これ以降、悲しいかな、雲雀の中での私は完全に人体模型になってしまったらしく、偶に校内ですれ違うと「やぁ、人体模型」と呼ばれるようになってしまった。「違います、舞原祐希です」とそのたびに訂正を入れるが聞き入れられた試しはない。相変わらずクラスメイトとは上手くいっていないので、雲雀に会うのは一人切りの時が多かった。雲雀の機嫌を損ねない限り、そして群れていない限りは、咬み殺すと称して殴られることも無い。


「やぁ人体模型、相変わらず骨っぽいね」
「おはようございます雲雀さん、人体模型じゃありません。最近は一キロ増えましたよ」

「人体模型、生きてる?」
「生きて……ます……人体模型じゃありません……ちょっと体育が、マラソン、で……」

「人体模型、昼食食べなよ」
「食べると吐くんです」
「じゃあ夜」
「いつ食べても吐きます」
「朝」
「人の話聞いて下さい」


 雲雀との会話は微妙に成り立っていないことが多かった。彼はとりあえず思ったことだけをそのままぽんぽんと口にする性質であるらしかったし、言いたいことだけ言って返事を待たずに消えてしまうことも少なくない。つまりもの凄く自分勝手なのだけれど、私はその野良猫みたいな気紛れさが嫌いでは無かった。この頃にはようやく私にも少しだけまともに話を出来る友人のような存在が出来始めていたのだが、変な話、一番気安く言葉を飛ばせたのはきっと雲雀だと思う。
 雲雀は不思議なほど私に暴力を振るわなかった。勿論、親しい人間の少ない私が一人でいることが多かったから、というのもあるだろうが、二度会っただけの関係にしてはいやに私を気にかけてくれていた、と思う。昼食の匂いで溢れ返る教室から逃げ出して中庭の隅に蹲っていた私に付き合って、十分近くどうでもいい話をして帰った日もあった。十分。群れることも弱い人間も嫌う雲雀が、十分も、他人に付き合った。これはきっともの凄いことだ。表立って何か関係というものを築いた訳では無かったが、私はこの距離感に満足し切っていた。
 そんな関係が続いていた、ある日のことだった。私はその日、知り合い以上友人未満のような関係を築いている他クラスの女の子と昼休みに話していて、そのついでに彼女から雑誌を借りていた。放課後、誰もいない教室でそれを読んでいた最中、何だか無性に眠たくなってしまって――――気付いたら、私の意識はふわふわとした、黒とも白とも付かない微睡みの中に落ちていた。




 規則的な、そして微細な、何かを捲る音が遠慮がちに鼓膜を揺らす。私は夢と現の狭間を行ったり来たりしながら、次第にぬるま湯のような心地よい眠りの中から意識を掬い上げて、そして次の瞬間、一気に意識が覚醒してはっとして顔を上げた。
「っ……!!」
 辺りは絵の具を撒き散らしたみたいなオレンジ色に満ちている。辛うじて室内を歩き回るのに支障はないが、もう大分時間は経ってしまっているだろう。もう施錠の時間は過ぎてしまっただろうか。慌てて顔を埋めていた鞄を持って立とうとしたその瞬間、私の目の前に足を組んで座っている美少年を認めて、面白い位に全身の筋肉が固まった。
「やぁ」
「……え?」
 何でもないように声を上げるその人は泣く子も黙る我が校の風紀委員長様その人で、一体何をしているのかと問いたいものの、余りのことに言葉が出てこず文字通り固まる。しかも、彼の手元に広げられているものは借りたばかりの女子向けの雑誌だ。きらきらとした派手なロゴとばっちりメイクした可愛らしいモデルさんの表紙は、あんまりにも雲雀に似合わない。似合わなさ過ぎて合成かと思えるくらいだ。けれど現実として雲雀は一度も視線を上げずに手にした雑誌を淡々と眺めている。詰まらなさそう、というほどではないが、勿論興味津々という風でもない。ぎりぎり退屈ではない、の範疇だ。多分。きっと未知の物体だから暇潰しに手に取ったのだろう。あれ、でも何でそもそも彼がここにいたのか。
「……戸締りの確認に、見回りに来たんだけど」
「はい」
 まるで思考を読んだかのようなタイミングで零された言葉に反射的に返事を返す。ぺらり、繊細な指先がまたページを捲った。どんどん瞳が眠そうに細まっていっているから、これは多分徐々に退屈していっているな。
「此処だけ、君が寝てたから、待ってた」
 ふ、と整った唇から吐息が流れ落ちた。そこでようやく視線が持ち上がる。相変わらず硬質な瞳とは正反対の、女子の雑誌にありがちな少々過激な特集ページが彼の手元に大きく広がっていて、私はそのマイペースさに少々頭痛を憶えた。

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