不思議な匂いがする。何だか心地よい温度の水に浸かっているような心地を憶えて、私はごろんと寝返りを打った。
「ぃ、っつ……!」
 途端、ずきりと鈍い痛みが腰を襲って一気に微睡んでいた意識が覚醒する。慌てて身体を起こせばそこは見慣れた自分の部屋ではなくて、何が起こったのか思い出そうと記憶を探る前に腰の、というより下半身の痛みで何があったかはっきりと思い出して思わず片手で頭を押さえた。
「あー……」
 どうかしていた、という他ない。そうだ、昨日、自分はあの雲雀と一線を越えてしまったのだった。いや、一線を越えるという表現は厳密には正しくない。私と雲雀の間に越えるべき境界線などは存在しない。ただ都合よく便利な相手だったからお互い手を取り合ったというだけで、身体を重ねたからといって何かが変わるという訳ではないのだ。私は早々に思考を放棄して幾分かましになった身体を叱咤しベッドから抜け出す。足を動かすたびに少しだけ身体が軋んだが、別に動けないほどではない。床に落ちていた雲雀のスラックスを拾ってベルトと別々にし、扉を開けてリビングへと向かう。


 扉を開けてみたものの、雲雀の姿はどこにもなかった。何処に行ったのだろうと彼が寝ていたであろうソファへと回り込んでみたが、そこは既に昨夜のようにきちんと居住まいを正してあるべき姿に戻っているだけだった。皺があるとか、毛布が置きっぱなしになっているとか、そういう気配もまるで無い。ということは、彼が覚醒してからそれなりに時間が経っているということだ。私は雲雀を探してきょろきょろと視線を迷わせた。すると、マンションの扉を開く音がして誰かが部屋へと入って来る。誰かは迷いなく足を進めて、そのままリビングの扉を開く。
「……嗚呼、起きたの」
「雲雀さん、おはようございます」
「うん」
 当たり前といえば当たり前だが、誰かとは雲雀だった。私服を身に纏った雲雀は一瞬私の方へと視線をやったが、直ぐに逸らして何事も無かったかのように部屋の中央にあるテーブルへと白いビニール袋を転がした。何だろう、と思っていると雲雀の指先が中からパンを取り出して、その内の一つを私の方へと投げて寄越した。
「え、うわっ……」
「あげる」
「あ、え、どうも……?」
 言いながら、雲雀は自分の分の袋をさほど興味もなさそうに開封する。食べ物の匂いが鼻腔を擽って、そういえば昨日は夕飯を食べていなかったことを思い出した。今更ながらに鳴く腹の虫を抑えてとりあえず私はソファへと座って渡されたパンへと齧り付いた。美味しい、けれども、当然のようにパンを放り投げたということは、もしかして雲雀はこんな食生活をずっと続けているのだろうか。思わず部屋の隅に置いてあるゴミ箱へと視線を流してみれば、そこにも既製品らしき何かの袋が捨てられているのが見える。そういえば、雲雀が何かを食べている場面など見るのは初めてだった。
「……雲雀さん、朝ってパン派なんです?勝手に和食派かと思ってました」
「別に。でも食べるなら和食の方が好きだよ」
「へぇ、でもパンも食べるんですね、意外です」
「作るの面倒臭いし、食べたければ店に行くか呼べばいい」
「成る程……」
 何気に凄い発言が混ざってた。食べたければ店に行く、は分かる。それを日常的なこととして使用するのは嗚呼金持ちだな、程度で済まされるけれど、その次がちょっと意味が分からない。呼ぶって何だ。金持ちだな、じゃなくて、金持ちだこの人。それも多分、本物の。
「……あの、雲雀さん、つかぬことをお伺いしますが」
「何」
「此処ってもしかして、実家ではないですか?」
「うん」
「じゃああの、もしかして……ご実家って、お屋敷?」
「……何も持って屋敷の区分にするかは分からないけれど、そうだね、並中くらいは軽くある」
「……」
 何でこの人、こんなところで一つ二百円くらいのパン食べてるんだろう。いや違うその前に、何でこの人、たかが公立の治安悪い学校行って不良の頂点やってるんだろう。もの凄く気になったが、それを聞き出す前に雲雀は「御馳走様」と言って自分の分を平らげてしまった。きちんと挨拶をする辺り、案外行儀作法は徹底している。そういえば仕草も一々上品だった。色々と踏まえると、なるほど確かに、名家のお坊ちゃんであると言われてもむしろ納得がいく。多分一人っ子だろうな、と考えながら、私もパンを食べ切った。


 パンとはいえ結局朝ご飯まで御馳走になってしまって、その後シャワーを貸して貰って、借りていた服と引き換えに乾いていた制服を身に纏って、私は雲雀の家の玄関に立つ。放任主義的な両親とはいえ、さすがに午前中には帰った方がいいだろう。それに、余り雲雀の家に長居するのも申し訳ない。靴を履いて、もう一度お礼を言おうと後ろを振り向くと、雲雀は壁に凭れて両腕を緩く組み私の様子を無感情に眺めていた。
「えっと、お世話になりました」
「帰る間に倒れないでよ」
「大丈夫です、大分痛みは引きましたし、思ってたより雲雀さん、お上手だったので」
「ならいいけど……」
「はい、では失礼します」
「じゃあね。……嗚呼そうだ」
 雲雀の声が近くで聞こえて、何ですかと問う前に振り向いた唇が雲雀のそれと重なる。ちゅ、と音を立てて離された唇を、雲雀の指が繊細になぞる。反射的に自らの口を押さえた私に構わず、雲雀は少しだけ笑って私から離れた。
「結局呑まれる感覚は余り分からなかったけど、これは結構好きだよ」
 これ、がキスを指しているのだということくらい、私にも直ぐに分かる。またね、と笑って雲雀は踵を返し室内へと戻っていってしまった。私は溜息をついて脚を動かし、部屋の外へと出る。朝の空気が身体を包んで心地いい。またね、と言った声に込められた熱量も、ちゃんと分かっている。鈍痛を訴える腰を押さえながら、次はいつこの部屋に来るんだろうなぁ、とぼんやり考えた。

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