格だと告げた時、君は俺の事、昔からこんな感じだと言ったね。実はあの時、俺は本当は――――凄く、嬉しかったんだ。"俺"を見ていた友人に、"僕"を肯定して貰えた事が。僕を否定しないでいてくれたことが、あの日の俺を、どれだけ救ったか、君は知らないだろう?」
 "僕"は"俺"の本音だった。結局赤司は"赤司"でしかなくて、黒子や彼女のように、人の気持ちだけが第一の最優先だなんて言えやしないのだろう。勝てなければ、何の意味も無い。今でも赤司はそう思っている。勝つ為なら、多少の苦難も忍耐も厭わない。それを認めてくれたこと、赤司は本当は、とても嬉しかった。もしかするとあの時から、赤司にとって紗雪は特別だったのかもしれない。
「……俺は、誰かを好きになる努力をするなら、折原さんが良いって思った。……いや、違うな。恋ではないかもしれないけれど、もうとっくに惹かれていると思う。未来を見れないって分かってた癖に、手放せなかった感情は、もう全部切り捨てて来た――――本当は、俺達の恋愛は、二年前のあの日に終わっていたんだ。否定されたその瞬間に、もう俺の感情は恋情じゃなくなっていた。それをずるずると引き摺って、君に迷惑かけて、俺なんかの為に、そんな言葉を言わせて、本当にすまなかった」
 紗雪が赤司を見る。赤司はじっとその瞳を見つめ返して、笑った。いつかに見た下手くそな笑みにそっくりで、今の赤司があの日の延長線にあるのだとようやく呑み込む。
「……俺でよければ、喜んで。君に出会えて、君と友人になれて、本当によかった。今日で友人は終わってしまうけれど、今度は恋人として……これからも、どうぞよろしく」
 クリスマスソングが硝子の向こうから響いている。紗雪は心底幸せそうに笑って、赤司に向かって頷いた。

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