夏だ。
 眩しい太陽が容赦無くアスファルトを焦げ付かせて、私の脆弱な肉体を貫く。時間が経つのは早いもので、雲雀と夏の始まりに身体を重ねてからあっという間に夏休みへと差し掛かってしまった。あれ以来、雲雀は夏に浮かれる彼の言うところの草食動物の対処に忙しいのか、校内ですら中々姿を見なくなってしまっていた。別に寂しいとは思わない。長い時では一か月何の触れ合いも無いことだってあったのだ。ようやく友達も出来たし、私は私で自分のことに忙しかったとも言える。
 季節は、夏休みになった。とはいっても、何かが劇的に変わる訳では無い。適当に宿題をして、時々遊びに行って、後はだらだらする、これこそ学生の夏の醍醐味だ。突き抜けるみたいな青空の中、こんな空の下で眠っているなんてもったいないと思うような季節に、惰眠を貪り貴重な午前を無駄にするのが最高に気持ちいい。何て、多分雲雀に聞かれたら呆れられるだろうなぁ。

 そう言えば、物凄く今更だが、夏休みの間、雲雀と私はどうするのだろう。今までは学校があったから特に頭を悩ませなくても出会うことが出来た。会えなくても、根気よく応接室に向かえば何度目かには会える。家は知っているから、突然押しかけるという手もあるが、忙しかったら申し訳ない。
 こんな眩暈のする青空ばかりを見ていると、時々雲雀に会いたくなる。冷たい陶器の肌に触れて、その氷みたいな瞳で私を冷やして欲しくなる。そうしてお互い汗だくになるまで溶かし合って、無性に胸の奥を圧迫する何かを雲雀の部屋に捨てて帰りたい。雲雀はきっと私の捨てた何かになんて見向きもせずに、私に無関心で何度でも出迎えて、そして見送ってくれるだろうから。そういえば最後に雲雀とした時はクーラーを使わなくって、汗を滴らせる珍しい雲雀を見上げていたっけ。
「……あ、当たりだ」
 食べ歩いていたアイスの棒に書かれた丸みのある文字を眺めて小さく呟く。隣を歩いていた友達がいいなぁと明るく笑う。二本目は半分こしようよ、なんて話しながら次のコンビニに寄って同じアイスと交換した。ぱり、と、袋を開ける音が鼓膜を揺らす。嗚呼、今日もいい天気。


 結局、夏休みの間どうするのかというささやかな疑問は八月上旬に訪れたプールでばったり出会うという展開で決着が着いた。プールで、とは言っても、出逢ったのは勿論昼間じゃないし、市民プールでもない。私の身体は拒食症だ。骨が浮いていて病的に細く、常々雲雀が言っているようにぶつかると痛い。そんな身体の私が、水着なんて着て皆と一緒に泳げるだろうか。答えは否だ。別に泳ぎが嫌いなわけじゃないし、むしろ泳ぐのは好きだから、叶うことなら泳ぎたい。でも、それは憚られた。せっかく出来た友達に、気持ち悪い身体だと言われたくなくて、一緒にプールに行けなくて、自己嫌悪に陥りながら並中のプールへと足を運んだとき――――誰もいないプールで一人、足を水に浸けている私の元に、雲雀は現れた。
「……雲雀、さん?」
「何してんの、君」
 風にたなびく黒壇と、月明かりに映える白皙。そして、相変わらずの氷みたいな灰青色。雲雀を映したきり何も揺らぐことない水面はまるで明鏡止水だ。私は一瞬ここでは無いどこかに放り出されたような心地がして、茫然と雲雀を見上げた。雲雀は相変わらずきっちりとした制服に身を包み、片腕には風紀の腕章を付けている。
「……プールに、入りたく、て」
 まるで操られたように言葉が零れる。雲雀は少しだけ意外そうに瞳を僅かに見開いたが、直ぐに常の無表情に戻って数歩私の方へと歩み寄る。そしてそっと長い足を折り畳み、私の傍へとしゃがみ込んだ。
「夏季休暇中とはいえ、私服で学内に入るのは許さないよ。夜間のプールも駄目だし、そもそも着たままプールに入るな」
 清々しいまでの正論だった。久し振りに会っても彼は何も変わらない。それがあんまりにも雲雀らしくて、思わず笑みが零れる。
「はは、……すみません、本気で入ろうとは思ってませんよ。でも、私服で校内に入ったのは謝ります」
 ぱちゃん、と、密かな水音を立てて足を引き抜く。綺麗な波紋を描く水面へと視線を投げて、そしてもう一度雲雀へと視線を戻した。そういえば、今日は満月だ。すらりとした雲雀の肢体が月明かりに照らされて、寒々しい陰影を描き出している。そういえばあの日も、雲雀の肌に生まれた陰にぞっとしたなぁ、と今更ながらに思い出した。陽光と月光では、雲雀の見え方も大分違う。どこかにいってしまいそうな気配がどうにも濃厚に取り巻いているから、私は月光の方が何となく好きだ。ねぇ雲雀、今の貴方はちょっとでもその肩を押してしまったら、非力な私の力でも直ぐにその水面に落ちてしまいそうだね。そしてそのまま、水の中に沈んで上がってきてくれないような気さえする。私は何だか夢見心地で、白々とした月光を浴びる雲雀へと手を伸ばす。雲雀の真っ白なシャツへと指先をかけて、私はそのままくんと手を引いた。

「っ……!?」
「え、うわっ……!」

 がくん、と傾いた雲雀の身体が私の方へと崩れてきて、水面へと傾く前に私の方へと覆い被さるように膝を付く。衝撃で私の身体が宙へと投げ出され、あ、と言う間も無く私は塩素の匂いに包まれた。
 慌てて沈み込んだ水面から顔を上げると、雲雀は今度こそ全身で呆れを示して私を見下ろしている。確かにそうだ、雲雀を水の中に落とそうと引っ張ったというのに、代わりに自分が落ちては意味がないだろう。全身ずぶ濡れになった私はげほげほと咽込みながらプールサイドへと手を掛けて水滴を滴らせながら雲雀を見た。
「馬鹿なんじゃないの、全く」
 そう言いつつも校則違反者として咬み殺さない辺り、多分雲雀は私に甘いし、だけどプールから上がるのに苦戦している私に手を差し伸ばさないところが何となく、雲雀らしいと思う。結局その日は雲雀の家に泊まって、そしてその一日が、私と雲雀がこの夏休みで唯一、身体を交えた時間だった。月明かりの下の雲雀は美しい、あの繊細な美貌がこのまなこから掻き消えるまでは、私は雲雀に会わなくてもいいと思ったのだ。

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