雲雀と最初にそういうことをしたのは結構前になる。一番最初、出逢ったのは一年生の四月。
 私は拒食症からくる過度の虚弱からあまりクラスに馴染めず、誰もが嫌がる役割を自然と回されるようになりつつあった。その日もクラスのプリントを応接室に持っていくという嫌な事ベスト10(それもぶっりぎりの一位)に入る仕事を任されて、仕方なしに応接室の扉を潜った。いや、正確には潜ろうと、した。
 何というタイミングだろう、両手でプリントを抱えていた私が扉を開けようと応接室の前に立った途端、中でふっ飛ばされた不良(多分三年生)が扉ごと廊下へぶち抜いて来て、それに当たった私は身体を捻っていたものだからそのまま応接室の中へとプリントごと倒れ込んでしまったのだった。あ、という間もなく視界が傾く。空中を舞う白いプリントの束を半ば茫然と見上げながら訪れるであろう衝撃を覚悟して目を閉じたが、数秒経ってもその瞬間はやって来なかった。

「……」

 おそるおそる、閉じていた瞼を持ち上げる。そして私はぱっと瞳を見開いた。
「……、…君、生きてる?」
 開け放された窓から入り込む風が舞い上げたプリントが、まるで天使の羽のようだった。真っ白な肌に映える黒壇の髪と、澄んだ灰青色の氷みたいな眼。きっちり着込まれた制服に包まれた白皙に飛び散った赤があまりに鮮烈で、私は自分の目を疑った。思えば最初から、私は雲雀を人間だとは思わなかった。咄嗟に受け止めてくれたのだろう彼のしなやかな腕の感触を遅れて感じて、ようやく自分の状況を認識した。けれど同時に、零された問い掛けの意味を計り兼ねて首を傾げる。
「あ、えっと……ありがとう、ございます……ええっと、生きて、ます?」
「そう、……服着てるのに骨に当たったから、人体模型が化けて出たのかと」
「すみません……?」
 冬の朝みたいに温度の低い人だな、と思った。本気なのか冗談なのか分からない、そういえば先程の不良はこの部屋から飛んできたから、つまりこの人が噂の"ヒバリさん"なのだろう。群れていると咬み殺される、最強無敵の風紀委員長。もっとごつくて、厳つくて、全面的に恐ろしい人なのかと思っていた。ふっ飛ばされた人を見なかったら、とてもじゃないが彼が不良の頂点だなんて思わない。雰囲気は強烈に異端だが、見目が華奢過ぎる。
 直ぐに離されてしまった腕の動きは木陰に消えていく野良猫に似ていて、つい視線で追いかけてしまう。その腕が次に散らばったプリントに伸ばされたのを見て、私は慌てて身体を立て直し床に膝を付いて床一面を覆うプリントを拾った。
「すっ、すみません……!お手を煩わせてしまって!」
「いいよ、別に。これどこの分?」
「一年C組です」
「そう、でも君はクラス委員じゃないね」
「えーっと……何だか用事があったみたいで、私が代わりに」
「ふぅん」
 お世辞にも愛想がいいとは言えない喋り方だったが、不思議と不快感は湧かなかった。私に何の興味も無さそうな視線は少しだけ居心地が悪かったが、逆に考えれば、彼は私に負の感情を持っていないとも言える。雲雀は拾ったプリントを纏めて数を数えると、視線さえ寄越さず「もういいよ」とだけ言った。私は素直に頷いてドアを開ける必要の無くなった入口を潜って自分の教室へと戻る。廊下では未だ不良が伸びていたが、多分あのままでも大丈夫だろう。今までだってそうやってこの学校は回っていたのだから、下手に手を出すのも何だか申し訳ない。


 それからしばらく雲雀とは会わなかった。当然だ、別に私と雲雀は友達どころか知り合いですらない、私はあんまりにも強烈な彼のことを忘れられそうになかったけれど、雲雀もそうであるとは限らない。と、いうか、多分忘れているだろう。そして実際に雲雀は次に会った時、忘れていた。また不良を、今度は一度に十人近くを相手に大暴れした後、ふっ飛ばされた男に巻き込まれて地面に潰れていたいた私を無造作に掴み上げて「生きてる?」と最初と似た台詞を口にした。
「な、何とか……」
「ふぅん。弱い癖に群れてないとこだけは評価してあげるけど、君、脆弱な草食動物の中でもことさら貧弱だね」
 すぐ折れそう、と骨の浮いた手首を掴んだ儘そら恐ろしいことを言われて、ぱっと反射的に腕を引いた。雲雀は特に何かする訳でも無く、私が手を引く瞬間に合わせて指先の力を抜いた。ぴんと張った指先が空気に踊って、流れるような動作で片腕が落ちる。何でこの人、動作が一々上品なんだろう。
「あの、雲雀さん……二度も、ありがとうございます」
「二度?」
「ええと、前に一度、応接室で……」
「……嗚呼、人体模型」
「違います」
 これで彼に助けてもらったのは二度目だった。二回とも、飛んできた不良に巻き込まれた被害というのが情けない話だが、最強の不良と名高い彼が二度とも一応拾い上げてくれたというのも中々衝撃的な対応だろう。でもその後の人体模型呼ばわりは泣いた。涙は出てないけれど心で泣いた、待って何その認識、思い出してくれたのはちょっとだけ嬉しいが、この一言で彼の中の自分の印象が分かった。速攻で訂正を入れるも雲雀は多分聞いてない。

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